雨男

@kaworukaworu

雨男

「雨男」1

プロローグ


細かい霧の様な雨に薄紫の看板が目に入る「カトレア」何処にでもあるスナックだ。

私はその木製の扉を開ける。

「カラン」

ベルの音が鈍く鳴って店内に響く、まだ午後6時になったばかりだ、多分チーママが他のホステス依り早く来て看板の電源を入れている、彼女が出勤して来るのは何時も5時位で、その日その日のお通しを作る為に早く来ているのだと聞いた。

「あら、薫ちゃんおはよう、早いわね」

「大和のフロリダでお茶してたんですけど、飽きちゃった、真紀子さん、何時もご精が出ますね、お通し、評判ですよ」

私のここでの名前は薫だ、基本的に夜アルバイトをする時は薫と言う名前を使っている、特に理由はない、強いて挙げるなら薫は男の名前でも通用するからだ。


そうだ、私はこのカトレアのホステスをしている、尤もホステスとは別に本業も持っている。食えないからではなくてただ何となく夜のアルバイトをしている、大体は頼まれるか、スカウトかのどちらかで、自分から積極的に行こうとは思わない。そして本業があるから、その事を盾にして好き勝手出来るだからいい小遣い稼ぎだと割り切ってしまえば何て事はない。

「薫ちゃんはもう慣れたの?」

「真紀子さんまぁまぁ、慣れました、ただ、私スナックって初めてで、ちょっと戸惑ったりしてますけどね」

真紀子が気を遣って私にアイスティを出してくれた。

「それ飲んだら、ドアに掛かってる準備中の札、営業中にしておいてね」

「は〜い」

私はアイスティを飲み干しドアを開けて彼女の言う通りに準備中から営業中にドアノブに掛かる札をひっくり返した。


「雨止まないのかなぁ、私傘持って来てないんですよぉ」

「薫ちゃん、帰り降ってたら店の置き傘使いなさいね」

「真紀子さん、ありがとう、でも雨の水曜日ってお客さん来そうにないですね」

「薫ちゃん呼んでくれる?」

彼女は私にすがる様な視線を向けて来る、私は黙って頷いた。

「大丈夫です、何人か来る予定ではいますから、すっぽかされなければ3組来ます、あ、もしかしたら4組かも」


チーママである彼女が私にそう客を呼んで欲しいと言ったのには訳がある。彼女は結構な年配で自分が持っている客にも限りがあって、そう毎日呼ぶ訳にはいかないらしいのだ、その点私は特に顧客管理をしていないのに何故か私が夜のアルバイトをする度に顧客が増える、一番古い客は私がまだ未成年の頃からだから14年越しの付き合いだ。

「薫ちゃんは今日もお迎えがあるの?」

「ありますよ、彼って心配症で、ちょっと面倒かも」

「心配してくれる内が花よ、大切になさいね」

「今度呼びます、興味あるみたいだから、不思議ですよね、クラブとかキャバレーだと来たがらないのに」

「スナックは気安いからじゃないのかしら?」


この店は完全歩合給なので私としては楽だ。但し完全歩合給なのは私だけらしい、だから在籍しているママとチーママを除く4人のホステスの給与形態はそれぞれ違うらしい。

「内緒ね、多分薫ちゃんが一番高給取りよ」

「マジ?私高々4割バックなのに?」

「薫ちゃんはまだ入って1週間しか経ってないけど、私の時給依り全然いいわよ」

「真紀子さんって時給なの?」

「もうお婆ちゃんだから時給でいいのよ」

「他の3人は?」

「内緒よ内緒、薫ちゃん以外は時給とドリンクバック位ね」

「それ、水商売の醍醐味なしの単なるアルバイトじゃん」

私に取っては歩合制ではない水商売は水商売ではない、単なる時給の良いアルバイトに過ぎない。自分の売り上げの何割かをもらう事の方が水商売と言う感じがする、時給稼ぎをするならコンビニで深夜とか早朝のアルバイトをした方がましだ。


