2-5
いつも同じ場所、同じ椅子。傍らの丸テーブルに本を積んで、ピンと背筋を伸ばして、黙々と読んでいる。下手をすれば、何時間も。その姿もまたすごく絵になるらしい。
相当本が好きなのか、講義中、講師がまったく関係ない話をダラダラと続けていたら、突然荷物を片づけ、教室を出ていこうとする。慌てて呼び止めて、どうしたと尋ねたら、教室にいた全員が見惚れるほど美しい笑顔で「申し訳ありません。聡慧な先生のお話にはようついていかれへんので、本を読んで勉強してきます」と言ったというのは有名な話だ。
京都の人は、本音を『生八つ橋』に包んで言う。
結局これは、『つまらないし、このまま聞いているのは無駄でしかない。時間は有効に使いたいんで、本を読みに行きます。本のほうが役に立つので』の意。
京都人特有の『いけず』な言い回しとその美しすぎる笑顔に、講師は顔を真っ赤にして「ごめんなさい……」と謝ってしまい、彼女は「いややわ。謝らんといてください。次はついていけるように、お勉強しますよって」と言って、颯爽と出ていったという。
以来――『つまらない授業』をすると退室されてしまうとして、講義を担当する講師は戦々恐々とするようになったって話。
なるほどね。うちの大学の『いけずな京のお姫さま』は、たしかに綺麗だ。
「毎日」
妙に感心していると、錦さんが小さく呟き、その流麗な眉をひそめる。
「給料は入ったのに、毎日?」
そして、僕を見上げて、なんだか不愉快そうに顔を歪めた。
「あの子に、毎日ここに来るよう言いはったんですか?」
「え? ああ、はい。最初はたしかに給料日までって話だったんですけど、四ノ宮さん、こちらが思ってたよりずっと生活力がなくて、このまま放っておけないってことで……。店主が、このまましばらく通うように提案したんです」
「いくら心配や言うたって」
僕の言葉を遮るように、錦さんが口を開く。
「お客さんがはけはって男二人しかおらんところに、若い女の子を呼ぶやなんて、なんや、店主さんはおおらかな方なんですねぇ」
その言葉に、思わず目を見開く。
「いや、それは……!」
慌てて反論をしようとした瞬間、錦さんがにっこりと――文句のつけようのない美しい笑みを浮かべた。
「うちは気ぃが小さぁて、そんなことようしませんわ」
「っ……」
出た。京都人の『いけず』!
これは訳すと、『男二人しかいない場所に若い女の子を誘うなんて、店主は無神経だ。そんな真似ができるなんて、恥知らず』の意だ。
「いや、ええと……」
僕は頭を掻きながら、下を向いた。
誤解しないでほしいのだけれど、僕はこの『いけず』は優れた文化だと思っている。
たしかに、京都育ちでない人にはわかりにくいし、嫌味を言われたと受け取って不快に思う人も、苦手とする人も多い。でも、これは京都人特有の無用な衝突を生まないための高度な社交術で、会話術だ。
無用な衝突を生まないよう、ほどほどの距離を保ちながらの、『察してください』――。
決して、閉鎖的でも、よそ者に対して排他的でもなく、むしろ門扉を広く、さまざまな人々を受け入れてきたからこそ、生まれた文化だと思っている。
『いけず』は、京都という街の懐の深さを、奥行きを端的に表しているものだ。
でも、僕自身は京都の人間ではないから、どうしても脳内での変換作業がいる。的確な返答をするためには、どうしても数秒の時間が必要になってしまう。
そのため――。
「おまたせ……!」
その間に、バッグとテイクアウトの紙袋を持って、四ノ宮さんが戻って来てしまう。
もう僕と話をする気などないと言わんばかりに、錦さんが四ノ宮さんに視線を移して、綺麗な笑みを浮かべる。僕はそっとため息をついた。
ああ、反論できなかった。
「もう大丈夫なん?」
「うん。――榊木くん。本当にありがとう。また明日」
四ノ宮さんが僕を見上げて、本当に嬉しそうにニコッと笑う。
「あ、ああ、また、あし……」
つられて『また明日』と言いそうになって――瞬間、錦さんがギロリと僕をにらむ。
その、鬼も裸足で逃げ出すほどの眼力に、僕はビクッと身を弾かせた。
「あ……いや、ええと……」
歯切れが悪くなった僕に、四ノ宮さんは一瞬不思議そうな顔をしたものの、しかし間髪容れず、錦さんがはんなり笑顔で「ほな、行こか」と彼女を促す。
「うん! あ、途中で、黄昏堂さんに寄ってもいい?」
「古書店の? お馬鹿な買い方をせんならな」
「菊ちゃんがいてくれるし、大丈夫だよ!」
「…………」
僕は呆然としたまま、きゃっきゃと楽しげに去ってゆく二人の背を見送った。
う、うわ~! 『いけずな京のお姫さま』、怖ぇ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます