第2話 招かれること
トトフィガロはメイドであり、そして、竜でもある。
此処、竜宮國に暮らす生き物は大体、竜だ。皆、この国を支配する女王陛下に仕えている。とはいえ、人間の国のような律儀さも繁忙さはない。勿論、戦争など建国以来一度だって発生したことがない。
トトフィガロは活動している間、城の中の色々な所を訪れるが、他の竜とすれ違うのはそれほど多くない。自室に引きこもっている者ばかりだからだ。
長命で頑丈、大地からのエネルギーを受けているため食事も必要としない竜には、飢えも冷えもなく、天敵もいないため、生存を賭けた争いとは無縁であった。また、住まう場所も、地上を支配せんと増え続ける人の身では到底辿り着けない海底であるから、尚更戦火とは遠い物語の出来事であった。
彼らは実に平和であった。
何百、何千年と同じ顔ぶれであるので、お互い勝手が分かっているというのも争いの少ない理由の一つだろう。彼らは好き勝手に生きているので、己の縄張りに押し入れられなければ、基本的に他人に対してノータッチであったし、膨大な時間と力を持つために他者にそれほど関心を持つこともなかった。助け合う必要もなければ、傷付け合う理由も持たなかったのだ。
中には会話を楽しみ、他の竜との交流を積極的に行う者もいたが、大凡の竜はその寿命の長さ故に暇を持て余して、自室で眠っているのが大半だった。
競い合って何かを手に入れることも、比べ合って優越に浸ることもない。足りないものは何もない。唯、巨大な己の確固たる存在だけで、彼らは充分過ぎるほど満ち足りているように見える。
恐らく、それらは統治されていようと、されてなかろうと変わらない状態ではあったが、それでも彼らは女王を戴き、それに従った。
単純に女王が、自分達よりも聡明で強い生命だったからである。そして、実質何も制限のない竜宮國の居心地が良かったからだ。
しかし、トトフィガロが忠誠を誓ったのは女王陛下ではなかった。
その娘、王女殿下である。
トトフィガロの一日は特に決まった時間には始まらない。
海底に陽の光は届かない。だから、朝も夜もない。故に、起きた時が朝として、トトフィガロは生活している。メイドと言えど、専ら仕事が掃除だからこそ、そのアバウトさが成り立つという訳でもなく、竜という生き物の気の長さ、ある種のルーズさによって城の日常が形成されているので、起きる時間がまちまちであることをいちいち指摘する者がいないだけなのだ。それで特に困る者もいない。
城内には太陽の代わりに常夜灯が置かれている。白い二枚貝に挟まれたその灯りは、月と呼ばれていた。常に仄暗いが、やはりそれが通常であるので、トトフィガロは特に疑問を覚えない。
遠い彼方の記憶を辿れば、本物の月を見上げたことがあった。それは白く冷たく照り、そして、美しかった。海の上での思い出だ。
トトフィガロの竜宮城に来るまでの記憶は曖昧だ。幼かったことと、弱っていたことがその理由だ。
火山灰に埋まったトトフィガロを誰かが掘り出した。そして、この海底まで連れて来てくれた。それは覚えている。だが、それが誰だったのか、自分は何処で産まれたのか、何故埋まっていたのかは覚えていない。
月を見たのは、竜宮へ向かうその道中であったのだろう。
時折、思い出そうとしてみるが、火山灰の下で、暗く身動きの取れない恐怖心が一緒に思い起こされるので、上手くいっていない。
もしかしたら、助けてくれたのは王女殿下だったのかもしれないとトトフィガロは思う。トトフィガロをいつも助けてくれるのは、王女殿下だからだ。勿論、記憶の中の人物の顔も思い出せないし、これが希望的観測とも呼べない、願望でしかないことは自分でも分かっている。
でも、そうだったら良いなと、そう思うのは自由だった。
つるつるとした石の床を軽く掃きながら、トトフィガロは廊下の先を眺める。大分遠くの方まで月の灯りがある。今日はこのブロックを掃除しようと思ったが、先が長そうで、思わずふうと息を吐いた。
特にノルマがある訳ではないから、明日に回しても全く問題はない。気持ちの問題だった。
ぎいと軋む音が耳に入り、トトフィガロは振り返る。
「トト、今日も掃除ですか。精が出ますね」
廊下に並ぶ部屋の一室から顔を覗かせたのは、ラルコンドゥだ。
竜にも様々な形態がある。細長い者もいれば、どっしりとした重量感のある者もいる。しかし、どれにしてもサイズが大きいため、城内では自室以外では人型になるのが暗黙の了解だった。
一応、竜の形態に戻っても、それで崩れるほど、この城は小さくも脆くもないが、此処は女王の城なのだから、傷付ける訳にはいかないという意識が根強くある。だから、部屋を出る時は皆、人型を取る。こないだのピップルラッピリは、本当に例外的なケースだったのだ。
ラルコンドゥは竜の取る人型としては平均的な高さではあったが、厚みはそれほどなかった。どことなくひょろりとした印象を受ける。細長く爽やかな顔が月に照らされて、尚のこと希薄さを浮かび上がらせる。
とは言え、竜の中では最も貧弱とも言えるトトフィガロほど非弱さは感じない。こちらに近寄って来る足取りもしっかりと重量があり、その筋張った手は薄くとも大きく、力強さもあった。
彼は目を開けない。目が良過ぎるために、瞼を閉じていても、開けている時と同じように見えるのだ。そして、どちらも同じなら手間だからと瞼を開けるのをやめた。なので、千年近く前からずっと瞼を閉じている。基本的に竜は面倒臭がりだ。
何度か顔を合わせているトトフィガロには、目を閉じていても、ラルコンドゥはまさに寝起きと言った、眠たげな表情をしていることが分かった。
トトフィガロが最後にラルコンドゥと会ったのは三年前だと記憶している。その時のラルコンドゥは、目が疲れたので寝ると言っていた。だから、三年間休息していたのだろう。彼らにしてみれば、昼寝程度の時間だ。
彼は比較的他者との交流を図ろうとする気質を持っており、トトフィガロも顔を合わせれば会話をするくらいには知り合いだった。会ったことが皆無の竜も多くいる中、彼なら変な緊張をしないで済むので、現れたのがラルコンドゥだったことにトトフィガロは少し安心をした。
「おはよう、ラル。必要ならば、あなたの部屋も掃除しましょうか」
「有り難い。では、頼んでもよろしいですか」
ラルコンドゥが扉を大きく開いて、トトフィガロを招く。
トトフィガロの持ち物は多種多様だ。
まず、両手には箒とちりとり。そして、腰に着けられた腰袋には埃を払うはたきや、ちょっとした汚れを拭うための布巾、滲みを落とすための漂白剤など、諸々である。
それらを使い分けて、トトフィガロは掃除をしていた。全ての道具の用途をちゃんと覚えられたのは、ここ最近のことである。
「ところで、ヘイルガイルは見ませんでしたか?」
「ここ一、二ヶ月は見てないです。何かご用があるなら、トトが呼びに行きますよ。あの方は不眠ですから、直ぐに来てくださいます」
「いえ、後で自分で訪ねに行きます。トトは掃除をお願いします」
トトフィガロは意気揚々と、開かれた扉の隙間に体を滑り込ませた。
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