第四話

 秋水の読みは半分当たって半分外れていた。

 深い編み笠を被り、夜に光る緑色の眼を隠しながら、雨験は足早に歩いていた。

 自分でもよく分からない衝動に突き動かされていた。

 まるで何かに呼び寄せられているかのように足が動いていた。

 生憎の曇り空。提灯がなければ満足に足元も見えない宵闇。


 だが、雨験の見る世界は違った。雨験にははっきりと見えていた。緑色に染まったその世界が。自分の眼は特別なのだと、高揚感にも似た感情に心を震わせながら、雨験は走っていた。

 そう。餡蜜一つまともに食べられなかった雨験は、本来ならば明かりの一つもなければ満足に歩くことも出来ないはずの闇の中を、走ることが出来ていた。


 雨験は走りながら、紛れもない歓喜と開放感と優越感を覚えていた。

『希少種屋』の主は言っていた。陽光を長く見てはいけないと。

 だが、夜間に眼を開いてはいけないとは、けして言ってはいなかった。

 ならば、夜にだけ出る人斬りを捜すことに何の支障もないはず。

 だとしても、目撃情報もない人斬りをたった一人で捜すことなどほぼ不可能。

 それでも雨験は捜し回っていた。

 何も闇雲に捜しているわけではない。相手も人間である以上、必ずどこかにいるはずなのだ。雨風を凌げるどこかにいるはずなのだ。

 そうでもなければ、あの日、激しい雨に打たれていたあの日、雨験が火に当たって着物を乾かすことなど出来なかった。

 少なくとも人斬りは、土間があり、囲炉裏のある場所にいた。

 それも、眼も見えずに歩いていた雨験が辿り着けそうな場所に。

 ただし、仲間の戍狩たちに救われたとき、大体の場所を告げていたにも拘らず、それらしき男を見つけられなかったと言うのだから、捜すだけ無駄なのかもしれないと思わなくもない。

 が、不思議と雨験には確信めいたものがあった。


(……多分、俺になら見つけられる……)


 実際、焦りも不安もなかった。

 それこそ予め、いる場所が分かっているかのように雨験は人気のない町中を駆けていた。

 そして――


「……ほう。無事に『宿光蟲』を宿らせられたようだな」


 声は突如横手から上がった。

 反射的に急制動を掛け、慌てて振り返れば、明かり一つない辻から、一人の男の影が現われた。

 本来ならば見えるはずのない宵闇の世界。月さえ出ていれば認識出来なくもないその世界。

 だが、『宿光蟲』を介して見る緑色の世界は、はっきりと雨験に人斬りの姿を見せつけていた。

 その容貌や風体は、前に丁稚に作らせた人相書きに非常によく似ていた。


「お前が、人斬りか」

 雨験は左足を引き、やや前傾姿勢の居合い抜きの構えを取りながら問い掛けた。

「いかにも」

 待ち構えていたかのように、人斬りは鷹揚に頷いた。

「……そろそろ来るのではないかと、思っていた」

 腰の刀に手さえ掛けず、だらりと下げたまま、しっかりと両目を閉じて、人斬りは続けた。


 何故か分からない。何故か分からないが、このとき雨験は、眼の前の人斬りが放つ恐ろしく静かな気配に気圧されていた。

 相手は何もしていない。ただそこに、両目を閉じて立っているだけだ。だと言うのに、雨験は抜き身の剣を突き付けられているかのような緊張感に、鼓動が速まるのを感じていた。こめかみを一筋の汗が流れ落ちて行く。膝が微かに嗤っていた。


「……何故、『宿光蟲』のことを知っている」

 雨験は、己の中の恐怖心を誤魔化すかのように問い掛けていた。

 対して、人斬りは答えた。

「……俺も、同じだからだ」

 そう言って、ゆっくりと瞼が開いたなら、雨験は初め、何が同じなのか分からなかった。

 緑色の濃淡で作られた宵闇の世界。その中では人の肌も緑色に染まり、黒髪も緑色に染まり、当然のことながら開かれた眼も緑色に――染まってはいなかった。極普通の黒い瞳だった。

