第20話 ドクトルさんとの別れ2
ささくれ立った荷台の床板に頬を押し付けながら、車輪や馬の蹄が地面を叩く音だけを耳にする。無理やり動こうとすると同乗している兵士に軽く蹴られたので、抵抗は早々に諦めた。
馬車に揺られ始めてから、いったいどれくらいの時間が経過しただろうか。
上り坂を行くように車体が後ろへ傾き、続いて長時間前方に傾いていたため、おそらく峠を一つ越えた頃合いだろう。手足を縛られ、口も目も塞がれた状態での移送は、健人の体力と精神力を限界まで追い詰めていた。
やがて平坦な地面が続き、舗装された道路の上へと乗ったように揺れが静かになる。それからしばらく走ると、馬車が唐突に止まった。
「歩け」
荷台に入って来た兵士がそう言うと、足の拘束と猿ぐつわが解かれた。
健人にはすでに抵抗する気力が無いという判断なのだろうが……その通りだ。疲弊の限りを尽くした健人には、素直に従う選択肢しかなかった。
手綱を引かれる奴隷のようにして、健人は兵士に引っ張られるがまま歩く。
ここはどこだ? 黴臭く、空気が籠っている。自分や兵士の足音が響いていることから、サラマンダーの洞窟ほどではないが、どこか密閉された通路のようだ。
そんなことを考えながら従順に歩いていると、前を行く兵士の足が止まった。
膝の裏をしたたかに蹴られた健人は、強制的に座らされる。
すると突然、目隠しが取られた。暗闇に慣れてしまった健人は眩しそうに目を細めたのだが……周りが薄暗いため、すぐに順応することができた。
「ここは……」
連れて来られたその場所には見覚えがあった。
石造りの広い空間。礼拝堂のように高い天井。ただ礼拝者が座る長椅子や装飾品などは一切なく、また崇めるための偶像もない。調度品らしい調度品といえば、壁際で佇んでいるいくつもの燭台くらいだろう。
囚人を退屈で殺すだだっ広い牢獄。というのが、健人の印象だった。
そして何よりも特徴的なのが、教室を丸々一つ飲み込むほどの巨大な魔法陣が、地面の中心に描かれていることだ。
そう。ここは異世界から来た健人たちが最初に降り立った、召喚の間だった。
「どういう……ことだ?」
「ふん。最後だから教えてやろう」
疲労困憊の健人が呆気に取られていると、金髪の兵士が近づいてきた。
横に立った兵士長のガルディアは、嫌悪感を露わにした目つきで健人を見下す。健人もまたガルディアの顔を睨みつけ、鼻の頭に皴を寄せた。
「貴様を元の世界へ帰してやる」
「はあ? なんで今さら……」
「それが魔女との取り引きだからだ。貴様を元の世界に帰すという条件で、魔女は一時的に我々に力を貸すことを承諾してくれたのだよ」
魔女という単語で『万能の魔女』であるカーシャの顔が浮かんだが、おそらく違う。話の流れからして、ドクトルのことを指しているのだろう。
そしてどういう成り行きで自分が召喚の間に連れて来られたのか、奇跡的にも即座に理解することができた。
ドクトルと出会った当初、健人は早く元の世界に帰りたいと宣言していた。それを覚えていた彼女は、兵士長が持ち掛けた『協力すれば健人を元の世界へ帰してやる』という取り引きを受けたのだ。
……人質が彼女の弟ではなく自分だったことが悔しくて、健人は血が滲むほど強く唇を噛みしめる。さらにそうまでして自分を心配してくれていたのかと、感謝から涙まで滲んできた。
だが……このままでは帰れない。帰るわけにはいかない。
「……帰るのはいい。けど最後に一言でもいいからドクトルさんにお礼を言わせてくれ」
「それはできない。それでは貴様らを引き離した意味が無いからな」
「何だと?」
その一言で、健人は気づいてしまった。これは交渉ではなく……単なる脅迫だ。
健人とドクトルが揃っている状態で交渉しても、決裂するのは目に見えている。ドクトルを戦争へ参加させるくらいなら、健人は間違いなく条件を拒むだろうから。それを予想していたガルディアは、二人が離れ離れになったところを狙ったのだ。もし従わなければ健人の命はないぞ、などと脅すために。
