1-5
「たかだか三時間前だ。それなのに、もう減ったのか?」
マドラーで慎重に計った味噌を味噌濾しに入れ、お出汁の中に浸すのをじっと見ながら、僕は肩をすくめた。
「すぐ動くので、量を抑えてるのもありますけど、この匂いが……。ああ、もう~」
一陽さんが、丁寧に味噌を溶かしてゆく。ハシリを満たした味噌の香りに、僕は思わず両手で顔を覆った。
「いい匂いすぎる……! 僕にとって朝営業の時間は、わりと拷問です……!」
この店の『朝ごはん』の営業は、七時から十時までの三時間。つまり、僕はお客さまが真っ白でつやつやの炊きたてごはんを美味しそうに食す姿を、これから三時間、すき腹を抱えて見続けなければならないのだ。これを拷問と言わずして、なんと言おう?
「でも、営業前に何かつまむ気にもなれないんですよ。食べたいのはこれなんで」
二つの羽釜を指差す。おくどさんで炊いたごはん。この『ごちそう』だけ。
「絶対に炊飯器じゃ出せない味なんで! 炊飯用の土鍋を買って、ガスコンロで炊いてもみたんですけど、それもやっぱり違うんですよ! 近いところまではいくんですけど!」
「まぁ、そうだろうな」
「このごちそうを腹いっぱい食べたいんで、朝営業が終わるまでは絶対に何も食べません。これを前にして、ほかのもので腹を満たしてしまうなんてもったいなすぎる!」
「そうだろう。そうだろう」
味噌を溶かし終えた一陽さんが満足げに頷いて、囲炉裏鍋をおくどさんに戻す。
「貴様もようやく、この店のバイトらしくなってきたではないか。私は嬉しいぞ」
「……そうですか。一陽さんは、もう少し『令和の時代』を勉強しましょうね」
貴様って……。昔は、親しい対等の間柄で尊敬の意も含まれた二人称だったけど、今は相手を罵る意味合いが強い言葉だから。それ。
僕がそう言うと、一陽さんが目を丸くする。
「そうなのか? しかし、さっきクロも言っていたろう?」
「クロは、ちゃんと僕を罵る時に使ってますよ」
「そうだったのか……」
一陽さんが鍋を見つめたまま、ふむと考え込む。
「ああ、いや、僕相手なら別にいいんですけどね? 僕は一陽さんの正体を知ってますし、だから今時の言葉遣いに若干疎いこともわかってますから」
「だが、知らぬ者は、不快に思うことが多いというわけか。わかった。記憶しておこう」
素直に頷いて、おたまでゆっくりと鍋の中を掻き混ぜる。
味噌汁は煮立たせてはいけない。香りも旨味も飛んでしまうからだ。鍋の底から細かい泡がフツフツと上がってきた瞬間、おくどさんから下ろす。
それを、カミダイドコのテーブルの上の味噌汁用保温鍋に入れ、スイッチを入れる。
「よし。味噌汁も完成だ。あと十分。いい時間だ。――凛」
ハシリに下り、ダイドコへ向かいながら、一陽さんが目を細める。
「飯は任せたぞ」
「はい!」
羽釜の蓋を開けると、閉じ込められていた蒸気が一気に立ち上る。その、少し甘い――炊きたてごはん特有の香りに、胸が高鳴る。
五本指タイプの厚手の耐熱ミトンを左手につけて、あらかじめ水につけておいた大きな木製のしゃもじを手に、中を覗き込む。
水に数滴のにがりを入れて炊いたごはんは、粒がしっかりと立っていて、艶めかしさを感じるほどにつやつやだ。その中心に十字に切り込みを入れて四等分して、四分の一ずつ、釜底からひっくり返すようにほぐす。
もくもくと上がる蒸気に、汗が噴き出す。頭に巻いたタオルの端でそれを拭いながら、一気に二釜分やってしまう。
そうしたら、それを保温専用の炊飯器に入れ、スイッチオン。
「ええと……」
テーブルの下から木の札の束を取り出して、選ぶ。
「今日は、北海道産のゆめぴりかと、岐阜美濃産のハツシモ」
流麗な文字で産地と銘柄が書かれた札を、それぞれの炊飯器の前に置く。
「よし!」
おくどさんの火をすべて掻き出して、勝手口の外にある炭置き場へと運んで、しっかり火の処理をする。
そして、勝手口を閉めると、流し台で再度きっちり手を洗って、カミダイドコから中に上がって、ナカノマからオクへ。そしてオクから、ダイドコに通じる襖を叩いた。
「一陽さん、OKです!」
それと同時に戸が開いて、一陽さんが大皿を差し出す。
「よし! 運べ!」
「はい!」
その美しく積み上げられた関西風の出汁巻き玉子に、ゴクリと喉が鳴る。ああ、なんて美味しそうなんだろう!
一陽さんが次々差し出す皿や鉢を、ナカノマの箱階段の前の長テーブルに運ぶ。
出汁巻き玉子、茹で玉子、生玉子。今日の焼き魚は塩鮭だ。そして、鶏肉の幽庵焼き。京都と言えば、ちりめん山椒。佃煮も忘れてはいけない。今日は自家製のしじみ時雨に、『京こんぶ千波』さんのラー油きくらげと、夏らしい青山椒入り乱切塩昆布。
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