 だからこそ、分からなかった。眼の色が黒いことは当たり前のことだったから。

 当たり前ではなくなった世界で、当たり前だと思えることだったから、初め、雨験は気が付かなかった。眼だけが黒く見えることの異常さを。

 咄嗟に覚えたのはただの違和感。だが、何がおかしいのか分からない。

 その答えを人斬りが伝えるまでは。

 人斬りは、言った。


「……俺の両目にも、『宿光蟲』が宿っている」


 刹那、雨験は違和感の正体と、何故人斬りが夜だけ行われて来たのかと言う理由と、相手が『希少種屋』の名を口にしたのか理解した。

「……では、お前も両目を失っていたのか?」

「……そうだ」

「だから俺に、『希少種屋』へ行けと言ったのか?」

「……そうだ」

「何故だ?」

「……せめてもの罪滅ぼしだ」

「……分からん」

「……お前は、『良い人間』だ。同時に、腕の立つ剣客だとも思った。だから、咄嗟に体が動いていた。本来、無関係な人間を傷つけるのは、俺の、望むところではない」

「……だから、丁稚は殺されなかったのか?」

 唐突に雨験は、稀に生き証人がいる理由を察した。

「……そうだ」


 お陰で、雨験の中で色々と合点が行った。

 丁稚が、『人斬りは眼を閉じていた』と言うのは本当だったのだ。盲目だと言うのも、ある意味では本当だった。

 何かの理由で盲目になった人斬りは、『希少種屋』にて『宿光蟲』を宿し、町民を陰で苦しめる連中に制裁を与えていた。ただし、昼日中に出歩いて、『宿光蟲』の副作用が出ては敵わないと、犯行は夜に限定され、また、犯行時に眼を開けているとその眼が緑色に光っていることを知られてしまうため、犯行は眼を閉じたまま行われていたのだと。


 だが、それでも腑に落ちないことはある。

「……どうしてお前は、眼を閉じたまま、標的を仕留めることが出来たのだ」

 そう。最大の疑問だった。緑色に光る眼を隠したければ、今の雨験のように笠を被るという方法だってあったはずだ。だが、人斬りは笠を被ることなく、素顔を隠すことなく曝け出し、眼を閉じたまま、犯行を繰り返していた。普通に考えたなら出来ることではない。

 だが、その答えを人斬りが口にする直前、


「そこで何をしている!」

 後方から鋭い声が上がった。

(あの声は、秋水?!)

 直後、隠しようがないくらいに雨験は焦った。

 思わず背後を振り返り、再び人斬りへと視線を向けたなら、人斬りは踵を返して言葉を紡いだ。


「……答えを知りたければ、明日再びここに来るがいい」

「ちょっと待て、必ずしも俺は抜け出せるとは限らんのだ!」

 と、声を張り上げるも、既にそこには人斬りの姿は跡形もなく消えていた。

 どこに行った?! と、動揺すること暫し、『そこを動くな!』と言う、秋水の忠告を耳にした雨験は、己の失態に忌々しげに舌打ちをした。

 今更逃げたところで、むしろ怪しまれると言うもの。

 ここは大人しく捕まった方が、夜の散策をしていたら帰り道が分からなくなって難儀していたと言い訳が立つと諦めて、秋水からの大目玉を食らうと覚悟した。


 ◆◇◆◇◆


 翌日の夜、雨験はどうしたものかと途方にくれていた。

 昨夜抜け出したことが、秋水以外の仲間の口から回り回ってお香の耳に入ってしまい、静かに激怒したお香によって、お香自身と雨験は、固く帯で結ばれていたのだ。

 結ばれたと言っても、胴と胴を結んだわけではない。手首と手首を一本の布帯で固く結ばれてしまっているのだ。

 何とか結び目を解こうと挑むものの、どれだけの力で結ばれたものか、全くもって解ける気配がない。いっそのこと刀で斬ってしまうか? と頭の中を過ぎるが、そんなことをしてしまっては、その後一切の言い訳が成り立たない。だが、昨夜人斬りが言っていたことも気になっている。

