副官
俺がその地位を預かるまで、紅緒様には副官らしい副官はいなかった。
ただ、その頃には紅緒様は俺と同じ十五だというのに、既に文官の長に近い働きをしていた。
即ち宰相閣下を補うような、だ。
前線に宰相閣下は来られないから、戦場では、裁判から兵站、政治の懸案まで事務方は全て紅緒様の直下であった。
俺は戦うなら即戦力にはなったようだが、事務系等はお茶くみからの開始で、紅緒様のお手を煩わせながら仕事を覚えていった。
その時まで知らなかったが、瑞穂の国で一番最初に起きるお役人は紅緒様で、最後に寝るのも紅緒様。そう言われるほど、紅緒様はよく働く人で、休憩すら上が休まないと下が休めないから取るだけで、その時間も静かに本を読んでいるのがほとんどだ。
鍛錬の時間だって兵士に交じって黙々と弓を射たり、魔術の腕を磨いたりしていた。口さがない者は弓の腕も魔術も大したことがないから、鍛錬しているふりをしているのだなんて言っていたが、それは決して真実じゃない。
寧ろ紅緒様が使っている弓は、誰でも使えるように改良された魔導弓のプロトタイプに当たるけど、魔術の腕も弓の腕もたしかでないと使えない魔導弓で、銘を雷上動といった。中途半端なものでは、弦に指をかけただけでも爪が弾き飛ばされるような扱い辛い弓を弾く。
その大変さを知る極僅かな者たちは、皆紅緒様に敬服していた。
俺も勿論その一人で、知らなかった紅緒様の事を少しずつ知っていくのが、とても楽しかった。嬉しくもあった。
だって紅緒様は基本的に自分の事を話さない。
それは誰に対しても同じで、兄上の青洲様が執務の間に訪ねていらしても、青洲様の話を聞いて相槌を打つのが専ら。常盤様が訪ねていらしても、聞き役に徹していて、何か言うのは意見を求められた時に、それも言葉少なに返されるだけ。
陛下に呼ばれた時でさえ、質問には答えても、促されるまで政務の事だけを淡々と話していたくらいだ。
そんな様子に、俺は違和感を覚えていた。
何と言うか、親と子、兄と弟の間に薄い壁がるような、そんな気がして。
そうして俺はそんな違和感に気付いてしまうと、確かめずにはいられない阿呆な性分であった。だからよせばいいのに、紅緒様にお尋ねしてしまったのだ。
「何故、私が父や兄や常盤に自分の事を話さないか気になる、と?」
「っす。紅緒様は陛下ともお兄上様とも弟様とも、あまりお話になってないなって思って。相槌は打ってるし、お話は聞いてはいらっしゃいますけど……」
「だって、時間が無駄になるだろう?」
返って来た予想外の返答に、俺は喉を詰まらせる。しかし、紅緒様はそんな俺には気づいていないようで、淡々と書類に何か書きつけながら続けた。
「私と話した所で何も面白くも楽しくもない。時間は有限なんだ。そんなつまらないことで無駄にしていないで、もっと有意義に使ったらいい」
「や、でも、紅緒様とお話がしたくて、お兄上様も弟様も訪ねて来られてるのでは……?」
「まさか。用事のついでに社交辞令で話しかけてくるだけさ。私だって一応主家の人間だから形式上軽んじるようなことはするなって、示してるだけだと思うよ。兄上にも常盤にも気を遣わせてしまっているんだろう」
何にも知らない奴らは紅緒様のお顔を氷の美貌なんて誉めそやしているけれど、実際の紅緒様は笑うと目じりが下がって可愛いのだ。今だって微妙に苦笑してるから、眉が八の字になっていて何だか子供っぽい。
でも言ってる内容に、俺はちょっとどころかかなりの違和感を覚えた。
紅緒様は父親である陛下やご兄弟と話すことが「時間が無駄になる」と考えておられる。しかもご自身の時間でなく、相手の時間が。原因は紅緒様のお話が「楽しくも面白くもない」から。
その違和感が何であるかを測りかねて、俺は口をへの字に結ぶ。すると紅緒様が、小鳥がするみたいに首を傾げた。
「出穂?」
「俺は、紅緒様のお話面白いし楽しいっす」
「……そうかい。出穂はやっぱり変わってるなぁ」
