帰り

 案の定、入学式は退屈に始まりそのまま終わった。

 

 特に話しかけることもなく、先の疾走を問われることもなかった。

 心の中は安堵が九割と落胆が一割。ここから何かが始まるのではないか、そんな期待をしてしまうのは仕方のないことだろう。

 

 まあでも俺は所詮は地味の権化。

 限度を超えた奇行に走れば爪弾き者。どれだけ優れた善行を為そうが噂にすらならない程度。それ以外は記憶にも残らないにしか存在感はないのだから。


「……神チキ買おっと」


 小腹が空いた帰り道に、ふと脳裏を掠めたのはちょっと高いコンビニジャンク。

 もう脂メインなんじゃないかと思う下品で暴力的な脂身。せっかくの高校初日の味気なさには丁度良いくらいインパクトのあるものだ。

 財布の中身は確か七百円ほど。税抜きで一つ三百円なので、懐を痛めることもない。

 

 そうと決まれば早速買いに行こうと、携帯を取り出し一番近いコンビニを検索していく。

 ふむふむ。ここから真っ直ぐにコンビニマーク……神チキ対応店は駅近くにあるだけか。

 どうしてこうも違うコンビニがたくさんあるのかと。くだらない思考に囚われながら、周囲の散策ついでに見渡しながら歩いていく。


 今日と受験、あとは説明会くらいしか来たことのない地域。

 家から大体十駅ほどで特別離れているわけでもないと大人は言うが、それでも高校生にとっては立派に遠出していると言っていい距離だろう。

 人はこうやって生活領域を広げていくんだとしみじみ思いながらしばらく歩き、目的のコンビニへと入店した。

 

「……らっしゃいやせー」


 気怠そうな店員の声を受けながら店内を物色していく。

 どうせ買う物は決まっているが、こういう無駄な時間が一番楽しいんだよな。

 このカードゲームの新弾出てたんだとか、このスイーツの新しい味が出来たんだとか。そんな人によってはどうでもいいことを発見して、ちょっと日常に変化を付けてみたりなど。

 

 特別幸せなことなんて、期待はするけど必要ない。そして特別不幸なことはもっといらない。

 所詮は何も生まず何も為さない凡人の一生。

 寝たら悪夢に苛まれそうな悪いことをしなければ、人に過度な迷惑を掛けなければそれで万々歳。──それが一番幸せなことなのだ。


 ……ま、今日の朝みたいな刺激も欲しかったりするけどな。


「──あ、あ……朝の人だよね!」


 そんな日常を切り裂くように声を掛けられたのは、週刊誌を立ち読みし終わって神チキを買って帰ろうか思っていた頃だった。

 声は近い。俺じゃないと勘違いできるような状況じゃない。

 聞いたことのある声に戸惑いながら、油の切れた歯車のような速度で首を曲げる。


 声の主はちょっぴりの刺激を求めた脳による幻聴などではなく。

 まごうことなき朝の究極美少女が、心の底から嬉しさを全面に出しながら俺を見ていた。


「……えっと」

「こんなところで会えるなって偶然だね! もしかして運命……なんてね?」


 何も持たぬ俺の手を握りながら、餅のように柔らかい笑顔を見せてくる少女。

 人の優劣関係なく、男であれば思わず勘違いしたくなるほどの愛らしさ。俺よりもちょっとだけ高い目線が、尚のこと秘めたフェチズムを刺激してくる。

 

 ……確か春見桜かすみさくらとか、そんな風な名前だったよな。

 しっかりしろ、間違えたら明日から地獄の日々だぞ。こんな学校も糞もないところで地雷を起動させたらしゃれにならないだろうがよ。


 まるで天使が爆弾持って突撃してきたような状況に、雛鳥レベルで脆弱な心臓はびくびくと震えてしまう。

 それでも懸命に思考を纏めようとするが、彼女の手の柔らかさと笑顔がそれを許してくれない。

 そもそもどうして話しかけてきた。いくら朝に縁があったとして、そこから始まる可能性があるのは物語の中だけのはずだ。

 

 ていの良い鴨だと思われたのか、或いはそれほどに義理堅い真性の善人だったりするのか。

 いずれにしても、話しかけられたのは疑うことなき事実そのもの。そして今、無理矢理にでも絞り出さないといけないのは、この状況をどうするかということだ。


「……えっと、春見かすみさん」

さくら

「…………さ、さくらさん?」


 しどろもどろに呟くしか出来なかった俺に、彼女はよしと満足気に頷く。

 何で強引に名前呼びを強制されてるんだ。もしや美男美女ってのは、名前で呼び合わないと罪になる海外基準がデフォルトだったりするのか。

 

 一言話す度、段々拍子に増えていってる気がする疑問。

 いよいよ処理しきれなくなっている俺の心の内などお構いなしに、彼女は俺の理性を刈り取るように腕にしがみついてくる。

 何これカップルが良くやってる奴じゃん。お胸の感触とか腕にダイレクトに伝わってくる定番のあれじゃん。

 

「ちょっとお話したいんだけど、いいかな?」

「大丈夫です」


 彼女は持ち前の美貌を理解していると、確信して思えるほどの人を堕とす目。

 いつもなら──テレビやネットを挟んでいる状況下でなら、間違いなく堕とされた男を鼻で嗤っているであろうあざとさ。

 けれどそれに抗う術を、俺は持ってなどいない。

 気分的には苦しい……でも頷いちゃう! って感じの即堕ち具合。恐らく家に帰って就寝する頃には、布団の中で呻き転がる黒歴史確定な愚行だと思う。

 

「嬉しい! じゃあお菓子も買っていこうね!」


 ハニートラップに引っかかる世の男共の気持ちが少しは理解できた所で、彼女は俺の腕を放すことなくお菓子コーナーに向かって歩き出す。

 すりすりとずれる柔らかさが、俺の鼻の下が人生で一番伸びながら同じ歩幅で付いていく。

 

 明日死ぬかもしれないなと、そんなどうでもいいことを考えながらお菓子の物色を続けていった。

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