 いつもは右側を向いて眠るお香。今は左側を向いて雨験へ顔を向けながら眠っている。その眉間には微かに皺が寄っていて……

(……おそらく、寝たふりだな……)

 雨験は諦めたように溜め息を吐くと、観念したように眠りに付いた。


 その翌日も。更に翌々日も、夜の監視は続いた。

 これはもう、完全にあの人斬りはあの場所にいないだろうなと、横で眠っているお香を見ながら雨験は落胆した。

 もしも、眼を閉じたまま標的を間違いなく仕留めることが出来るなら、雨験はもう一度、戍狩として働けると思っていた。

『宿光蟲』を宿すまでは……いや、『宿光蟲』を宿した人斬りの話を聞くまでは、戍狩に返り咲くなど考えもしなかった。

 眼が見えないまま返り咲いたところで、一体何が出来ると言うのか。

 そう思い、鬱々としていた。自殺未遂まで仕出かした。

 それが今、もしかしたら返り咲くことが出来るかもしれないと希望をチラつかせられたのだ。

 それを、その可能性を、雨験はみすみす見逃した。

 妻に心配を掛けたという後ろめたさが、布帯を切ると言う行動に躊躇いを生んでいた。

 そのせいで、雨験は将来を闇に閉ざすことになった。

 冷静にその答えに辿り着いたなら、瞬間的に怒りが爆発した。


「……何をしているんだ、俺は!」

 歯を食い縛り、呻くように呟いた。

(俺はこのまま役立たずで終わるつもりか!)

 そんなことはごめんだった。

 謝るのなら後でいくらでも謝ればいい。

 あの人斬りから、眼を閉じたままでも標的を仕留める方法を聞き出したなら、きっとお香も許してくれる! 今動かなければ一生後悔する!

 思ってしまったなら止めることなど出来なかった。

 雨験は形振り構わずお香を起こした。そして、すぐにでも帯を解くことを命令した。


 ◆◇◆◇◆


 申し訳ないと、雨験は心の中でお香に詫びていた。

 殆ど脅しめいていたと思う。怯えさせてしまったと思う。

 これで人斬りから有力な情報を得られなかったなら、そのときは……どう詫びようかと、心の底で後悔しながら、それでも雨験は駆けていた。

 辿り着いたとしても、そこに人斬りがいるとは限らない。むしろ、いないと思った方が当然だ。だが、それでも、雨験は心の底から祈っていた。

(どうか、あの場所にいてくれ!)