この店に身を置く事になったのは、ママに頼まれたからだ、それも本業経由での事だったのでそんな事は初めてだ。私は精神病院の看護師なのだ、しかも閉鎖病棟勤務なので対面する人のほぼ全員が病んでいる、薬を飲んでいれば普通に話が出来る人も多いが、それは薬を飲んでいるからだ。

「谷口さん、今日仕事終わったらちょっと行かない?」

1ヶ月半位前、まだ桜の蕾も固く閉ざされて暦の上では春なのに体感する春はまだ遠い2月の下旬に、日勤だった日の帰りのロッカールームで珍しく同僚で同い年の上原が声を掛けて来た。

「飲み?私、飲めないもの」

「いい店あるのよ、ねぇ行こうよ」

結局上原に押し切られる形で連れて来られたのがこの店だ、20人も入れば満員の店はカウンターがメインで、テーブル席は2つだ、尤も1つのテーブルは荷物置きになってしまっていて実質テーブル席は4人掛けが1つあるだけだった。

「ママ、この子よ、ほら話してたじゃない?お水の経験あるって子」

ママの出勤は9時過ぎで空いている店内で私達はカラオケに興じていた、やがてママが出勤して上原が私をママに紹介、そしてアルバイトをしないかと誘われた。


水商売を元々嫌いではなかった私は、条件次第で受けても良いとママに伝える。

「何の条件かしら?」

「完全歩合制、歩合給でならお受けします」

「それは、どんな事を指してるの?」

「私は出来るだけお客さん呼びます、その売り上げを折半でどうですか?店とか他の女の子のお客さんの時もドリンクバックは欲しいですけどね」

話し合いの結果、他の女の子の客の時のドリンクバックも全部含めて、私の売り上げの4割が私の手取りになる事になった。

「じゃあ、名前を決めましょう、何がいいかしら?」

「薫でお願いします、名刺作ってくれるんですか?」

「名刺は自前でね、好きなデザインでいいから」

私は快く了承して4月の最初の月曜日から出勤する事を約束した。それ迄に客に連絡を取ったり、時には会食したりと割りと忙しい日々を送る、客の殆んどが、小田急江ノ島線沿線の高座渋谷と言う各駅停車しか停まらぬ駅の傍のスナックなのに、行くと色好い返事をしてくれた。


私のカトレアの出勤日は基本的には月水金の週3日だ。本業ではそんなに熱心に夜勤を入れるタイプではないので夜勤は月に2度ある位だから、この月水金は夜身体が空いている可能性は充分だ、それに夜のアルバイトも疲れたら本業をちらつかせて休もうと決めていたので気が楽だった。

「薫ちゃん、貴女が来てくれてからママの機嫌がいいのよ」

「売り上げの事ですよね?」

「まぁ、そうね、ママって見栄っ張りだから無理して湘南台の高いマンション借りてるけどねぇ、薫ちゃんが来る前は左前で困ってたみたいなの」

「まさかぁ、まだ1週間ですよ?」

「ママもねぇ、あれで見栄坊じゃなかったらよかったんだけどねぇ」

「確かに、私は銀座の女って二言目には出ますね、確かに確かに」


真紀子と話をしている内に客が来る、私が今日呼んでおいた客達だ。元々銀座、赤坂を遊び倒した客は小さな商店街の中のスナックは却って新鮮で面白いと言う人が多かった。

「いやぁ参ったね、霧雨だけどねまだ止まないねぇ」

来る客来る客が口々に言う。

「私が来る時から弱い雨なの」

「薫ちゃんは雨女じゃないよなぁ?」

「残念だけど晴れ女、本当、季節の変わり目よね」

私は自分の知っている客を相手にカラオケでデュエットしたり、夜食に焼きうどんを奢らせたりと楽しい一時を過ごした。


閉店後は今付き合っている彼氏が迎えに来る事になっている、その時、遅く迄店にいてくれた客も送る、今日は横浜方面に2人送る予定だ。

店を出て駐車場に停めてあるクラウンに乗ろうと少し歩く、雨は止んでいた。

空を見上げると半分になった月が笑った。(続)


次回 出会い

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