第4話 ハイダー


 書斎から戻ってきた五味教授は手にノートをいくつも持っていた。全て「ハイダー研究まとめ」と題名が書かれ、古いものから順に番号が振られていた。


 テーブルに置かれた古いノートを捲ると先ほど五味教授から聞かされた〝ハイダー〟の概要のようなものが事細かに書かれていた。難しい説明もたくさん書かれていて、思わず眉間を人差し指と親指で揉んだ。


「とりあえず、〝ハイダー〟は死んだ人間の身体に乗り移る……幽霊みたいな存在だと覚えておけばいいですか?」


「そうだね。意思は持たない幽霊だと思ってくれていいよ。死んだ身体に憑りついて、歪んだ形でその身体の持ち主の願いを叶えるだけの存在」


「願いを叶えるだけならいいと思いますけど、歪んだ形って……」


「さっき話したように事件の犯人が〝ハイダー〟かもしれないって言っただろう? 願いを叶え方として、罪を犯したり、本来、身体の持ち主が望んでいなかったような事をし始める」


 五味教授は、具体例をあげようとノートのページを捲り始めた。そのノートは五つ目のノートで、彼の捲ったページには新聞の記事などが貼り付けられて、他のノートよりも分厚くなっていた。


 例えば、消費者金融にお金を借りた末に首を括った男は、銀行強盗をして、お金が入った鞄を手にして、逃げる途中に交通事故にあい、死んでしまった。事故は他の車を巻き込むことはなく、お金をのせたまま、崖から海に落ちてしまった。


 例えば、友達が欲しいと考えていた女子学生は自宅で首を掻き切った後、自分のことをいじめていた生徒を階段から突き落として、他のクラスメイトにも危害をくわえて、転校した先でも同じようなことをしてしまった。


 そんなどうしようもない結末ばかりの例があげられた。

 これで、願いを叶えようとしていると言われても、しっくりこない。


「〝ハイダー〟に意思はないと言ったのは、彼らは楽しいから歪んだ形で願いを叶えているわけではなく、ただ淡々と死体の持ち主になり切って、願いを叶えようとしているからなんだ。願いが叶って、消滅することも彼らは気にしていない」


「〝ハイダー〟が人に憑りつくとして……本当に願いを叶えたら、消滅するんですか? 死体から出て行って、別の死体に憑りつくとか……」


「その可能性もあるけど、なにせ〝ハイダーに関しては分かっていないことが多すぎてね」


 実態を持たないものの研究とはそういうものかもしれない。昔から幽霊の存在はまことしやかに囁かれているのに、幽霊は科学では証明できないものとされている。


 もしかしたら、〝ハイダー〟も幽霊と同じで科学で説明しようとしても無駄な存在じゃないのか。


「でも、本当に〝ハイダー〟なんているんですか?」


 この家に来てから、五味教授が真剣に話をしてくれたから、気にしないでいたが、やっぱり僕は幽霊のような存在は信じきることができない。こんなことを言ったら、五味教授は怒るんじゃないだろうかと少しだけ不安になりながらも、疑問をぶつけると五味教授は困った顔をした。


 しかし、僕の疑問はもっともなものだと彼はノートを閉じた。


「私もこの研究を先輩から見せられた時は半信半疑でね。いくら、そのような怪物がいたとしても、死んだ人間が怪物になったらさすがに分かるだろうと……」


 彼はもう一度、ノートを開いて、最初のページを僕に見せるようにテーブルの上に置いた。新聞の切り抜き記事ではない、文字だけが羅列したそこには「妻が〝ハイダー〟だった」という一文から始まっていた。


 弾かれたように顔をあげて、五味教授の顔を見ると彼はどこか悲しそうにしていた。


「妻は私との間に子どもができないことを悩んでいたんだ。病院で調べた結果、妻は不妊症でね……。私は大丈夫だと言ったんだが、子どもを強く望んでいた彼女にはそれが辛かったみたいで……」


 ノートのそのページには雫が落ちた跡が残っていた。彼はそれを指先でなぞりながら、語る。


「私が仕事で数日帰らないうちに自殺したんだろう。しかし、その死体に〝ハイダー〟が入り込んでいた。私はそれも気づかずに妻との生活を続け、奇跡的に妻は妊娠した」


 待ってほしい。

 妊娠したとしても、その時、本当の五味教授の奥さんは死んでいたことになるじゃないか。だとしたら、と僕は隣に座っているつばめさんを見やった。


「そして、産婦人科で妻はつばめを出産したと同時に息絶えた。彼女の身体は死後三年ほど経過した状態になっていて、産婦人科の人達も立ち会った私も息を呑んだよ」


 その話が本当なら、僕の隣にいるつばめさんはなんだ?

 人間なのか? それとも……。


「妻の願いは子どもを産むことだったんだろう。そして、願いを叶えたから、妻の身体から消滅した」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 僕はつばめさんから目を離して、五味教授を見た。今の話だと腑に落ちないところがある。


「〝ハイダー〟は身体の持ち主の願いを歪んだ形で叶えるんですよね? でも、五味教授の奥さんの願いは子どもを産むことだった。つばめさんが産まれたのなら、願いは正しく叶ったんじゃないんですか?」


 つばめさんはこうして生きている。産んだとしても死産だったというのなら歪んだ願いと言われても分かる。でも、生きているのなら願いは叶ったはずだ。


「つばめはとある体質があるんだ。そのせいで小学校も中学校も高校も通えなかった」

「……」


 僕は小学校まで通っていたが、つばめさんは生まれつきのとある体質のせいで最初から集団生活ができなかったのか。だから、あんなに僕が友達になると言って、喜んでくれたんだろう。


「目の前で妻の死後数年の死体を見て、つばめの体質が分かって、私は眉唾物だと思っていた〝ハイダー〟の研究をしようと思ったんだ。民族学の片手間ではあるけどね」


 十冊ほどはあるノートには隙間なくびっしりと文字や新聞の切り抜きが載っている。これが片手間やった成果なら、本業の民族の教授としての仕事はどれだけすごいのだろう。


 外からキンコンカンコンと耳慣れた音が聞こえてくる。左の腕時計が示しているのは午後五時。腕時計から顔をあげると五味教授はにっこりと微笑んだ。


「今日はもう遅いから送っていこう。家の場所を教えるのが嫌なら、最寄りの駅まで送るよ」

「あ、はい。とりあえず、最寄りの駅で……」


 用心のために最寄りの駅の一駅隣の駅の名前を出して、僕は送ってもらうと駅の近くのファミレスで少し早めの夕飯を食べて、電車に乗った。

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