ちゃんと交渉条件を守ってくれているという、ある意味兵士側にも向けていた感謝がすっかりと吹っ飛んでしまった。
汚いやり方に、健人は今まで浮かべたことのない憤怒の形相でガルディアを睨みつけた。
「なんで……今さらになってドクトルさんを頼るんだ?」
「なんで、だと?」
すると突然、ガルディアの態度が豹変した。
仏頂面ながらも温和だった表情が、醜い鬼のような風貌へと一変する。
「貴様らのせいでウェルリア東区の砦が取られたからだろうが!」
激昂したガルディアが、腰の高さにある健人の顔を勢い任せに蹴った。そして何度か頭を殴りつけながら、意識が飛びかける健人に向けて一気に捲し立てた。
「貴様らが相手にした魔王軍は、定期的に来る単なる斥候だったんだよ! 俺たち人類側の兵力を削るためと、牽制の意味も込めてな。だが貴様らがばかすか死ぬもんだから、こちらの兵力が落ちたと判断して本気で攻めてきやがった。それで一昨日、ついに砦を取られちまったんだよ! 今あの砦を取られるのはマズいし……なにより俺の経歴に傷がついた!」
あまりにも理不尽な物言いに、さすがの健人も黙ってはいられなかった。
「俺たちには関係ないだろうが!」
「黙れ!」
最後の一発、怒号を上げたガルディアが健人の頬を殴り抜けた。両手を縛られ抵抗できない健人は、鼻から血を出しながら石の床に倒れてしまう。
それで気が済んだのか、ガルディアは肩を上下させるほど荒げていた息をすぐに整えた。
「まあいい。あの魔女が協力すれば取り返したも同然だ。別に貴様を殺してしまっても構わないが、万が一バレた時の逆襲が怖いから約束は守るさ」
ガルディアが合図をすると、待機していた数人の魔導士が手を挙げた。すると魔法陣の中心に白い光が灯る。あの光は知っている。召喚された自分たちが元の世界から通って来た道だ。
「貴様をあの光へ放り込めば、とりあえずはひと段落だ」
「やめろ! 放せ!」
無理やり掴んでくる兵士に対し、健人は必死に抵抗する。
このまま帰るわけにはいかない。たとえドクトルがそう望んだとしても、多大な恩がある彼女にお礼を言わなければ絶対に帰れない。こんな別れ方は……したくない!
逃走を試みたが、兵士二人に取り押さえられては為す術がなかった。体中の筋繊維が断裂するほどの覚悟で抵抗に臨むも、ずるずるずると白い光に向かって引きずられていく。その距離が縮むと同時に、目尻から涙が浮かんできた。
その時だった。
「はいはーい、そこまで。ストーップ」
場違いに甲高い声が空間内に響き、その場にいる誰もが動きを止めた。
声の発生源は、健人のやや後ろ。紫色の地味なドレスを身に纏った貴婦人が、音もなく突然その場に存在していたのだ。
「な、何者だ!?」
唖然としていたガルディアが叫ぶのとともに、周りの兵士が貴婦人に槍を向けた。彼女は直立不動で佇んだまま、降参したように軽く両手を挙げる。
異変のため拘束を緩めた兵士の隙をついて、健人も振り返った。
「カーシャさん!」
「久しぶりね、ケント君。とはいっても、昨日会ったばかりですけど」
幾人もの兵士に敵意を向けられているというのに、カーシャはまったく怯んだ様子もなく、優雅な笑みを見せた。
すると彼女の全身を観察し終えたガルディアが、震えた声を上げる。
「貴様、まさか……悪魔か?」
「ご名答。皆さんご存じかは知らないけれど、私は森に住む『万能の魔女』よ」
自らの角に触れながらカーシャが白状すると、どよめきが起こった。目に見えて動揺している様子である。
だがそこは腐っても兵士長。この場の兵を代表するように問い叫んだ。
「その『万能の魔女』が何の用だ!?」
「はい、そこ、あんまり興奮しない。私はただ、仲裁しに来ただけなんですから」
「仲裁だと?」
「聞くところによれば、貴方たちはドクトルとの取り引きを成立させるために、ケント君を元の世界へ帰そうとしているのよね? でもケント君自身はそれを拒んでいる。無理やり条件を果たそうとするのは、あまりにも不公平なんじゃないかしら?」
「貴様には関係ない!」
