第18話 ドクトルさんの過去

 カーシャの館を飛び出した二人が全速力で山を下っていく。途中までは走りやすくなるようカーシャが地形を変えてくれたので、行きの三分の一くらいの時間で戻ることができた。


 到着してみれば、水晶玉で見た通り、ドクトルの家が燃えていた。


「いったい、なんで……」


 焼けるログハウスを呆然と眺めながら、健人は思考を巡らせる。


 火の出る場所なんて、調理場か暖炉くらいしかない。しかし家を出発する前に、両方とも火種がないことは確認したはずだ。火事になる原因がまったく思い当たらなかった。


 いや……そもそもの話、この火事にはどこか違和感があった。


 出火元が調理場か暖炉なら、屋内から徐々に燃え広がっていくはずだ。だが家の中はもちろんのこと、今は屋根や壁など、あちこちから火の手が上がっているように見えた。


 さらにもう一つ。カーシャの家を出る時には、すでに火が出ていたのだ。あれから少なくとも三十分は経っているだろう。にもかかわらず、ほとんど木でできているログハウスはどこも焼け落ちた形跡はなく、未だ原形を留めていた。


 そこまで考え、健人は首を振った。とにかく今は火を消さなくては。


 幸いにも周りの木々に燃え移っている様子はないので、すぐに消火できれば被害は最小限に抑えられるはず。消防車や消火器の無いこの世界で、どうやって火事を消し止めるのかはドクトルを頼るしかない……と、彼女の顔に視線を移したところで、健人は訝しげに眉を顰めた。


 炎に照らされたドクトルの顔から血の気が引き、真っ青になっていたからだ。


「ジー……ク……」


「え?」


「ジーク!」


 突如として叫び声を上げたドクトルが、燃え盛る家の中へ飛び込んでいった。


 あまりに突拍子のない彼女の行動に一瞬だけ呆気に取られるも、事の重大さに気づいた健人はすぐに彼女の背中を追った。


「ドクトルさん! ダメだ、危ない!」


 健人の制止も虚しく、彼女はさらに奥の扉を開く。


 ドクトルが向かった先は、健人が借りている部屋だった。


「ジーク! 起きて! 逃げて!」


 何を思ったのか、ドクトルは誰も寝ているはずのないベッドのシーツを引っぺがした。


 当然、ベッドは空だ。それを確認したドクトルは、煙が充満する室内を大きく見回した。


「ジーク……どこ……?」


「ドクトルさん! 何をやってるんだ!」


 追いついた健人が、シーツを持っているドクトルの手を握る。


 すると彼女は縋るようにして健人のシャツを掴んだ。


「ジーク!」


「落ち着いて! 俺は健人だ!」


 健人が自分の名を名乗ると、ドクトルはハッと我に返ったように頭を上げた。目の焦点が定まり、目の前の男性が健人だと認識すると、ゆっくりと手を放す。


 そして旋毛が見えるほど深く顔を伏せながら、彼女は小さな声で謝った。


「すみません、ケントさん。取り乱しました」


「……ああ。けど今はそんなことより早く出よう。それに火を消さないと……」


「火は……ウンディーネさんに頼み込んで、何とかしてもらいます」


 先ほどより気が沈んだドクトルは、健人に支えられながら家から脱出したのだった。






 鎮火したログハウスの前で、透明な液体でできた人型の女性が不機嫌を隠そうともしない末恐ろしい形相を浮かべて腕を組んでいた。


「ドクトル。これは一つ、大きな貸しだからね。それに今回は森に燃え移る危険性があったから嫌々消火してあげたけど、普段だったら絶対に協力なんてしないから」


「ええ……ありがとうございました。ウンディーネさん」


「ふん!」


 鼻を鳴らしたウンディーネが、住処である泉へ向けてさっさと帰っていった。


 彼女の姿が森の奥へと消えた頃、健人は摩訶不思議な光景の理由をドクトルへと訊ねた。


「なあ、ドクトルさん。これはどういうことなんだ?」


 ドクトルの家は、まったく焼け落ちていなかったのだ。


 火の手が上がっていた場所からは鎮火した際の煙が上がっているものの、炭化した様子もなければ焦げた跡すらも見つからない。非常に強い暴風雨が過ぎ去った後のように、屋外も室内もびしょ濡れになったログハウスがあるのみだ。


 最初に違和感を抱いた時にも思ったが、ドクトルの家はほとんどが木材でできており、さらには鎮火まで数十分以上も燃え続けていたのだ。原形を留めていることすらも奇跡に近いはずなのに、普段の様子と変わらず佇むログハウスを見てしまっては、さすがに驚かずにはいられなかった。


