第3話 ヴァシーリー

 ヴァシーリー・ザイチェフは、開戦七日目に味方戦線へ無事辿り着いた。

 撃墜されたのは三日目だから、実に四日かかっている。

 が、墜落地点から味方の戦線まで実に七十八kmの距離を、身を隠しながら、敵中突破したことは、全く称賛に値する。

 もちろん途中で避難民の自家用車を盗んだりはしているが、少なくとも最初の一日と最後の数時間は、融けかけの冷たい泥の中を這いずり回ったのは事実だ。

 それにこの数日間、撃墜されたパイロットを救出する捜索救助SARミッションは、敵の携行対空ミサイルの妨害によって、全くうまくいっていない。

 であるから、その英雄的な脱出行を様々な将兵に称賛されるのは、これは自然な成り行きだった。

 ヘリで国境向こうの基地に後送されるまでにヴァシーリーが言われたのは、まとめるとこういう褒め言葉だった。


 アンタすげぇや、グリエフの亡霊に襲われて生き残って、敵中突破してここまで帰ってくるなんて!



 一日休んで開戦九日目、国境向こうの野戦飛行場でヴァシーリーは新しい機体を受領した。

 MiKO-33SKI。

 見た目は以前に乗っていた機体と殆ど変わらない。

 だが、少しだけ違う。

 なにが違うのだろうとよくよく眺めてみると、赤外線探知装置IRSTの左隣に、バカでかいカメラのレンズが収まっている。


赤外線探知装置IRSTとレーダーの感度、分解能が向上している。IRSTの横のレンズは低光量ハイビジョンカメラだ。秋津島の型落ちカメラのデッドコピーだが、まぁまぁ役立つ。ミサイルも新型のR77RSとR73B2。機関砲の照準規正ゼロインは二〇〇メートルにセットしてある。これならグリエフの亡霊も落とせるよ、ザイチェフ中尉」


 機体を眺めていると、後ろから声をかけられた。

 振り返ると少佐の階級章を付けた飛行服の男。

 赤毛で、そばかすで、腕っぷしの強そうな佇まい。

 どこかで見たような雰囲気だった

 敬礼する。


「少佐殿」

「ん。マラート・セルゲイェヴィチ・アンドロポフ少佐だ。ミーシャは俺の弟だった」


 少佐はちょっと手を挙げて、敬礼の真似事をした。

 ミーシャというのは、ヴァシーリーの僚機だったミハイルの愛称だ。

 言われてみれば、目元が撃墜された相棒とよく似ている。

 マラートは挑みかかるような視線で、ヴァシーリーを見つめていた。

 だがその目に憎しみはない。


「すいません、少佐殿。ミハイルは、その」

「言わんで良い、中尉。今はな。戦争中だ」

「は。ありがとうございます」


 少佐はついと目を逸らし、傍らの戦闘機を見上げ、ヴァシーリーに言った。


「中尉。貴様には俺の飛行隊に入り、一週間の完熟訓練を行ってもらう。が、33MKとは大して変わらん。二日で覚えてもらって、あとは休み無しで編隊戦闘訓練だ」

「は、それは──」


 何故か、という問いをヴァシーリーが発する前に、アンドロポフ少佐は答えを述べた。


「決まっている。グリエフの亡霊。ヤツを仕留める」


 振り向いた少佐の目には、今度こそ怒りと憎しみが渦巻いていた。

 

「弟の仇を、落とされた部下たちの仇を討つには、貴様の見たヤツの情報がなんとしても必要だ。手伝ってもらうぞ、ヴァシーリー・ストイコビッチ・ザイチェフ。まさかイヤとは言うまいな?」


 ヴァシーリーに否応はなかった。あろうはずがなかった。

 亡霊。

 グリエフの亡霊。

 ミハイルを叩き落とし、哀れな空挺の連中をミンチにし、自分を撃墜し、興味なさげに去っていった、憎むべき敵。

 彼は背筋を伸ばし、音を立てて踵を合わせ、彼の人生で最も見事な敬礼を少佐に捧げた。



 MiKO-33SKIへの機種転換・完熟飛行訓練と、その後の実戦形式の訓練は苛烈を極めた。

 参加したのは、ヴァシーリーと同じように箒乗りに叩き落された戦闘機パイロットたちと、温存されていた古参パイロットども。

 大公国が始めた戦争のせいで出場機会を失ったワールド・ブルーム・GPの選手たち、彼らを無理に招集し、仮想敵として行われたそれは、たった一週間の間に三機を失い、二名が二度と空を飛べなくなるほどの事故を起こした。

