第19話 ドクトルさんとの別れ1

 ぐぅ~……という情けない腹の音が二人の間から漏れ、彼らはゆっくりと目を覚ました。


「お腹……空きましたね」


「……空いたなぁ」


 意見は一致するも、お互いの温もりを楽しむ二人は一向に起き上がろうとしない。だが耳をすませば鳥の囀りが聞こえ、顔を上げれば窓から差し込む朝の光が虹彩を刺激する。どうやらすでに夜は明けているようだった。


 二度寝の欲求を押し殺した二人はのっそりと身体を起こす。ただ寝ぼけ眼のドクトルを目の当たりにして、健人はすっかり眠気が吹っ飛ぶほどの笑い声を上げてしまった。


 繊細な髪はあちらこちらへ向かって跳ねており、夜通し泣いていたためか、涙に濡れた目の周りが腫れぼったくなっていたのだ。


「ドクトルさん。すごい顔になってるな」


「……ケントさんだって、人のこと言えませんよ」


 拗ねたドクトルが、唇を尖らせて健人の頭辺りに視線を移した。


「そんなに酷いか?」


「短いから分かりにくいですけど、こことかこことか。ほら」


 身を乗り出して髪に触ってくるドクトルに対し、健人はくすぐったそうに目を閉じた。そして彼女が離れると、健人も自らの頭に触れる。


「まあ、こんなもんだろ。ちょっと水を付ければ直るよ」


「羨ましい限りです」


「確かにこれは……大変だろうな」


 手を伸ばした健人が、子猫を撫でるように優しくドクトルの髪を梳いた。最初は彼の仕草を素直に受け入れていたドクトルだったが、負けじと再び健人の頭を撫でてくる。そのまま無言でお互いの髪を触り合った二人は……何をバカなことしているんだと気づき、寝起きの酷い顔を晒しながら笑い合ったのだった。






 軽く身だしなみを整えた二人は、遅めの朝食を取るためリビングへと向かった。


 ただ、保存していた食糧はほとんど焼けてしまったようだ。元々家にある物は特殊な力で火事の影響を受けることはなかったのだが、外から持ってきた物はその限りではないらしい。


 奇跡的に残っていた小麦粉でパンを焼き、干し肉の残骸で腹を満たす。


「今日あたり、街で食糧を調達しないとダメだろうな」


「街……ですか」


 健人が提案すると、ドクトルの顔があからさまに曇った。


 先日のことを引きずっているのだろう。普段なら軽く受け流せるくらい肝の据わっている彼女だが、今は昨日のことでやや精神的に参ってしまっている。街へ行くのが憂鬱になる気持ちは、よく理解できた。


「買い物なら、俺一人で行ってくるよ」


「ケントさんが? 一人で? 大丈夫ですか?」


 目を丸くしたドクトルが、素っ頓狂な声を上げた。


 さすがにその反応は健人の癇に障ったようだ。


「バカにしないでくれ。買い物くらい一人でできるさ。まあ森の外まで案内してもらったり、関所でのやり取りくらいは教えてもらわなきゃならんけど。あと相場をまだあまり把握してないから、ぼったくられたら謝るよ。お金はあるんだろ?」


「ええ。多少の蓄えはありますが……」


 未だ心配そうに、ドクトルは健人の顔を覗き込んでくる。


「もし火を放ったのが兵士なら、一人で行動するのは危険かもしれません」


「そうだけど、だからといってずっと森に閉じこもってるわけにもいかないだろ。いつかは街に行かないと。フードで顔を隠して行くから大丈夫だよ」


「……分かりました。押し付けているようで、申し訳ありません」


「いいよ。ドクトルさんは今日もゆっくり休んでくれ」


 本日の予定を決め、健人は残りの朝食を腹へと詰め込んだのだった。






 朝食を終え、先日と同じローブを羽織ってから街に向けて出発した。


 森の出口までは案内してもらい、平原からは一人で行く。彼女には強がって見せたが、少しも緊張していないと言えば嘘だった。かといって、まったくの虚勢だったわけでもない。


 言葉も通じるし、元の世界で例えるなら海外へ行くよりもずっと簡単なはず。それに往復してもたかが一時間くらいだろう。何も恐れることは……ない。


 以前と同じ順路で街道に到着し、そのまま街へ向かう。


 アーチ状の門にある関所に顔を出し、先日と同じように座っている役人へと声を掛けた。


「すみません。許可証を発行してほしいのですが」


「はいはい、許可証ね。……うん?」


 健人の顔を確認した役人が、一瞬だけ静止した。


 目を大きく見開き、呆然としながらフードの中を覗き込む。


「あんた、もしかして……ドクトルさんのお弟子さんかい?」


「ええ……はい、そうです」


 仮面みたいに顔を完全に隠しているわけではないし、以前とローブも一緒なので、覚えられていても全然不思議ではない。これは想定内……というよりも、むしろ好都合だった。


 ただ健人を認識した役人が落ち着きなさそうに目を泳がせている様子は、どこか異様と言えば異様だった。


「ドクトルさんはどうしたんだい?」


「今日は俺一人です。ちょっと手の離せない用事があったので、買い出しを任されました」


「……そうかい」


 会話を終えると、役人は早々に許可証を発行しようと羊皮紙にペンを走らせる。あまりにもすんなり事が運んでいるので、健人が逆に訊ねてしまった。


「あの……持ち物検査とかはしなくていいんですか?」


「まあ、ごく最近来ているからね。ドクトルさんのお弟子さんなら大丈夫だろう」


 これがお役所仕事かぁと、健人は呆れてしまった。


 書き終えた許可証を手渡され、健人はお礼を言う。そして無事に街の中へ入ったのだが……いつまでも背中に突き刺さる役人の視線が、健人の不安を煽ったのだった。






 態度がおかしかったのは関所の役人だけで、道行く人々や露店の商人たちは以前と特に変わらない様子だった。ただ、以前と比べてどことなく人通りが少ないような気がする。


 ひとまず数日分食いつなげる食糧があれば十分と言っていたので、小麦粉と塩と砂糖、野菜や干し肉など、この前と同じルートで同じような物を買い込んでいく。病院には立ち寄らず、ペペナ草の売買もなかったので、二十分足らずで大体の物を買い終えることができた。


