ファイル名を上書きして

雪子

ファイル名を上書きして

 最近、「推し活」という便利な言葉を手に入れた。

 私は今まで、推しとはアイドルグループとか俳優さんとかで応援してる人、好きな人のことしか指さないと思っていた。しかし、最近では意味が拡張して、部活の先輩だったりバイト先のイケメンだったりを「推し」と呼ぶこともあるみたいだ。

 数日前、クラスの友人が同じクラスの男の子を「推し」と呼んでいるのを聞いてちょっとした衝撃を受けた。それと同時に、「あ、これだ」と思った。


 私には、目をつぶっておきたい思い出がある。なかったことにしたいでもなく、忘れてしまいたいでもなく、目をつぶっておきたい思い出だ。

 今から3年前、私が中学2年生だったとき、学校に一人の男性教諭が異動してきた。背が高くてひょろっとした、若い冴えない先生。ちょっと言い方はひどいけど、冴えないくせにやけにプライドが高くて、いつも偉そうな先生だった。自分には人望があると思っていて、学校の問題児にフラットに絡んだり、急に女子グループの話に混ざったりして、煙たがられていることも多かった。

 そんな先生が、私が所属していた生徒会の担当になった。ついでに社会の教科担任にもなった。

 最初はちょっとめんどくさい先生だなと思っていた。奇をてらって生徒会の仕事を少し変えたり、授業のやり方を変えてみたり。授業のやり方は別にいいけど、生徒会の仕事まで口出しされるのはなんだか少し嫌だった。

 今まで積み上げてきたやりやすいやり方、スムーズな方法をいうものが日常生活には多くあふれている。生徒会の仕事なんてそれが顕著だ。この時期にはこれをやって、やり方はこうでって大体手順が決まっている。一連の流れが出来上がっていることで新しいことを始める分の労力を、効率の良さや精密さの向上に回すことができる。

 それなのに、その先生は過去の積み重ねをいじりたがった。

「同じことをしていても進歩はないだろ」

 何かを始めるとき、先生は何度もそう繰り返した。

 他の生徒会のメンバーは、うんざりしていた。私にもその気持ちは分かった。新しいことを始めたり、新たなシステムの土台を作ったりすることは進歩のために確かに必要だ。でも、それを自分たちがやるのはなんだか損をした気がして嫌だったのである。

 今までの人が目をつぶってきた分のしわ寄せが、自分たちに回ってきたような感覚。やらなくてもよかったことまでこなさなきゃいけなくなって、「なんで私たちが」という一種の被害感情。生徒会には新しさよりも、今まで守り続けてきた「伝統」という名の習慣を大事にしたい人が多かった。新しさと伝統は、衝突しがちだ。

 だけど、私はその先生のことがどうしても嫌いになれなかったのである。もっと言うと惹かれていた。大きな理由は先生の口癖にあったと思う。

「頑張っている人が報われないのはおかしいだろ!!」

 授業で騒いでいる人がいるとき、部活をさぼって遊び始める人がいたとき、私が「真面目でつまらない」と後ろ指を指されたとき、先生は額の血管を浮き上がらせていつも本気でこう怒鳴っていた。

 初めて先生がそう怒鳴ったとき、思わず泣きそうになったのを覚えている。

 正しいことを正しいというのは時としてとても難しい。正義を語るのは、恥ずかしいだとか、青いだとか、若いだとか馬鹿にされることもよくある。実際、先生は「よくあんな恥ずかしいことを堂々と言えるね。努力なんてしても報われないこともあるって」と陰で言われていることも多かった。

 先生はそれを分かっていた。それなのに先生は、いつも本気で怒鳴るのだ。頑張っている人が報われるのが正しいことだと、それを馬鹿にしたり邪魔したりするのは間違っていると、先生は大きな声で主張してくれる。それだけで、報われたような気がした。

 そうやって先生と授業でも生徒会でも一緒に過ごすにつれて、どんどん先生が魅力的に見えてきた。先生に褒められたくて、たいして好きでもない社会を頑張っていい点を取ったり、わざと質問しに行ったりするようになった。生徒会では誰よりも頑張って先生が提案した企画に全力で取り組んだ。先生と生徒会室で2人きりに慣れたら密かに喜んでいたし、全校集会など体育館にみんなが集まるときは自然と先生を目で追っていた。女子中学生の「好き」なんて一過性のもので、「かわいい」と同じくらいに軽いものだと高をくくって、「先生好きです!」と冗談めいて頻繁に口にした。