「そうね。それを言うなら、もともとこの世界の住人じゃないケント君にも関係のない話ではなくて?」
カーシャの声音が変わると、ガルディアが怯んだように一歩下がった。
『万能の魔女』に歯向かったところで、無駄に損をするばかり。そう判断したガルディアは、苦渋の選択と言わんばかりにカーシャとの話し合いに応じた。
「それで、貴様はどうしたいのだ?」
「貴方たちがドクトルと交わした交渉条件を、私に譲ってくれないかしら?」
「……は?」
意味を解さず、ガルディアは間抜けな声を上げた。
「私がケント君を元の世界に帰す役割を担うってことよ。今すぐじゃないけど」
「我々はすでにあの魔女と交渉を成立させたのだ。それはもう揺るがない」
「だから私に交渉条件を譲ってくれた時点で、貴方たちはドクトルからの依頼を達成したということになるのよ。ドクトルが貴方たちに協力すること自体は、何も変わらない」
「もし貴様がこいつを元の世界に帰さなかったらどうなる?」
「その場合は私が約束を破ったことになるわ。ドクトルからお叱りを受けるのは貴方たちではなくて、私だけ」
「貴様が嘘を付いてたら?」
「悪魔にとって、契約は絶対よ。万が一でも破れば、それは死んだも同然のこと」
「…………」
相手の真意を見抜こうと必死に睨みつけるガルディアと、こんな状況下でも余裕の笑みを見せるカーシャ。睨み合いの末、ガルディアが折れた。
「分かった。連れていけ。どのみちその男は取り引きの材料でしかない。……これで我々は、あの魔女との約束を果たしたということになるんだな?」
「もちろん。契約通り、ウェルリア東区の砦を取り戻すためにドクトルを酷使すればいいわ」
「ふん」
ガルディアが指示すると、健人を支えていた兵士たちがその身柄をカーシャの方へと引き渡した。乱暴されて足に力が入らなくなったのか、よろめいた健人をカーシャが受け止める。
「それじゃ、貴方たちも頑張ってねぇ」
笑顔で手を振ると、カーシャと健人の姿は一瞬にしてその場から消えてしまった。
画像をスクロールするように背景が変わり、気づけばカーシャの館の書斎に立っていた。
つい一日前に訪れた場所とはいえ、移動方法が移動方法だっただけに、健人は狼狽えた様子で書斎内を見回す。すると両手の拘束を解いたカーシャがソファに座るよう促してきた。
「ドクトルほどじゃないけど、私の白魔法で傷くらいは塞いであげるわ」
未だ混乱中の健人が言われるがまま素直に腰掛けると、まるで床屋で顔剃りをするかのようにカーシャが遠慮なく顔に触れてきた。同時に顔が白い光に包まれ、ガルディアから受けた暴行の痕がみるみるうちに癒えていった。
ただ甲斐甲斐しく治療してくれるカーシャに、健人は疑問を抱かずにはいられなかった。
「……カーシャさん。どうして俺を助けてくれたんですか?」
「あら? 貴方はあのまま元の世界に帰っていた方が良かったのかしら?」
「いえ……」
答えをはぐらかされるとは思わず、戸惑った健人は目を泳がせた。
また、自分がそんなことを訊きたかったわけじゃないのは、すぐに気づいた。言わねばならないことを伝えるため、彼はソファに座ったまま深く頭を下げる。
「カーシャさん。本当にありがとうございました」
「ふふ。その一言を聞けただけでも助けた甲斐があったわ」
慈悲深い笑みを浮かべたカーシャは、再び健人の顔に手を当てた。
痛みが引いたところで、健人から離れたカーシャが昨日と同じような蒸しタオル、それに水やパンを持ってきた。
「あとはこれで顔を拭きなさい。それと、お腹も満たして体力も戻さないと」
「ありがとうございます」
遠慮なくそれらを頬張っていると、書斎机に移動したカーシャが椅子に深く腰掛けた。天井を仰ぎ、まるで大仕事を終えた後のように大きく息をつく。
「あー……怖かったわぁ。それに、ちゃんとケント君を連れ出せてよかった。空間転移の呪符なんて使い道ないと思ってたけど、分からないものね」
「呪符?」
思い出した。そういえば昨日、この書斎でカーシャから変な紙をたくさん押し込まれたんだった。そのうちの一枚が残っていたのだろう。
