第3話 赤らむこと
トトフィガロはメイドである。
可憐で清楚なメイドである。
ラルコンドゥの部屋は簡素だ。
椅子が二脚と机が一つ、奥にはベッドがあって、本棚には何も置かれていない。
装飾品の類もなく、無機質にも見える部屋だ。
何もかもを見てしまう彼には、視覚情報を持っておく必要がない。本を捲らなくても、見ようと思うだけで、世界のどこかにあるそれを見ることが出来るからだ。
だから、部屋にある一枚の絵画は彼にとって、とても価値のある物なのだろう。
風景画だ。緑に囲まれた森が描かれている。其処には一人の女性が背中を向けて立っていた。竜は人の姿を取っても角があるので、角のないこの女性は人間なのだろう。
トトフィガロの感性では、この絵がどのような評価を受けているのかは分からない。だが、美しい風景で美しい人なのだろうとは思った。絵になるくらいだから、それはきっとその人にとって残したくなるほどに美しいものだったのだ。
樹木の緑と、青い空に浮かぶ白い雲。そして、淡い青のスカートの女性。
全体的に素朴な美しさが描かれている絵だ。
トトフィガロは視線を部屋へと戻す。眠っていただけで、ほぼ使っていないのと同然の部屋だから、埃を払うだけでこと足りるだろう。
トトフィガロは腰袋からはたきを取り出した。
「埃っぽくなりますから、暫く散歩でもして来てください」
「いいえ、此処で貴方を見ています」
そう言って、ラルコンドゥはベッドの端に座った。
ベッドの形状はそれぞれの角の形に合わせて作られている。ラルコンドゥのものは、特別な形はしていない。頭の方に角を通す穴もないし、底も空いていない。トトフィガロのベッドと同じ形だ。
彼の角は羊のように前向きに曲がっているものだから、仰向けであれば寝台に刺さったりなどはしないからだろう。
トトフィガロは特に気にせず、本棚の上の方からはたき始めた。掃除は上からやるものだというのは、王女殿下から習ったことだ。
掃除の基本は彼女から学んだ。十七歳になるまで、自分が王女だと知らず、国の外の世界で市井の人々と交わりながら生きて来た王女殿下は、王女といえど身の回りのことを自分で出来る能力があるし、トトフィガロが知りもしないこともよく知っている。
そんな彼女が暮らしていた国は
江露の国は、地図上では一番大きな国である。
最大の特徴とも言えるのが、神も人間も獣も、等しく人として暮らしているということだ。
賛同する一族は全て等しく人として扱われる、という宣言が七百年前にあったのだ。
それらが人という器に収まり、共通の文化圏の中で生活するようになったのだ。当初は問題が続出したが、七百年も経てば、日常生活くらいは落ち着いて来るもので、江露は稀有な多様な民族国家となった。
しかし、その江露に於いても、依然として竜とは竜神族と呼ばれる神のままである。
王女殿下曰く、「法律上神様なだけで、普段の生活は他とあまり変わらなかったよ。いちいち気にする人達でもないからね。そういう意味では居心地が良かったのだろう。崇め奉られるのも、迫害されて貶められるのもごめんだからね」とのことなので、神、或いはかつて神であった存在は、江露人にとっては慣れ親しんだもので、それほど珍しいことでもなかったのだろう。
そうして見てみると、竜宮國とは神のみが暮らす国となる。
トトフィガロは宗教などは分からないが、神を含む神聖なものというのはなんだか独特な雰囲気があることは知っているので、自分がその枠に入ることに違和感を覚えている。自分は掃除をするしか能のない矮小な存在だと思い込んでいるからだ。
ふと、手を止める。
王女殿下のことを思い出す時、トトフィガロはよく手を止める。
「どうかしましたか」
急に掃除の手を止めて俯いたトトフィガロに、ラルコンドゥが不思議そうに問い掛ける。
その声に、トトフィガロは意識を引き戻される。
「いえ、ちょっと考え事をしていただけです。すぐに終わらせますから」
「急かしたつもりはありませんでした。寧ろ、長く此処にいてくれると嬉しいくらいで。良ければ、何を考えていたのか教えてくれませんか」
「トトが考えていたことですか」
「貴方が何を考えるか知れば、もっと貴方を知ることが出来る。私は貴方を知りたいんですよ」
「トトなんかつまらないです。トトは掃除しか出来ません。それにしたって、王女殿下のお役に立てているのか分かりません」
「もしかして、王女殿下のことを考えていたのですか」
図星のトトフィガロは、思わず黙ってしまう。
そんな様子を見て、ラルコンドゥは口元を微かに緩める。穏やかなこの竜は口元の動きだけで、自分の感情を表す。
「トトは本当に王女殿下がお好きなのですね」
「いえ、そんな、トト如きが。そんな、烏滸がましい」
「いけません。必要もないのに、自分を卑下するのは良くないことですよ。好きなら好きと言って良いのです。さあ、口に出してみなさい」
「あ、えっと、では、……好きです」
「声が小さいですよ」
「好きです」
「よく言えましたね。次は、本人にそれを伝えてみましょうか」
「それは無理です! ラルコンドゥ、貴方はさっきからトトに意地悪をしていませんか。実は心の内まで見えているのですか」
「まさか。心を覗くなど、私には出来ません。もし、そう見えているなら心外です。そのような無粋な真似をすると思われるなんて我慢なりません」
「でも、さっきからまるでトトの心を読んでいるようなのです。トトが考えていたことも、トトが王女殿下のことを、その、好き、なのも、全部見たことのように分かっていたではありませんか」
好きという言葉を口に出すのも、今は恥ずかしいと見え、すっかりトトフィガロの顔は真っ赤になっている。日焼けとは無縁の環境で過ごし、元より色白のトトフィガロだから、赤らむ様が分かりやすい。
必死に抗議するトトフィガロに反して、ラルコンドゥは実に落ち着いたものだった。
足を組んで座り、その口元には微笑が浮かんでいる。それは何処か今の状況を楽しんでいるのように見える。
自分よりも年若い者を
他人を知りたいという感情から、他人に話し掛け、他人に問い掛け、他人の反応を確かめるラルコンドゥにとって、視覚情報とは当たり前のように自分の手元にあるものだから、それ以外の情報が欲しくて堪らないのだ。見えない所を知りたいと思うのだ。
彼の目は相手の視界をジャックするものだ。だが、その人の見る世界を見ることが出来ても、その視界の持ち主を見るには、また別の他人か鏡が必要となる。そして、それがおあつらえ向きに用意されているとは限らない上に、見るだけでは人となりを知ることは出来ない。
ラルコンドゥは相手を知りたがる。情報の穴を埋めたがる。他者からどう見える人物なのか、自分にとってどのような相手なのかというのを確かめたがる。視覚情報は探れば自分で手に入れられるものだが、評価については音に頼るしかなく、そのため、彼は話し掛けるのだ。
彼には人の見る世界の全てが見えている。だが、そのために、視覚に囚われる。見え過ぎるが故に、相手の輪郭を見失う彼は、その形を定めるための情報を求めるのだ。そして、それが高じて、揶揄うという行動を起こさせるのだった。
ここ最近においては、それが行動の主軸となっている。
そして、トトフィガロには困ったことに、ラルコンドゥはトトフィガロのことを揶揄い甲斐のある相手だと認識しているのだった。
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