1-3

 ――そうか? そうでもないだろ。ドタバタ走り回って、掃除の邪魔をすることなんてしょっちゅうじゃないか。それともあれは、掃除をしている僕の邪魔をしているだけって認識なのか?


「では、ぬしさま」


 黒いのもあとに続いてカミダイドコに上がり、二匹揃って一陽さんを見上げた。


「我らは別室にて控えております」


 そのまま深々と頭を下げ、二匹の神使しんしがドロンとその場から掻き消える。

 僕はビクッと身を震わせ、慌てて玄関のほうに視線を走らせた。


 角度的に、外からは絶対に見えないとわかっていても、肝が冷える。誰かが見ていたらどうするんだ。


 これでわかったと思う。一年前も、彼は――いや、彼らは、こんな調子で僕の目の前で次々と『ありえないこと』をして見せたのだ。


 クロとシロは、あの姿形と人の言葉を話しているだけでもう充分ありえないのだけど、今のように不意に掻き消えたり、反対に空気から溶け出すように姿を現したりした上で、牛や馬よりも大きな姿に変化へんげまでしてみせた。


 変化と言えば、一陽さんもだ。神だという言葉を信じようとしない僕に、彼は人の姿を一瞬で脱ぎ棄て、その神々しい姿を見せてくれた。


 純白のきよめの上衣うわぎぬに艶やかな光沢のある白絹の袍。深い紫色の裳と呼ばれるスカート。金糸の美しい刺繍が施された鮮やかな領巾ひれを肩がけしていた。手首には、金の鈴の手纒たまき。首には瑪瑙や翡翠――瑠璃のたまくだ玉、勾玉まがたま頸珠くびかざりをかけている。古墳時代と奈良時代の衣装を足して二で割ったような、そんないでたちだった。


 肩甲骨ぐらいまでの長さだった白髪は、一瞬で床につくほどに。それも、美しく複雑に結い上げての話だから、実際には平安時代のお姫さまよりもっと長いのだと思う。


 髪や衣装のせいもあってか、完璧に思えた神さびた美貌はさらに神々しく、怖いほどで、その姿を目の当たりにした僕は、その場に崩れ落ちるように膝をつき、頭を下げていた。 そうせずにはいられない、気高さだった。


 威厳があるどころの話ではない。神聖なるその姿に、身体がブルブルと震えた。


 そんな僕に、彼は厳かに言った。『我は稲荷大明神。貴様たちが「お稲荷さん」と呼ぶ者だ』と――。


 稲荷大明神は、稲を象徴する穀霊神であり、農耕神だ。


 宇迦之御魂神は、その稲荷大明神と同一視される、日本神話に登場する神。『宇迦』は穀物・食物の意味で、五穀をつかさどる。


 宇迦之御魂神は女神だというのが定説だけれど、どうやらそれは一陽さんのもう一つの顔ということらしい。


 神には二つの顔がある。人や土地を愛し守る、慈愛に満ちた面。祟りでもって愚か者に鉄槌を下す、無慈悲な面。先は和魂にぎみたま。あとは荒魂あらみたまと呼ばれている。正反対の性質だから、同一の神であっても、別々の名がつけられたり、別々の社に祀られたりもする。


 それだけではない。善行や積み重ねた功徳を評価し、運気でもって人に幸せをもたらす幸魂さちみたま。世のことわりを無視するほどの神力でもって奇跡を起こす奇魂くしみたまというものもある。


 森羅万象――この宇宙のありとあらゆるものは、陰と陽に分けられる。両方が存在して、はじめて世界は成立している。決して片方だけでは成り立たない。たとえば、光があれば、闇がある。朝があれば、夜がある。男がいれば、女がいる。陰陽思想というヤツだ。


 神も同じだ。和魂と荒魂、幸魂と奇魂など――二つの面があって、はじめて成立する。


 神と僕らと違うのは、僕らはどちらか片方の性質だけしか持たず、必ず対となる性質を持つものが存在しているけれど、神さまである一陽さんは、自身が二つの性質を持つ完全な存在ということ。


 小難しい説明をしたけれと、要するに一陽さんは、男神でも女神でもあるというわけ。


『今は、こちらのほうが何かと都合がよいのでな、ここ千年ほどは男の姿をとっておる。私は女神ではなく、かといって男神というわけでもないが、人の姿をしている時は男だ。そう認識してくれて差し支えない』


 一陽さんは一瞬にして人の姿に戻って、そう言った。


 そこで、僕はギブアップ。完全に白旗を揚げた。


 だって、そうだろう? 何もないところから種類もわからない獣が現れたり、それが人の言葉を話したり、牛や馬よりも大きくなったり。さらには作務衣姿の美形が、その髪を一瞬で十余年分ぐらい伸ばしたり、見たこともないような美しい装束を纏う神々しい姿に変身したり……。それだけの奇跡を見せられてしまっては、どれだけ信じられなくても、受け入れられなくても、それ否定することなどできるはずがない。


 一陽さんは、神さま。クロとシロは、その御使い。

 それを『事実』として――まぎれもない『現実』として、受け入れるしかなかった。


「お……!」


 羽釜の口と蓋の間から、勢いよく白い湯気が噴き出してくる。どうやら沸騰したようだ。僕はおくどさんの前に膝つき、火ばさみを焚口に突っ込んだ。

 大きな薪を二本ほど抜き、囲炉裏鍋の竈底へ入れる。そして、さらに残った薪を叩いて崩して、火を弱める。


「こんなもんか……?」


 もう一つの羽釜の下も同じように、火を弱くする。ここの火加減は、とても大事だ。

 慎重に、炎と薪の状態を見ながら、竈内部の温度を探る。


「よし……! このまま十五分……!」

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