小説と鉄道模型・最大の共通点
小説を「つくりあげる」ことと、鉄道模型を楽しむこと。
この二つを比較してみますと、何やら、大きな共通点が見えてきます。
それは、何でしょうか?
自らをして、自分の世界を「つくりあげる」ことのできる点
これこそが、その最大にして最重要な共通点と言えましょう。
まずは、後者の鉄道模型を引合いに出すにあたり、実物の鉄道という点に照準を当てて論じてみましょう。
余程の大金持ちでもない限り、実物の鉄道を好き放題に敷設して列車を走らせるなんて、いやいや、余程の大金持ちでも、余程強権的な独裁者でも、そうそうできることではありません。
そこに来て、鉄道模型というのは、もちろんスペースの問題はありますけれども、製作者もしくは走らせる人たちによって、さまざまな「世界」をつくりあげられるのです。蒸気機関車、それも戦前の機関車にブルートレインを牽引させてみたり、その横には外国の列車が走ってきたかと思えば、高架の上では0系の初期の列車と現在のN700系列の最新型がすれ違っていたり、再び高架下を見てみると、なんと、国鉄時代の気動車特急が駅に停まっていたりとか。
なかには、ダイヤグラムを作ってそのとおりに走らせる人もいれば、適当な車両をひたすら駅に求めず走らせる人もいるって感じね。
それは、列車のことだけじゃない。
ジオラマを作る人たちもいますけど、これはそれこそ、駅だけじゃなく、山を作ったり川や海を作ったり、あるいは街を作ったり田舎の光景を再現してみたり。
これまた、余程の金持ちや独裁者でもそうそうできないことが、出来るわけよ。
今のお話をトレースして、小説というフィクション=架空の世界を見てみます。
各自、御自身で思考をめぐらせてみてください。
・・・・・・
・・・・・・
どうでしょう。
まさに、小説の世界というのは、ジオラマを作って線路を敷いて列車を走らせていく光景と、あまりにも類似点が大きいのではないかと、思われるのですが・・・?
皆さん、おいかがでしょうか?
今述べたことをもう少し細くするなら、こういうこと。
小説はいくら架空の世界と言っても、限りなく現実世界で起きた(あるいは今後起きる可能性がある~その可能性とやらの高いか低いかは問いません)ノンフィクションに近いものもあれば、完全な異世界のものもある。あるいは、ある人物とある人物が入れ替わってしまうとか、ね。
鉄道模型のお話にしてもそうよ。現実にはなかった、今はまだない車両を出してきて走らせることにしても、出来んわけじゃない。国鉄の無煙化・電化の進展のために結局生産されることなく終わったC63型蒸気機関車(設計まではできていた)を実際に作って走らせている人も、いるでしょうよ。それこそ、先程の話ではないけど、南満州鉄道の特急「あじあ」だって模型化されましたし、ね。これが新幹線と一緒に走るとか、もう、何でもありと言えば、あり。
それを、こちらは文字だけで、やれます。
鉄道模型みたいな形での金や労力はかかりません。
~ まったくかからないと言えば大ウソだが、鉄道模型ほどはかからないはず。もちろん、取材と称して大金かけて走り回ったり(遊びまわったり?)してこそ書けるものもあろうけど、それはまあ、置いておきますね。
ともあれ、結論は、これ。
どうでしょうか?
鉄道模型の話と、結局、本質的な構図は一緒でしょ?
文字を使って虚実こもごも、事実を適示して並べていき、そしてそこでの登場人物の感情を含んでいったあかつきには、ほらほら、小説の出来上がり。
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