1-9

「いえ、おそらく熱中症ではないので」


 首を横に振ったところで、一陽さんが僕のもとにやってくる。


「そうだな。うちの店で、少し休んでもらおう」


 そう言って、そっと女性を抱き上げる。僕も続いて立ち上がった。


「僕らは、そこの飯屋の者です。あとのことは任せてください」


「お任せしてよろしい? 申し訳ないんやけど、このあと約束があって……」


「ええ。大丈夫ですよ。もし、気になるようでしたら」


 僕は作務衣のポケットからお店のカードを出して、差し出した。


「こちらに連絡いただければ、ご報告させていただきます。早朝から十七時ごろまでは、誰かしらいますので」


「ああ、おおきに」


 老婦人がホッとした様子で、それを受け取る。


「ほな、お願いします」


 綺麗な所作で頭を下げて、去ってゆく。

 その後ろ姿を笑顔で見送って、僕は足早に店に戻った。


「一陽さん……!」


「今、クロが二階に運んだ」


 そう言って、火袋を指差す。僕は美しい吹き抜け空間を見上げて、ポカンと口を開けた。


「え? ここから?」


「あの狭い箱階段を、人を抱えて上がれると思うか?」


「いや、思いませんけど……でも……」


「抱き上げた直後に、完全に意識を失ったのでな。クロに彼女を咥えて飛んでもらった。そのほうが早い」


 ――聞かなかったことにします。


「一応、お水を用意しようと思うんですけど、保冷剤や氷枕はどうします?」


「いや、あれは必要ないだろう」


 一陽さんが首を横に振る。そして小さく肩をすくめると、二階を見上げた。


「去年のお前と同じだ。いや――おそらく去年のお前よりひどいだろう。気づいたか? この猛暑の中、厚手のカーディガンを着ていたぞ」


「……!」


 思わず、二階を見上げる。


「シロに、カーディガンは脱がして、下着やベルトは緩めておくよう指示をした。あとは二階の風通しをよくして、扇風機を回せば大丈夫だろう。エアコンも必要ないと思うぞ。むしろ、あまり身体を冷やしてやらないほうがいいだろう。女の子だしな」


「わかりました」


 ダイドコへ行って、水差しに冷たい水を入れ、グラスとともにトレーに載せる。ふと、思いついて、おしぼりも用意する。

 僕はそれを持って、二階に上がった。もちろん、箱階段で。


 ナカノマとオクの真上は、一階と同じく二間続きの座敷だ。


 真新しい青々とした畳に、味わい深い真壁造りの土壁。床間には、水墨画の掛け軸が。そちらに頭を向けて、女性は静かに寝かされていた。


 僕は盆を床間の前に置くと、音を立てないように気をつけながら障子を開けた。続いて窓も解放し、隣の部屋へ。そちらも同じように開け放つ。


 京町家は、『うなぎの寝床』と呼ばれるように、間口が狭く、奥に長い造りが特徴だ。

 それゆえに、表の通り側と奥庭側の窓を開けると、一直線の空気の通り道ができる。

 とはいえ、真夏の太陽に思いっきり熱された風が通り抜けたところで、決して涼しくはないのだけれど。


 僕は、次の間の窓際に置いてあった扇風機を持って、女性の傍に戻った。


「ゆるく回しておくな? 暑がる様子を見せたら、エアコンをつけてやってくれ。あと、それ以外に何か異変が起きたら、すぐに僕を呼んで」


「わかりました」


 扇風機をセットし、スイッチを押す。穏やかな風が、シロの見事な毛並みをふわふわと揺らした。


「早く意識が戻るといいけどね」


「そうですね。ぬしさまに、時間外労働をさせるわけにはまいりませんから」


 そう言って――シロは僕を見上げると、ふふんと笑った。


「自分を見ているようなのではありませんか?」


「……言うなよ。わりと黒歴史なんだから」


「ならば、その過ちを繰り返さぬように励みなさい」


 シロはピシャリと言って、僕をにらみつけた。


「あと、お昼の営業は終わったばかり。片付けが残っているはずですよ。凛。ぬしさまに負担をかけてはなりません。働きなさい」


「おっと。そうだった」


 慌てて、立ち上がる。


 繊細な透かし欄間に、稲穂波文様の京唐紙が使われた襖。真っ白な障子からは、太陽の光がたっぷりと差し込んでいる。


 一年前のあの日から、何一つとして変わっていない。



 あの時も、心が震えた。



 ああ、なんて美しい町家だろうと――。



 

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