「っす」
「じゃあ、出穂とは偶にお喋りしようか」
「あざっす」
俺がお礼を言うと、紅緒様はおかしそうにころころと声を上げて笑う。
それから俺と紅緒様は休憩中に、他愛もない雑談をすることが増えた。
例えばその日の昼飯の話から、兵站や補給の話になったり、市中の賑わいから魔導錬金術が発達すればもう少し庶民の暮らし向きも便利になるとか、そんなことを。
紅緒様のお話はどれも興味深くて、戦いが終わった後にちゃんと未来があることを想像させてくれるような事ばかりで、楽しくて面白い上に勉強にもなった。
雑談じゃなく、仕事上の注意の時もあったけれど、紅緒様は感情的に部下を詰る人ではないし、一つ一つ丁寧にどこが間違っていたのかを教え、どうしたら改善できるのかを示してくれた。
俺はそうやって仕事を覚え、少しずつ紅緒様の司る役割を知り、名ばかりではあるが紅緒様の副官として、周囲にも認識されるようになっていった。
勿論紅緒様の起きるに合わせて起きたし、寝るのだって紅緒様と同じくらいの時刻で、それでも毎日充実していて。
そんな俺は相当に目立っていたらしい。
俺が紅緒様の副官に任じられて、半年程経ったある日のことだ。
俺は砦の廊下で青洲様の所の女官に捕まった。そして小さな手紙を渡され、中を確かめたら……。
「あの、自分、こんな呼び出しを受けるような事をした覚えはないんですが?」
「貴方様にはなくとも、主は貴方様の出頭をお待ちです」
「出頭!?」
出頭ってなんだよ? 俺、悪い事してないぞ!?
混乱した頭で、紅緒様の執務室に向かっていると、今度は常盤様の宮の女官に捕まった。そして青洲様の所の女官と同じく、小さな紙切れを渡されて。
「いや、何で常盤様も!?」
「青洲様の所の事は存じませんが、我が主は貴方に強い関心を寄せておられます」
「はぁ……?」
なんだそれ。兎も角中を改めれば、やはり呼び出しの手紙だったから、猶更解らない。だって青洲様にも常盤様にも直接の接点はないし、あのお二方の所に知り合いがいる訳でもない。
俺はあまりにも訳が解らなくて、うっかり青洲様と常盤様から呼び出しを受けたことを紅緒様に話してしまったのだ。
「兄上と常盤が……?」
「はい。俺、なんか知らないうちに失礼な事しちゃったっすかね?」
「いや、それは無いだろう。兄上も常盤もこの砦にはほとんどいない。それで激怒されるような事をしたなら、私の耳に入ってくる騒ぎになっている筈だ」
「ですよねー。なんか強い関心が……とか言われたんで、ちょっと驚いたっすわ」
「そうか……」
そう言ったきり、紅緒様は黙ってしまった。そうなると俺も黙るしかない。
黙々と仕事をこなす紅緒様に倣って、俺も黙って書類の整理や、紅緒様が署名したのを必要部署に届けたりと仕事をこなしていた。
すると、不意に紅緒様が俺を見ていることに気が付く。
「どうしたっすか?」
「いや、兄上と常盤はもしかしたら出穂が欲しいのかもしれないなと思って」
「へ?」
「君は物覚えもいいし、槍も剣もそれなりに使えるから。いい人材が欲しいのかもしれないな」
「え、嫌ですけど!?」
俺は反射的に叫んでいて、その俺の勢いに紅緒様が緋色の瞳を驚きに見開く。
「でも……出世は私の所より出来ると思う」
「や、死ぬの嫌だって言ったじゃないっすか」
「それは……そうだったね」
「俺は出世より命がある方がいいっす」
「本当に出穂は変わったやつだなぁ」
クスクスと紅緒様が静かにお笑いになった。へにょりと眉をまげて笑うのがやっぱり可愛い。
そうだ。俺は出世なんかよりも、紅緒様と毎日こんな風に他愛もなくお喋りして、庶民の暮らし向きが楽になる未来を見ていたいんだ。
そう言えば紅緒様が頷いてくれる。
「解った。兄上と常盤に、移動に関しては断っておこう」
「あざっす」
俺は幸せのただなかにあった。
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