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 とはいえ――十五分間放っておけるわけではない。おくどさんの前を離れられる時間は、そう長くない。僕は急いで手を洗うと、消毒用のアルコールスプレーと布巾を持ってカミダイドコに上がった。


 四畳ほどの板の間の両側の壁際に置いてあるテーブルをチェックする。ダイドコ側には、業務用の保温専用炊飯器が二つ。その隣には、ご飯茶碗が積み上げられた盆。しゃもじに、水を入れたしゃもじ入れ。その前のスペースも、もう一度綺麗に拭き上げる。


 玄関側のテーブルには、味噌汁を入れる保温専用鍋。その隣には、味噌汁の碗と取り皿、湯呑み、そして箸にお手拭き。あとは個人で使う脇取盆が、それぞれ積み上げられている。よし。充分な数があるな。


 カミダイドコの奥には八畳のナカノマがある。その名のとおり、中の間だ。昔間しゃくま畳での八畳だから、今現在一般的な団地間で換算すると、十畳以上になる。


 手前に二つ並ぶ四人用の座卓を、これもまたアルコールで丁寧に拭き上げる。座布団の歪みを正して、掃除を丁寧にしたあとだけれど、もう一度ゴミや埃が落ちていないか畳をチェックする。

 壁際には、長年使い込まれて飴色になった古い箱階段が。箱階段とは、その名のとおり木製の箱を段々に積み上げたような形の階段のことを言う。簡単に言うと、人がその上を昇り降りしてもまったく問題ない強度で作られた、階段状になっている戸棚だ。


 明治期に町家などで用いられたもので、今ではなかなか見ることがない。足を載せるとギシリと鳴く。歴史を感じさせる木の風合いが、なんとも魅力的だった。

 その前に並べられた、廃材で作った長テーブルの上も入念に拭く。ここにも充分な数の大小の取り皿を。


 ナカノマの隣――ダイドコの奥は、オクと呼ばれる奥座敷がある。こちらも、昔間畳の八畳間だ。京町家における一番格式高い部屋で、床間や床脇が設えられている。

 そこにかけられた書と、色とりどりの花が浮かぶ水鉢をチェックし、四つ並ぶ四人用の座卓を綺麗にする。合計十六枚の座布団も、ビシリと整える。


 オクの障子の向こうに広がるのは、奥庭だ。奥庭に沿うようにL字に走る縁側を通って、建物の最奥にあるトイレへ。ここだけは、最新式だ。


 その中も、もう一度隅々まで確認して、終了。


「よし……! 完璧……!」


 おくどさんの前に戻って、囲炉裏鍋の中を確認し、ダイドコにいる一陽さんに「お鍋、沸きましたよ!」と声をかける。


 そして、僕は羽釜の近くに顔を寄せると、中から聞こえる音に集中した。

 チリチリと小さな音がする。――もう少しだ。


「凛。準備は?」


 ダイドコから、ザルを持った一陽さんが出てくる。


「バッチリです。いつでも並べられますよ」


「よし」


 囲炉裏鍋に半月切りにしたナスを入れ、すぐさま蓋を閉める。


「鍋がもう一度沸いたら教えてくれ」


「了解です」


 一陽さんが忙しそうにダイドコに戻ってゆく。


 羽釜にもう一度耳を近づけると、チリチリいっていた音がパチパチと大きくなっている。僕は薪の上にある藁を手に取ると、焚口から中へと突っ込んだ。

 一拍置いて、火が勢いを取り戻して一気に燃え上がる。そのまま十秒。十秒経ったら、すべての薪を掻き出して、囲炉裏鍋の下に入れてしまう。このまま蒸らしだ。


 羽釜の隙間から、甘くて香ばしい――なんともいい香りが漂ってくる。ああ、これだ。これがたまらない。思わず、ごくりと唾を呑み込む。

 早く、つやつやとした真っ白いご飯を拝みたい。でも、ここで蓋を取ってはいけない。どれだけ気持ちが逸ろうと、じっと我慢。

 いわゆる『赤子泣いても蓋取るな』ってヤツだ。


「あ~……腹減ってきた……」


 早く食わせろと言わんばかりに、グゥグゥと抗議をはじめた腹をさすりながら、「一陽さーん」と声を上げる。


「お鍋、沸きましたよー!」


 すると間髪容れず、「そうか。では、火から下ろしてくれ」と返ってくる。僕は布巾を持ち手に巻いて、両手で鍋を持ち上げた。すぐ脇の石造りの台に、よいしょとそれを移動させる。

 ほぼ同時に、わかめと白味噌、味噌濾し、軽量もできる味噌マドラーを載せた盆を手に、ダイドコから姿を現す。

 そして、腹をさすっている僕を見て、ふと眉を寄せた。


「ん? なんだ。腹が減ったのか? まさか、朝食を摂らずに来たのか? おいおい……。朝は絶対に抜くなと言ったろう?」


「そう怒られたんで、ちゃんと食べてますよ。簡単に、ですけど」


「本当か? 今朝のメニューは?」


 一陽さんが傍に来て、囲炉裏鍋の蓋を開ける。お出汁のいい香りがあたりに漂う。


「卵かけごはんとおつけもの。昨日の夕飯の残りの、鯖缶を使った船場汁」


「なかなかしっかり食べてるじゃないか。食べたのは四時台だろう?」


 鍋の中にわかめを入れながら、一陽さんが首を傾げる。

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