……えっ!?
涼しい風に揺れる満開に咲き誇る桜の木々。
彼女の制服が汚れないようにと、茶色のベンチに散っていた桃色の花びらを手で払いながら、掌で席へと誘導する。
「ありがとっ♪」
立ったまま話をしようか。いや、それだと上から目線で生意気な奴だと思われてしまうかもしれない。
穏やかで心地良いはずだったの帰路のはずなのに、どうしてこんなに緊張しなきゃいけないのか。
確か一般的な
なら、俺の場合はもう少し離れるくらいが適正か。
きっとそうだろう。出来ることなら、俺の臭いをかぎ取れないくらいにまで距離を置きたいところではある。
けれどそうはいかない。不自然な距離の取り方は、彼女にどう思われるかわからないからな。
「何してるの? 早く座りなよ?」
「……えっ?」
俺にとっては今後の人生を決める大事な選択肢。
けれど彼女は空いている隣を叩きながら、俺の葛藤を容易く踏み潰す選択を要求してきた。
彼女はその美貌と欠片も釣り合わない俺に、いちゃこらしているバカップルと同じような距離にまで近づけと、つまりはそう言ったのか。
寝不足で幻聴でも聞こえたかな。さては自分でも思っている以上に浮ついているんだな。
「ほら、早く来てよ。座って座って♡」
最早十五年を共にした脳すら疑いだした俺に、更なる追い打ちで幻聴説を否定してくる
最早逃れることは不可能。抗うことも当然叶わない。
姉に嗅がれては何か変な顔をされる我が体臭。彼女の鼻が詰まっていることを祈りながら、体を軋ませながら着席していく。
まるで錆び付いた機械。くそったれ、入学式でも卒業式でも黒板の前に立たされて発表をするときだってこんない緊張したことはないぞ。
「ほらもっと近づいて! それじゃ同じベンチに座る意味がないじゃん!」
出来るだけ端に寄って座ろうとした俺の腕を彼女は掴み、咄嗟では抗えないくらい強く引っ張られる。
意味とかいるのか。というか意味って何なんだ。っていうか腕が胸に当たっているだけどどういうことぉ!?
先ほどのコンビニと違って、完全に誤魔化しのきかない瞬間。
最早この瞬間が痴漢誘発の撒き餌とか、この後危ないお兄さんに裏へ連れて行かせる用の
美人の誘惑って嬉しい者じゃなくて怖い物なんだと、骨の髄まで
「んふー♡」
冷や汗落ちる首筋を鼻で擽りながら、彼女は何やら甘ったるい微声を漏らしてくる。
恐らく人生で一二を争うくらいであろう、よその女性との接近。
姉と違って身内じゃないからか、最早興奮よりも恐怖が勝って仕方がない。
きっと端から見れば、俺たちは帰宅途中の公園でいちゃついたカップルに見えているのだろう。
けれど心情的にはその真逆、彼女が捕食者で俺が獲物だと自覚できるくらいに力関係がある。
蛸に巻き付かれた魚が如く逃げることも、理性
ああ、ごめんよ全国の痴漢に悩まされる女性達。
痴漢なんて声を上げればそれで解決だと思っていたけど、当事者はそんな心境じゃなかったんだね。
「……あ、あの!」
「んんー? っぁ……ご、ごめんね! ちょっと抑えきれなくて!」
しばらくして、ようやく我に返ったように首から顔を離す
頬を火照ったように赤く染まり、息は艶めかしく乱した様。
まるで蛾にとっての誘蛾灯。
同い年であるはずなのに、まるで
「い、いきなりなんなんだよ」
「えへへー。ちょっと暴走しちゃってさ。ごめんね? いきなりは怖かったでしょ?」
上手く問い詰めることの出来ない俺を安心させるように、彼女の手は俺の手を優しく包みこむ。
宝石でも触るかのように丁寧に、そして赤ん坊の肌をつつくときのように暖かみを持った手。
手を握る、言葉にすれば実に単純で短い動作。
けれどそのたった一つの動作だけで、先ほどまでの恐怖は好意へと変換されていくのを実感する。
美人はずるいとはよく言ったもの。
流されやすい自分の心があれなのかもしれないが、それでも世の摂理はこれほど単純なんだと理解せざるを得なかった。