 だが誰も文句をつけなかった。

 訓練の合間合間にヴァシーリーが周囲から教わったこと、つまりグリエフの亡霊についての噂は、概ね以下の通りだった。


 ヴァシーリーが撃墜された空戦、その戦果はその日のうちに公表された。

 それを成し遂げた個人の名前は公開されなかった。

 それどころか箒乗りの飛行隊がそれを成したなどと、誰もが──捕虜にした公国兵ですらもが──信じなかった。

 ところが翌日、ヴァシーリーが撃墜された空戦を地上から撮影した動画がネットで公開された。

 ネットは「あの箒は一体誰だ」との話題でもちきりになり、誰かがSNSでつぶやいた。

 あれは亡霊、グリエフの亡霊だと。


 その個人はオンライン・マルチ対戦空戦シミュレーターのコミュニティ掲示板で、それを知ったと言った。

 だから言ってしまえば、その呼び名はただのオタクの冗談だったのだ。

 実態の存在しない、ただのネットロア。

 だが「グリエフの亡霊」──時代遅れの箒に乗り、戦闘機その他合わせて七機もの航空機を叩き落としたエースパイロット、いや、箒乗りブルームライダー──を称賛する声と、怨嗟の声は燎原を炙る火のごとく、全世界に広まった。

 開戦六日目にはキフルーシ公国国防省が公式に「グリエフの亡霊」の存在を認め、相変わらず本人の素顔を見せはしないものの、プロパガンダへ大々的に活用し始めた。

 そして開戦七日目には、グリエフの亡霊の撃墜スコアは十二機へと到達していた。

 大戦後八十年近く経ってから現れた、ダブルエース。

 その情報は戦闘機パイロットコミュニティや戦史クラスタ、ミリタリーオタク、公開情報インテリジェンスOSINTコミュニティ、魔法使いのさまざまなクラスタなどに熱狂をもって迎えられた。

 とりわけ、キフルーシ国民には。


 当初、リュールカ大公国国防省や内務省は、グリエフの亡霊の噂を相手にしなかった。

 だが、やはり七日目にはその存在を追認しないわけには行かなくなった。

 亡霊が十二機目の撃墜スコアをマークしたその日、亡霊は一度の出撃で二機のヘリと二機のMiKO-32S戦闘爆撃機を撃墜したあと、二度に渡って補給を繰り返しながら、グリエフ西方から迂回侵入しようとした大公国陸軍車列をロケット弾と機銃で攻撃した。

 運が悪いことに、その光景は外国のテレビクルーとキフルーシ国民、車列に加わっていた兵士によって撮影されていた。

 挙句の果てにはライブ配信すらされていたのだ。

 ライブ配信を行っていたのは大公国陸軍の若い兵士。

 ニキビだらけのまだあどけなさが残る若い兵が怯えた表情で、携帯電話のカメラに向かって漏らした悔悟の言葉こそは、大公国には無視できないものだった。


「ヤツが、亡霊がすぐそこまで来ている! ちくしょう、なんでこんな!! パパ、ママ、助けて!!」

 