 果たして、その願いが天に届いたかのように、雨験は見つけた。

 三日前と同じ場所に佇む人斬りの姿を。


「頼む。眼を閉じたまま標的を仕留められるのは何故だ?」

 見つけた瞬間、雨験は問い掛けていた。

「……『宿光蟲』を、使いこなせるようになれば、出来る」

 答えはすぐに返って来た。

 あまりにもあっさりと答えを得られたため、雨験はかえって怪しんだ。

「俺を、騙しているのか?」

 警戒しつつ問い返せば、人斬りは答えた。

「……騙して一体、何になる」

 考えても見れば、その通りだった。

 だがむしろ、答えは分からなくなった。

「……『宿光蟲』を使いこなすとは、どういうことだ? 『宿光蟲』とは、光を失った眼に再び光を宿らせる『蟲』なのではないのか?」

「……ああ。だがそれは、ただ宿しただけに過ぎない。

 お前も『希少種屋』にて『宿光蟲』を宿したのであれば、忠告を受けたはず」

「ああ。けして長い時間日の光を見てはならぬと。見れば『妖の世界』を見て救うことが出来ぬと」

「……だが、その『妖の世界』を見て、そ奴らを利用することが出来たとしたら、どうする」

「何?」

 それは雨験にとって思っても見ない答えだった。

「だが、『希少種屋』の店主は言っていた。『妖の世界』を見てしまったなら救うことが出来ぬと。それなのに、あえて『妖の世界』を見たと、お前は言うのか?」

「ああ。だからこそ、今のお前に見えぬ『存在(もの)』を見ることが出来る。その力を利用するからこそ、眼を閉じても標的を仕留めることが、出来る」

「だが……」

「そう。必ずしもお前まで、俺のように使いこなすことが出来るとは限らない。

『宿光蟲』を宿した他の人間共と同じように、あいつらに己を喰われて狂い死ぬことになるかもしれん」

「それなのにお前は、『見た』のか?」

「……見た」

「何故だ?!」

「……俺にはもう、失うものが何もなかったから」


 そして、人斬りは続けた。己が光を失った理由を。

 人斬りは、信じた者に裏切られ、家族と子供を失い、自らは光を奪われたのだと言う。

 それでも人斬りは、必ず裏切り者に復讐してやると言う執念だけで生き延びて、気が付くと『希少種屋』の店主に命を救われ、『宿光蟲』を宿されたのだと。

 そのときも『希少種屋』の店主は、口すっぱく日の光があるうちは眼を開けてはいけないと忠告をしたそうだ。


 だが、人斬りにしてみれば、一刻も早く裏切り者たちに復讐したかった。

 だから、忠告を無視した。無視して血眼になって裏切り者たちを捜した。

 程なくして、人斬りは人の世に不可思議なものが飛び交うのを見た。漂うのを見た。生えているのを見た。

 そしてそれが、人斬り以外には見えていないことも知った。

 これが妖なのだと、人斬りは思ったのだと言う。

 だが、それが見えたからと言ってなんだと、人斬りは気にも留めなかった。

 余計なものが見えたところで標的は変わらない。

 妖の姿は徐々に増え、やがて人間の姿すら半分妖のように見えてしまった頃、人斬りは初めて裏切り者の姿を捉え、その姿を斬った。

 そのときからだった。それまでまるで空気のように存在を見向きもされなかった人斬りが、妖どもから注目されるようになったのだと言う。

 明らかに『見られて』いた。泣きも叫びもしない妖。異形の蟲とも言える存在は、興味深げに人斬りに付き纏うようになった。

 そうなってから初めて、人斬りも妖に眼を向けるようになったのだと言う。


 そうして観察をし続けた結果、妖の特性らしきものを人斬りは察した。そして、眼を閉じていても己が見たいものを見ることが出来ると言うことに気が付いた。

 後はもう、眼を閉じていようと開けているのと変わらなくなった。

 ただ、瞼を下ろすだけでは視界を閉ざすことが出来なくなっていた。それでも、視界を何かで覆ってしまえば、物体を透視することは出来ないのか、闇はきちんと訪れた。

 お陰で人斬りは、今も何一つ不自由することなく……いや、見えていたときよりもよく見える眼を持ち、自分を裏切った連中と同じ穴の狢を狩っているのだと、人斬りは答えた。


 話を聞き終えたとき、雨験はごくりと生唾を飲み込んでいた。

 もしも人斬りの話が本当ならば、自分も同じように妖の世界を覗き込み、その特性を理解したなら、再び戍狩として刀を振ることが出来る……。

 考えただけで、雨験は体が震えるのを感じていた。

 夢のような話だと思った。

 ただ問題は、果たして自分に人斬りと同じことが出来るかと言う一点。

「……お前は、如何様にして、妖に喰われることなく受け入れられたのだ?」

 対する人斬りの答えは簡潔だった。

「……強い心を持つこと。ただ、それだけ」

「……それだけ?」

「そうだ。己を見失わぬ強い心。強い意志だけが己を形作る。それが出来ねば、瞬く間に心は妖どもに食い殺されることだろう」

 その答えを聞いた瞬間、雨験は人斬りに頭を下げていた。

 本来ならば、人斬りとして捕らえ、戍狩に連行しなければならないと言うのに。

 相手が、己の眼から光を奪った張本人だと言うのに。

 雨験は、心からの感謝を籠めて、頭を下げ、感謝の言葉を口にしていた。

(俺はやる。俺には出来る。妖に飲み込まれることなく、新たな力を手に入れて見せる!)

 雨験の頭の中にあるのは、かつて望んだ家族と妻を守ることではなく、最早戍狩に返り咲くこと……ただそれだけだった――


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