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 僕は物心つく前に母を亡くし、サラリーマンの父に男手一つで育てられた。

 小学三年生までは、父方の祖母が同居してくれていたから、『お袋の味』というものに僕はちゃんと触れられたし、また堪能もしていたと思う。もうよく覚えていないけれど。

 だけど祖母が亡くなってからは、食事はコンビニ弁当やスーパーのお惣菜、レトルトやインスタント食品へと様変わりした。父はそれまで料理をほとんどしたことがなかったし、僕もまだ小学生で、一人で火を扱わせるのには不安があったからだ。


 勘違いしないでほしいのは、それをとやかく言うつもりはまったくない。


 子供を育てるには、尋常じゃないお金がかかるもの。父は僕のために必死に稼ぎながら、僕のためにしっかり家事をして、僕のために僕とのふれあいの時間もちゃんと作っていた。


 家が荒れていたことはほとんどなく、鍵っ子ではあったけれど寂しい思いをしたこともほとんどない。休日は、掃除に洗濯にと平日以上に忙しくしながらも、僕の勉強を見て、それが終わったら大いに遊んでくれた。運動会などの学校行事には必ず参加してくれたし、学校の父母会や地域の集まりなどにも、片親であることや仕事を理由に欠席することなく積極的に顔を出した。僕が家事を手伝えるようになってからは、徐々に仕事の時間が増え、帰りも遅くなっていったけれど、それでもそのあたりは一貫して変わらなかった。


 高校や大学の受験時には、『学費がかかることを理由に、選択肢を狭めるんじゃない。子供のために金を出すのは、親の役目だ!』とドンと胸を叩いてくれた。


 そんな父にはとても感謝しているし、素直に尊敬している。いや、本当にすごいと思う。同じことをしろと言われても、僕にはできる気がしない。


 だから、料理だけはどうしても苦手で、コンビニ弁当やスーパーのお惣菜、レトルト、インスタント食品に頼っていることを、父は申し訳なく思っていたみたいだったけれど、僕的には、むしろ料理ぐらいサボってくれという気持ちだった。


 すべて完璧にこなしていたら、どこかで身体を壊してしまっていたんじゃないだろうか。あのころの父の働きっぷりは、それほどのものだったと思う。


 そういうわけだから、父を批判する意図などこれっぽっちもないことを強調した上で、ただの事実として言うけれど、だから僕は『食』に興味が持てなかった。


 小学生ころの僕には、父と楽しく食べること以外に重要なことなどなかったから。


 中・高校生のころの僕には、少しでも父にラクをしてもらうことのほうが大事だった。


 味とか、栄養のバランスとか、そんなものは二の次三の次。それこそ和食だとか、日本文化だとか、そんなものは一切気にしたことがなかった。


 今日食べたものが、明日の自分を作っているだなんて――それの積み重ねで僕の身体はできているだなんて、考えたこともなかった。


 そんなふうだったからこそ、大学で一人暮らしをはじめた途端、食生活は一気に侘しいものとなった。


 朝は食べない。それよりも、一分一秒でも長く寝たいから。

 昼はパンか学食のうどん。二百円以内で手早く食べられるものを。

 夜は牛丼かスーパーの半額弁当。基本的に四百円まで。本当に金がない時は、もやしを茹でて食べる。


 節約するのは、まず食費。今思えば、恐ろしい考えだ。食こそ、生きる基本なのに。

 当然、そんな生活が長く続くわけもなく、破綻は三ヶ月半ほどで訪れた。


 はじめてのテスト期間を乗り越えて、夏休みにめいいっぱい稼ごうと、バイトの面接に向かう途中――僕は倒れた。


 あの女性と同じく、一陽さんが営むこの『稲成り』の目の前で。




 

          ◇*◇




 

「小僧」


 羽釜をゴシゴシ洗っていると、ふいに空気から溶け出すようにクロが現れた。


「娘が目を覚ましたぞ」


「……! 様子は!?」


「ぼんやりはしているが、顔色はいくらかましになったようだぞ」


 その言葉にホッとする。


「ありがとう。すぐ行くよ」


 手早く手の泡を落とながら言うと、クロが「あの娘、貴様によく似ておるわ」と呆れたように呟いて、その場から掻き消える。


「……? どういう意味だ…?」


 一陽さんやシロが言ったとおり『一年前の僕と似たような状況』という意味だろうか?それにしては、なんかニュアンスがおかしかったけれど。


 頭のタオルを外して、パパッと作務衣をはたくと、僕は箱階段を駆け上がった。


 そのまま襖を開けようとして――すんでで踏み止まる。いけない。向こうにいるのは、女性だった。


「ええと、入りますね?」


 声をかけると、「は、はい!」とうわずった声が応える。一拍置いて、僕はそっと襖を開けた。

「失礼します」と、次の間からおずおずと奥座敷を覗くと、なぜか頬を赤く染めた女性が、僕を見上げて目を丸くした。

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