 そういう意味を込めて問うと、顔を伏せたドクトルがぼそりと答えた。


「この家は……少々特殊なので」


「特殊?」


 聞き返した、その時だ。


 ドクトルの身体が、ふらりと揺れた。


「ドクトルさん!」


 健人が受け止めようとするも間に合わず、自らの両脚で自分を支えられなくなったドクトルは、そのまま地面へと倒れてしまった。






 初めて入ったドクトルの部屋は、とても年頃の女の子が普段から使っている自室とは思えないほど殺風景だった。鏡があり、ベッドの向きが違うだけで、ほとんど健人の部屋と同じである。日頃から禁欲生活を自らに強いていたことが、よく痛感できる部屋だった。


 ベッドのシーツがあまり湿っていないことを確認した健人は、抱きかかえていたドクトルをそっと寝かせた。


 穏やかな寝息を立てるドクトルを見下ろして、健人は考える。


 倒れるのも当然のことだ。カーシャの館へ行くため朝から山道を歩き、洞窟の中では酸欠で意識を失った健人に一生懸命蘇生を試み、自分の家が燃えているのを見て一目散に山を下ってきたのだ。


 すでに日没に近い時刻。精神的にも肉体的にも、相当な疲労が溜まっているだろう。


 今はゆっくり休めばいい。心の中で彼女を宥めた健人は、ランタンに布を被せて部屋から出て行こうとする。


 だがしかし、その背中をドクトルのか細い声が呼び止めた。


「ケントさん。すみません……少しだけ、側にいてくれませんか?」


「……分かった」


 頷いた健人は、ベッドの縁に背を預けるようにして床へと腰を下ろした。


 するとベッドの中からドクトルが手を差し伸べてくる。言葉を使わずともその行為の意味がはっきりと伝わって来た健人は、彼女の手をギュッと握りしめた。


 やがて完全に陽が落ち、室内が真っ暗になる。


 このまま眠れる気配はなさそうだったので、答えが返って来なければそれでいいというほど小さな声で健人は訊ねた。


「なあ、ドクトルさん。なんで火事になってたんだと思う?」


 問うと、返事は思いのほかすぐに返って来た。


「おそらくですけど……今朝この家を訪問した兵士たちが、私たちが不在の隙を狙って火を放ったんだと思います」


「兵士が?」


 言われて思い出した。そういえば今朝の起床時、兵士長を含めた数人の兵士がドクトルを訪ねてきていたんだった。


「なんで奴らが火を点けるんだ?」


「この家が無くなれば、私は街へ住むほかありません。そうすれば街の人たちに徐々に懐柔されて、戦争に協力させやすくなる……と考えたのでしょう」


 この前の『我々はドクトルが必要』アピールよりもさらに一歩踏み込んだ、かなり強引な手段だと健人は解釈した。


 ただ健人としても、そう結論を急ぐにはどうしても首を捻らざるを得なかった。


「さすがにその想像は穿ちすぎじゃないか? こうやって思惑がバレたら、逆に敵に回りそうなものだけど」


「協力しないことはあっても、私が人類側の敵になれないことは向こうも知っています」


「人類側の敵に……なれない?」


 ならない、ではなく、なれない。それはまるで、選択の自由を奪われているかのような言い方だった。


「私には……人質がいるんです」


「人質?」


 繋がっている彼女の手に力が入る。


 だが伝わってくる力とは相反して、その中身はあまりに脆い。躊躇いがちに紡いだ言葉も、どこか震えているようだった。


「私の話……聞いてくれますか?」


「ああ、聴くよ。聴かせてくれ」


「……ありがとうございます」


 安堵を表すかのように、彼女はベッドの上で身じろぎをした。


 そして大きく息を吸ったドクトルが、自らの過去を語り出す。


「私には一つ下の弟がいました。名前をジークと言います」


 さっき叫んでいた名前は彼女の弟だったというわけか。


 だがドクトルははっきりと言った。弟が『いました』と。


 問い返したい衝動を抑え、健人は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。


「私とジークは孤児でした。本当に小さい頃は父と母、一家四人で暮らしていたのですが、兵士だった父と優秀な白魔導士だった母は早々に戦場へ行ってしまったため、私たち姉弟は小さな修道院に預けられたんです。そこでの暮らしは貧しかったですが……決して悪いものではありませんでした」


 先日のことを思い出す。


 ドクトルはジャムの作り方すら知らなかったし、そもそも数えるほどしか食べたことがないと言っていた。また、たかがジャムを贅沢な物と断言し、特別な日にしか食べられないとも。倹約な食生活は、貧しかった子供の頃の習慣だったのだろう。


「その修道院で……正確に何年かは分かりませんが、けっこう長い間暮らしていました。ですが数年前のある日、怪我をした弟を白魔法で治していたところ、兵士に見つかってしまったんです。その時にはすでに母から受け継いだ白魔法の才能が開花していましたから。幼いながらも上級の白魔法が使えるということで、私は兵士に連れられて戦争に行くことになりました。もちろん前線で戦うわけではなく、野戦病院で負傷兵を癒す役割でしたが……年端も行かない子供に頼るほど、戦場では白魔導士が不足していたんです」


「断らなかったのか?」


「その時は、私もかなりの世間知らずでした。父や母と同じ仕事に従事できるということを誇りに思って、胸を張って修道院を出ていった記憶があります。むしろ強く拒んだのは修道院の方々でしたね」