と、椅子のひじ掛けに置かれているカーシャの手が震えていることに気づいた。
「怖かったって……カーシャさんなら、あれくらいの兵士は敵じゃないのでは?」
「何を言ってるの。そんなの無理よ、無理。なぜなら私は弱いから」
事も無げに言うカーシャに対し、健人は首を傾げた。
先ほどの兵士たちの態度を思い出せば分かる。『万能の魔女』という異名は、少なくとも人類側の城にまで轟いているのだ。悪魔だからといって、なんの力も持たない弱々しい奴が有名になったりはしないだろう。事実、カーシャの正体を知った兵士たちは足元から竦み上がっていた。
健人が納得いっていない表情を解かずにいると、カーシャがため息を吐いた。
「うーん……まあケント君なら害は無さそうだから白状するわね。私が万能なんてのは嘘。完全な嘘っぱちなのよ」
「嘘?」
そういえば、昨日も言っていた。万能だけど、なんでもできるわけじゃない、と。
「私は悪魔の中では下級も下級。上級レベルの悪魔と敵対したら、プチッと潰されるくらいに弱々しいの。だから悪魔が住む世界から逃げてきて、こんな森の中で暮らしているのよ。さらに人間や魔人にも劣るから、『万能の魔女』なんて名乗ってハッタリ効かせてるだけ。さっきだって、私のネームバリューで奴らが怯んでなかったら危なかったわ」
だとしても、健人は未だに納得しかねていた。
カーシャと出会ってからまだ二日も経っていないが、超越したその能力はいくつも目にしている。悪魔の中の力関係がどういうものかは知らないが、少なくとも人間相手なら軽く翻弄できるのではないだろうか?
「よく考えてみてね。私が今まで貴方の前で使った魔法……地形を変える魔法も、千里眼も、読心術も、空間移動も、すべて逃げ隠れするための魔法だもの。私は逃げることを第一に考えるほど弱い。今ここで貴方に襲わても、私はすぐ負けてしまうでしょうね。もっとも、即座に逃げるけど」
「……そんなことはしません」
「それを知ってるから白状したんだけどね」
軽く手を挙げたカーシャは、苦い笑みを溢した。
「まあ、私のことはどうでもいいわ。今の状況をまとめましょう。私は貴方を元の世界へ帰す義務を譲ってもらった。世界の座標もさっき確認したから、いつでも帰すことはできるわ。もちろん、今すぐに帰る気はないわよね?」
「はい。ドクトルさんにお礼を言うまでは帰れません」
「よろしい。でもドクトルも兵士たちの交渉を受けちゃったから、ウェルリア東区の砦を取り戻すまでは帰って来れない。少なくとも、作戦が終わるまでは」
脅迫まがいの交渉でドクトルを従わせたガルディアへの怒りは、すでに鎮火していた。代わりに今は、取り引きの材料になってしまった自分を悔い、ドクトルの身を案じるばかりだ。
視線を伏せ、肩を落とした健人は、カーシャに縋るようにして問いかけた。
「ドクトルさんは……大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫よ。ドクトルがいれば取り返したも同然っていうのは、決してあの兵士長の誇張じゃない。あの子は私と違って強いからね」
その言い方は健人を励ましているわけではなく、一つの真実を語っているようだった。
ふと、カーシャが水晶玉に映る何かに気づいたようだ。
「あら? どうやら兵士長がいなくても作戦が始まるみたいね。まあ、あんな無能はいてもいなくても同じかぁ」
ぼやいたカーシャが、ソファに座っている健人へと手招きしてくる。
「こっちへ来て一緒に見ましょう。ウェルリア東区の砦を奪還する作戦が始まるみたいよ」
誘われた健人も、書斎机の前へと移動する。
覗き込んだ水晶玉の中に広がっていたのは、日没を迎えた真っ暗な荒野だった。俯瞰視点から見下ろす中心に、石造りの城壁が囲む、高校のグランド程度の砦が映し出されている。
健人にとっては、何人ものクラスメイトが死んだ忌まわしき土地だった。
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