「でも、君も悪いんだよ? だってせっかく出会えたっていうのに、狼に狙われた羊みたいに逃げてっちゃうんだからさ」
そこも可愛いのだけどね、と。彼女は例え通り、餌を前にした狼のように顔を緩ませた。
「……それは悪かった。けどそれだけの話だろう。君──」
「桜」
「……桜さんみたいな美人が、そんな小さな事を気にする理由にはなってないだろ」
ぐぐもりながらもなんとか吐けた俺の言葉は、一瞬だけ彼女をきょとんとした表情に変える。
理由、そう理由だ。
所詮は落とし物一つ。たかがとつけてもなお表現しきれないくらいにはどうでもいいこと、そんなことで美人が俺ににここまでする理由にはどこにもないはずだ。
だからこそ解せない。
例えこのちょっとぶっ飛んだ善意が本物だとしても、俺はそれに身を任せることが出来ないのだ。
風が吹く。桜が舞う。──一瞬の静寂が俺と彼女を包みこむ。
「……何それ。どうでもいいことを気にするね」
「けど確かに君らしい。どうしようもないほどの臆病でズレ差加減。……うん、君は何にも変わらないね」
やがて口を押さえながら、彼女は心の底から楽しそうに笑いを
何を頷いているのだろう。解決するために尋ねたのに、疑問はより深くなる一方だ。
口振り的に彼女は俺を知っている。恐らく誰と聞かずとも、名前を言えるくらいには俺のことを把握していると推測出来なくもない。
だけど俺は真逆。彼女について何も知らず、会ったことも姿を見たことすらない。
だからこそ頭を悩ませる。
今見せた笑みは都合の良い
理解できない、これっぽちも理解できない。
それなのに無駄な思考がぐるぐると頭を巡り続けていて、まともな答えを碌に生み出せやしない。
彼女が何者なのか。俺なんぞと彼女のどこに縁があったのか。
情緒的な状況と張り裂けそうな心臓は、内に眠る記憶を探ることすら許してくれなかい。
「でもそっか、反応的に覚えてないか。……ショックだなぁ。君にとっては大したことない些末事だったとしても、私にとってあれは生きる希望だったのになぁ」
「……は?」
「まあそうだよね。過去に私たちが結びついたのはその時だけ、大事なのはこれからの築く関係だもんね」
意味深なことを言いながら、彼女は握る俺の手を自身の胸に触れさせてくる。
固くなった体で抵抗しようとするも力は出ず、どくどくと音を上げて鼓動する心臓を、制服と柔らかい胸の上から感じ取る。
「わかる? こんなどきどきするのは三回目、そのうち二回は君が原因なんだよ?」
……なんだそれ、生憎こっちには欠片の覚えもない。
「誰にも邪魔されずに君と話せる時間。このときをずーっと待っていたんだ」
「……ずーっと?」
「ずーーっと……だよ?」
彼女は俺を覗き込みながら、思いを凝縮したかのように言葉を伸ばす。
俺の目に映るのは、透き通った若草色に近い翡翠の瞳。
日本人には珍しい色彩。けれどそれは異物にはならず、彼女の美しさを更に惹き立たせる魔性の輝きを秘める。
だが一つだけ。
この何もかも可笑しい状況を目を瞑ろうと、疑問を抱かなくてはならない点が見つかってしまう。
……なぜ、どうして。
彼女の瞳には人が持つはず出ない模様──桃色のハート型が浮かんでいるのだろうか。
「だからね?」
「──えっ」
「これから三年間。出来るなら末永く、よろしくね?」
呆然としていた俺の頬に感じたのは、刹那だけの感触。
何をされたのか。認識し呑み込む前には、もう彼女は手を振りながらここを離れていた。
残されたのは何も分からない俺、そしてコンビニで買ったお菓子の入った袋が一つ。
どうしてか俺の好きなお菓子しか入っていない、俺が一度も触れていない袋が、かさかさと風に揺れるだけだった。
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