「それで……弟さんは?」


「弟は私と離れ離れになるのが嫌だったらしく、一緒に来ることになりました。ただ弟は目立った魔法を使えるわけではなかったため、一般兵として入隊したんです」


 思い返してみれば、健人が脱走兵と知ったドクトルは、城でどんな訓練をしていたのか興味があるようだった。もしかしたら弟の訓練内容を知りたかったのかもしれない。


「私は白魔導士として、弟は兵士として戦争に身を投じていたのですが、約二年ほど前……」


 ドクトルの言葉が不意に途切れた。


 その先は思い出したくもない辛い過去。震えが伝わってくる手と、嗚咽の混じる声がそう物語っていた。


「私が勤める病院に運ばれてきたんです。魔王軍との戦いで頭の半分を失った、弟の遺体が」


「なっ……」


 驚きの声を上げるも、それは健人も体験したことだった。


 隣にいたクラスメイトが一瞬にして亡骸になる光景。魔王軍との戦いは、生易しいものではない。今までに何人もの戦死者が出ているだろうし、戦場に出るからには死ぬことも覚悟しなければならないだろう。


「でも……ドクトルさんがいるのなら、蘇生も可能なんじゃ?」


「はい。私は弟の頭を復元させて、彼とともに戦場から離れました。そして移り住んだのが、この家なんです。ただ弟を生き返らせたまではよかったんですが、彼はしばらく目を覚ましませんでした。今はケントさんが使っている部屋に彼を寝かせて、いつか目覚めるだろうと、ずっと看病していたのですが……」


「弟さんは起きなかったのか?」


「いえ。ここに住み始めてから数ヶ月後に目を覚ましました。けど……彼は私のことを覚えていなかったんです」


「覚えていなかった?」


「身体を治すことはできますが、記憶まで元通りにすることはできませんでした。久しぶりに笑いかけてくれた弟は、私に向かってこう言いました。『はじめまして。もしかして、あなたが僕を助けてくれたんですか?』と。自分が兵士であることは覚えていたのに、私のことは全部記憶から抜け落ちていたんです! ……それから弟は戦場へと戻り、私は一人ここに残りました」


 辛い記憶を呼び覚ましていくドクトルの声に、嗚咽が混じっていく。


 ドクトルのすすり泣く声がベッドから漏れる中、弱々しくなっていく彼女の手を握り返しながら、健人は今までのいろいろなことに納得していた。


 ドクトルがやけに面倒見が良かった理由は、健人を弟と重ね合わせて見ていたから。そして年下からの敬語は苦手だと言っていたのも、記憶を失った時の弟を思い出さないようにするためだったのだろう。


 また、つい先ほど抱いた疑問も解決した。


 それは健人が酸欠で意識が朦朧としていた時、彼女は「死なないで」と言った。蘇生もできると断言していたはずなのに、何故死んでほしくなかったのか。それはおそらく、死んだら記憶を失ってしまうトラウマがあったからだ。彼女は何よりも、自分が忘れ去られることに怯えているのかもしれない。


「それで……弟さんは今どこに?」


「分かりません。ですが、今もどこかで兵に服しているはずです」


「そうか。つまり人質っていうのは……」


「私の弟のことです」


 記憶を失った弟が兵役している。その事実が、ドクトルを縛っていた。


 だが弟の存在は、ドクトルを交渉台に上がらせるための最後の切り札であるはずだ。もし彼女を戦場に招集したくて家に火を放ったのなら、どうしてこのタイミングだったのか。どうして今頃になって強引な手段を使ってきたのか。……考えてみたところで、健人には何も分からなかった。


 ふと、ドクトルの嗚咽が徐々に大きくなっていることに気づいた。


 呆れた健人は、少し茶化すように声を掛ける。


「ドクトルさんって、人には言うのに自分ではあまり実践できてないよな」


「……どういう意味ですか?」


 すすり泣く声が止み、ドクトルはちょっと怒ったように返してくる。


 だが健人も負けじと指摘した。


「泣きたい時は我慢しないで、もっと大声で泣いてもいいんだよ」


 自分が言ったことだとすぐに察したドクトルが、喉を引き攣らせた。


 少し間を開けてから、弱々しい声で反論してくる。


「私は泣きましたよ。いっぱい……いっぱい泣きました」


「それは一人でだろ?」


「…………」


 ついに黙り込んでしまうドクトル。顔が見えないため、何を考えているのか健人にはまったく分からなかった。


 と、健人の手を握る力が今までで一番強くなった。


「ケントさん、お願いがあります。こちらへ来ていただけませんか?」


「……ああ」


 誘われるがまま了承した健人は、ドクトルが寝ているベッドへと上がった。


 横になると、彼女は健人の胸へと顔を埋めてくる。


 真っ暗な部屋の中、感情に任せて泣き叫ぶドクトルの身体を、健人はギュッと力強く抱きしめたのだった。

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