 あとは街を出るだけだ。平原に出れば、ドクトルの目にも届く。


 ……任務遂行間近の安堵が、油断を招いた。


 不意に、背後から声を掛けられる。


「ササオカ・ケントだな?」


「え?」


 振り向こうとしたその瞬間、背中を突き飛ばされた。


 ガクッと視界が揺れ、一瞬だけ呼吸が止まる。バランスを崩した身体は、反射的に足を前に出すことで立った状態を保とうとしたのだが……何者かが組み伏せてきたことにより、健人はうつ伏せに倒れてしまった。


 胸に奔った衝撃がまたも呼吸を乱れさせ、低くなった視界は人々の足元とバスケットから散乱した食糧を映し出す。


 慌てて起き上がろうとするも、肩と腰に体重を掛けられ抑え込まれてしまった。


「なんっ……」


 全力を出せば振り払えるだろうか? だが、さらなる力が健人の背中にのしかかった。


 一度呼吸を諦め、限界まで首を回して背後を確認してみる。甲冑を身に纏った兵士が、三人がかりで健人を拘束しているようだった。


 その判断は正しい。いくら身体能力三倍の効果が付与されている健人であれど、鍛え抜かれた兵士三人が相手では為す術は無い。それは同時に健人が異世界人であることをすでに認知しており、また何が何でも逃がさないという意志が垣間見えるようでもあった。


 抵抗も虚しく、健人は地面に沈む。


「急いで手と足を縛れ」


「お前らいったい何なんだ!」


「黙ってろ!」


 後頭部を押さえた兵士が、健人の額を勢いよく地面に叩きつけた。


 耳鳴りがして、目の前が真っ白になる。そして激痛とともにやって来た吐き気に苦闘していると、ぼやけた視界とは逆に聴覚が鋭くなってきた。


 悲鳴や驚きの声を上げる民衆。その雑音を背景にして、兵士たちが指示を出し合っている。


「縛ったら馬車の荷台に積めて街の外に移動しろ。その後はガルディア兵士長の指示を仰ぐ」


 ガルディア兵士長……だと?


 聞き覚えのある名前を耳にし、健人は無意識に歯を食いしばった。


 すると突然、健人の身体が宙に浮いた。まるで仕留められた野生動物のように、兵士に担がれたのだ。両手と両足を縛られ、さらに意識も朦朧としている健人は、そのまま幌の張った馬車の荷台へと放り込まれた。


 荷台が揺れ始めるのとともに、民衆の声が遠のいていく。


 馬車はほんの数分だけ動き、兵士以外の声がまったく聞こえない場所で一旦停止する。


 そのまま三十分ほど待っただろうか。徐々に意識が回復していき、喉の渇きが不快感へと変わる頃、外が見えない健人にも周りの兵士たちの緊張が伝わってきた。


「ガルディア兵士長、お疲れ様です! 脱走兵、ササオカ・ケントを確保しました!」


 脱走兵という兵士の報告を聞いた健人は、愕然と肩を落とした。


 この数日間、いろいろなことがありすぎて、自分が脱走兵だということをすっかり忘れていた。いや……昨日の早朝、訪れてきた兵士たちが一切脱走兵の話題を出さなかったことで、心のどこかでもう大丈夫だと勝手に安心していたのかもしれない。


 では、どうして自分が脱走兵だとバレたのか。


 そんなのは決まっている。あの関所の役人が告発したのだ。ウェルリア東区に健人たちを投入した日付とドクトルが弟子を取った日を照らし合わせ、残った死体の数でも数えれば、容易に想像できる。


 ……その容易な想像にも至れなかった思慮の浅さに、健人は自分自身を呪った。


 ふと荷台後方の幌が開き、金髪の男が顔を覗かせた。昨日の朝にドクトルの元を訪れ、そして無謀な采配により健人たちのクラスメイトを無駄に死なせた張本人が。


 健人は未だかつて抱いたことのない憎しみに顔を歪め、ガルディアを睨みつける。


「……ふん」


 だがガルディアは健人の顔を確認しただけで、つまらなさそうに鼻を鳴らしながらすぐに引っ込んでしまった。


「こちらも魔女との交渉は成立した。これよりササオカ・ケントを城へ移送する。その途中に騒がれても面倒なので、口と……あと目も覆っておけ」


「はい!」


 魔女? 交渉? 何のことだ?


 疑問が浮かんでくる間にも、下っ端の兵士が荷台へと乗り込んでくる。そして抗う余裕もなく、健人は布を口に押し込まれ目隠しをされてしまった。


 同時に、馬車が動き出す。おそらく行き先は健人を召喚した城だろう。


 戦場から逃げ出したことで罰を受けるのか、それともさらに強力な洗脳をかけられるのか。視覚と自由を奪われた健人の中に、徐々に不安が募っていった。

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