 周りの人が、先生のことを煙たがっていても、嫌っていても全然よかった。むしろ、「私だけが先生の良さ分かっている」という優越感が心地よくさえあった。私だけが分かっていれば、私は先生にとっての唯一無二であり続けられる。特別でいられる。そんなふうに思うだけで、また今日も「頑張ろう」と前を向けた。

 それが振り返ってみると、とんでもなく恥ずかしいことだと高校生になって気づいたのである。目をつぶってしまいたいほどに、恥ずかしいことに思えた。いわゆる黒歴史というやつである。

 本気で恋愛感情として好きだったかと言われると、自信を持って頷けない。「生徒が先生に恋をするなんて…!」というプライドというか自制心みたいなものが私にも一応あって、無意識にブレーキを踏んでいたような気がする。真面目だからね。手をつなぎたいとか、そういった感情はなかった。

 だけど、今までの言動を振り彼って見ると、それはもう恋する乙女のそれなのだ。私はうまく立ち回っていたつもりだったけど、だだ洩れの好意は間違いなく先生に伝わっていたと思う。となると、わざと質問しに行ってたこともばれてるんじゃないか。「好き」なんて軽々しく口に出す恥ずかしいやつだと思われたなかったか。あ、いや、間違いなく恥ずかしいことではあるんだけど…。恥ずかしいことしたとき、できれば恥ずかしいと思っているのは私だけであってほしい。

 こんな恥ずかしい思い出でも、「目をつぶりたい」と思うのは、なかったことにはしたくないくらいに大事な思い出だからだ。

 はあ、思い出せば出すほど、手に変な汗をかいて目をつぶりたくなる。

 恥ずかしければ恥ずかしいほど、他の人に言えなかった。あんなに大好きな先生だったのに、正しいことを正しいと言ってくれる素敵な先生だったのに、どうしても友人に言えなかった。別に伝える必要があることではないが、秘めれば秘める分だけなんとなくやましいことのような気がしてもやもやしていた。

 そんなとき、その友人がクラスメイトの男の子を「推し」と表現したのだ。

 「あ、これだ」と思った。私が先生に抱いていた気持ちは、「推し」に対する感情だった。そう思った瞬間、恥ずかしさが少し軽減した。

 だって、先生がアイドルだったら?俳優さんだったら?私がやってたことって、そんなに恥ずかしいことでも珍しいことでもなくない?先生は、私にとって「推し」だった。あの行為も、その行為も、どの行為も「推し活」だった。そういうことでいいじゃん。うんうんそうだよ、そういうことだよ。

 私はその日、先生との思い出ファイルの名前を、「好きな人」から「推し」に変更した。

 そして翌日、中学からの友人に思い切って先生の話をしてみた。

「ねえねえ藤ちゃん、中学のときの増田先生って覚えてる?」

「うん。覚えてるよ。背が高くてひょろひょろしてぱっとしない先生でしょ?生徒会の担当だった」

「そうそう」

「みんな煙たがってたよねー」

 友人は私が期待した通りの反応をしてくれた。そうそう、背が高くてひょろひょろしてぱっとしてなくて煙たがられてる先生。その先生の魅力は私だけが分かっていればいい。

「私、先生の事ずっと推してたんだよね」

 よし、言えた。言い出したくても言い出せなかったことを口にして、もやもやが晴れていく。

「え、そうなの?私も先生のこと割とお気に入りだったよ!そっかー、ゆっちゃんも推しだったのか!いい先生だよね。『頑張っている人が報われないのはおかしいだろ!!』って怒鳴ってくれるところとか好きだったわー」

「え…」

 もやもやが、再び心を占拠した。さっきのもやもやとは別のもやもや。

 藤ちゃんも先生のことが好きだった?魅力を分かっていたのは私だけじゃなった?

 そんな疑問が頭に浮かぶにつれて、表情筋がこわばってくる。

 え、それはもう恋愛感情として好きだって?

 ううん。違うよ。これは同担拒否っていうやつだ。そういうことにしよう。

「そ、そうなんだー。私もその口癖好きだったよ」

 張り付けたような私の笑みを見て、藤ちゃんが不思議そうな顔をした。

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