 いまや「グリエフの亡霊」はキフルーシの抵抗の象徴となっていた。

 各前線のキフルーシ軍は、前にもまして死にものぐるいの抵抗を続けている。

 陸軍の宿営地や大隊段列には、ドクロのマスクをかぶった特殊部隊が夜な夜な襲撃を仕掛けてくる。

 占領地では市民防衛軍が「亡霊に会わせてやる!」と叫びながら攻撃してくる。

 抵抗のない占領地では、老婆や幼子が「お前たちは亡霊に呪われて死ぬんだ」と罵声を浴びせてくる。

 戦線後方で兵站活動を行う大公国の兵士たちはすっかり神経をやられ、不眠症になったり、脱走するものが続出していた。

 挙げ句、占領した都市と前線を結ぶ路上では、生き残り再編されたキフルーシ公国正規軍が、プロフェッショナルらしい態度と能力でもって大公国軍の援軍を襲撃し続けていた。


 結果、当初三日で陥落する予定だったグリエフは未だに健全な状態を保ち、敵の抵抗はいっかな衰えることがない。

 参謀本部は戦争計画全体の見直しを迫られていたが、連邦共和国時代の威信を再び夢見る大公主は軍に無理攻めを強いている──。


「それで一週間も訓練し続けられるってことですね」


 と、ヴァシーリーはアンドロポフ少佐に尋ねた。感想を述べた、という方が適当かもしれない。

 それを聞いて、少佐は首を横に振った。

 罵るような口調で返事をする。


マスキーヴァ大公国首都のハゲども、俺たちが八〇年近くまともな戦争をしたことがないことを忘れてやがるんだ。だから素敵な戦争計画はパー。戦争は長引き、亡霊は活躍し、俺たちはその間に牙を磨くことができる。なんとも有り難いことじゃあないか、ええ?」


 それを聞いてヴァシーリーは最初目をまんまるに見開いて、それから口元に拳を当てて笑いを隠した。

 昔から大公国空軍は冷や飯をマスキーヴァに食わされていた。

 機材更新が早いのは輸出が好調なおかげであって、別に予算が潤沢なわけでも、政府内部で優遇されている訳でもなかった。

 自然と政府中枢に対して口が悪くなる。


「ええ、まぁ、そうですね。それに、戦争が終わっても俺達の出番はあるかも知れません」


 今度は少佐が目を剥く番だった。


「亡霊の野郎、国が負けてもヤツは絶対俺達の前に現れますよ。もし本人が死んだって、あとに続く者たちは現れる。クソですよ」


 ヴァシーリーは笑顔で締めくくる。


「ほんと、ひでぇクソの山だ」



 開戦十七日目。

 誰もの予想を裏切り、戦争はまだ続いていた。

 グリエフは落ちず、キフルーシには周辺国からの援助と義勇兵が流れ込み続けていた。

 そして戦場の空は、姿形も見えない遥か彼方を飛び回る、西奥諸国の早期警戒機の監視に支配されていた。


 だが、アンドロポフ少佐の元にはついに出撃命令が届く。

 彼らにそれを拒否する考えなど毛頭ない。

 「マスキーヴァのハゲども」に媚びを売るつもりなどは全く無い。

 それは彼らのプライドの問題だった。

 亡霊によって汚された、彼らのプライドの。


 アンドロポフ少佐の飛行隊は早期警戒機の電波にギリギリ補足されるような低高度で、キフルーシに侵入した。

 編成機種は全機MiKO-33SKI。途中でMiKO-32S戦闘爆撃機の編隊と合流している。

 途端にレーダー警戒装置がけたたましくブザーを鳴らす。

 だが誰も気にせず、全員がブザーを切った。


《スナイペル1-1より全機。俺たちの目標はグリエフの亡霊ただひとり。それ以外には目もくれるな。雑魚だ》

《ダー!》


 アンドロポフ少佐の激に、全員が応答する。

 一番声が大きいのは、アンドロポフ少佐の僚機に選ばれたヴァシーリー。

 

《もう一度おさらいだ。前方のMiKO-32Sの爆撃飛行隊、彼らは囮だ。飛行隊はスナイペル狙撃手小隊とコレクチローシェフ観測手小隊に分割。32Sをスナイペルが援護する。コレクチローシェフは少し離れたところで全体を監視。敵は必ず、一機が突撃してきて陣形を引っ掻き回そうとする。それがヤツだ。亡霊だ。ヤツを捉えたら、絶対に見失うな。データリンクで敵情報を共有しろ。レーダーは信頼するな。IRSTとテレビで補足し続けろ。スナイペルは亡霊を確認したら散開、一旦距離をとってミサイル飽和攻撃だ。他の箒は無視しろ。32Sの援護も禁ずる。いいな》

《ダー!》


 無茶苦茶な作戦かも知れない。

 だが、戦闘爆撃機飛行隊は進んで囮を買って出てくれた。

 彼らもグリエフの亡霊一味に、煮え湯を飲まされ続けているのだ。

 悪霊退治に参加できるなら、亡霊が落ちるところを見れるなら、囮になることぐらいどうということはなかった。


 やがて一行はグリエフ近郊、昨日から激戦が繰り広げられている東北部正面上空へ到達する。

 味方の戦線を飛び越えた瞬間、IRSTに反応が現れた。

 一番最初に反応したのは、ヴァシーリーだった。


「来たぞ!」


 そうして亡霊はやってきた。

 必殺の意思を持つ仲間たちを引き連れて。

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