第16話 サラマンダーの洞窟2
この先に行けば乾くという言葉の意味は、すぐに分かった。
徐々に狭くなりゆく洞窟内を進んでいくと、とある曲がり角の先から唐突に道が明るくなっていたのだ。目を凝らしてよく見てみると、所々に炎が灯っていた。
「……なんで洞窟の奥深くに炎が?」
松明や篝火ではなく、岩肌から炎が上がっているよう。もっと近づいて観察してみると、炎が揺らめいている下の岩だけが、宝石のような赤い結晶になっていることが分かった。
「まさか、これが?」
「ええ。その結晶が『炎石』です」
「じゃあ、これを採集していけばいいんじゃないか?」
「さすがにそれはダメですよ。サラマンダーさんに一言断りを入れないと」
確かにその通りだ。健人だって、自分の家の庭に自生している野菜を勝手に取られたらいい気はしない。サラマンダーは粗相をしなければ害はないらしいが、逆に言えば礼儀を怠れば怒るということだ。挨拶は必要だろう。
ただ会いに行く気はあれど、健人は数歩進んだところで音を上げてしまった。
「あ……暑い」
松明程度の大きさとはいえ、そこら中から火の手が上がっているのだ。加えて空気の流れの乏しい閉鎖的な空間。籠った熱量は健人の全身を包み、張り付いていた湿気と変わって大量の汗が浮かんでくる。洞窟内は涼しいという固定概念が覆され、健人の中に少しずつ苛立ちが募っていった。
しかし不思議なのは、前を歩くドクトルが汗一つかかずに涼しい顔をしていることだ。健人よりも分厚いローブを羽織っているというのに。
そんな疑問を抱いていると、彼の呟きを耳にしたドクトルが不意に振り返った。
「では、私のローブを着てみますか?」
「へ?」
「このローブには私の『宝氣』が蓄積されていますので、多少は心地の良い温度を保てることができます。そんなに長持ちはしませんが、無いよりはマシかと」
「なら、それを脱いだらドクトルさんが暑いんじゃないか?」
「私は魔法が使えるので平気ですよ」
そう言っている間にも、ランタンを置いたドクトルがいきなりローブを脱ぎ始めた。
止める余裕などなく、直視するのは失礼だと思った健人は些細な抵抗として目を背ける。衣擦れの音が止むのと同時に、ドクトルが脱いだばかりのローブを差し出してきた。
「ささ、遠慮なさらずに」
「…………」
受け取ったはいいが、そこはやっぱり健人も健全な男子である。身軽になった彼女の身体へと、ついつい視線を向けてしまうのも仕方のないことだった。
麻でできたシャツと、ハーフパンツという姿。下着よりかはだいぶ露出が控えめであり、そのまま外出しても何ら問題ない恰好ではあるが、初めて見るローブ以外の服装に健人は思わず生唾を飲み込んでしまった。
ただ極度に緊張してしまう主な理由は、普段のローブ姿からでは想像もできなかった身体の線が露わになったことだろう。
ちゃんと栄養を摂っているのか心配してしまうほどウエストは細く、それでいて女性として魅力的な部位は決して控えめではない。昨日抱きしめられた時に実感したように、落ち込んでいる時にはいつでも甘えたくなるような抱擁感があった。
チラチラ見ていたことを誤魔化すように咳払いした健人は、渡されたローブに眼を移した。
すでに脱いでもらって、さらに受け取っているのに今さら拒否などできず、意を決した健人はドクトルのローブを羽織った。確かに涼しい……というか、外部からの熱を遮断しているかのよう。ただ内側からの発熱は防げないようで、ドクトルの温もりに包まれているという恥ずかしさからくる体温上昇は、そのまま受け入れるしかなかった。
心臓の高鳴りと顔の火照りは、周りの炎のせいだ。決してドクトルのローブを着て変な気を起こしているわけじゃないと自分に言い聞かせながら、にっこりと微笑んでくるドクトルに対して、健人は「ありがとう」と照れ臭くお礼を言ったのだった。
それからまた、二人は洞窟の奥に足を向けたのだが……。
異常事態は唐突にやって来る。
壁に寄り掛かるようにして立ち止まった健人が、胸を押さえて急に苦しみ出したのだ。
「ケントさん。どうかしましたか?」
「い、息苦しい……」
「息苦しい?」
ドクトルが軽く深呼吸をするものの、特に息苦しさを感じることはなかった。
だがしかし、健人の体調はみるみるうちに悪化していく。
新鮮な空気を欲するように、呼吸が荒くなる。続いて眩暈や吐き気。ランタンで照らされた顔が、徐々に紫色へと変化していった。
そしてあれよあれよという間に、自力で立てなくなった健人がその場に倒れてしまう。
「ケントさん! しっかりしてください!」
緊急事態と判断したドクトルは、慌てて健人を抱き起した。
虚ろな目つきは、すでにドクトルの声すら届いていないようだった。
「すぐ治します」
片手で健人の頭を支えたまま、もう片方の手を彼の身体の上へとかざす。
手の平から溢れた白い光が、健人の全身を包んだ。どこに異常があるのかを診断するのとともに、怪我があれば自動的に修復する白魔法だ。大抵の負傷はこの魔法で治せるはずなのだが……診断を終えたドクトルに、さらなる絶望が襲い掛かる。
外傷、及び内出血の症状……無し。
「そんな……」
疑問は浮かぶが、一刻を争う事態なので即座に思考を切り替える。
毒蛇か何かに噛まれた? 否。噛まれた傷が診断で引っかかるはずだし、それは体中を巡る毒も同じこと。
毒ガスを吸った? それだと、同じ空気を吸っているドクトルにまったく変化が無いのがおかしい。異常な空気は即座に除去・中和できるとはいえ、決して取り込まないようにできるわけではない。
第三者の魔法や呪いの類? 話題に出ていたカーシャの顔が一瞬だけ思い浮かんだが、ドクトルはすぐに振り払った。彼女はそんなことをする人ではない。それに解除できるかどうかは別として、他者から魔法や呪いを掛けられているのであれば、触れるだけで判るはず。
……原因が分からない。どこをどう治していいのかが判断できない。
混乱するドクトルの目尻に、じわじわと涙が浮かんでくる。
「ケントさん! 起きてください!」
いっそ健人の悪ふざけであってほしい。そう願いながら叫ぶも、健人の顔色はさらに悪くなっていく。と、その時だった。
「なんか幼い叫び声が聞こえると思ったら……なんじゃい、いつぞやの少女かいな」
洞窟の奥から掠れた声が聞こえ、ドクトルは慌てて振り返った。
のっそりという擬音が相応しいほどゆっくり近づいてきたのは、全身を赤い炎に包まれた大きなサンショウウオだった。その体長は二メートルを越え、子供なら背に乗れるほど。ただ実際のサンショウウオとは違い、そこら辺にある『炎石』のように輝く鱗が皮膚を覆っていた。
「サラマンダーさん!」
「久しぶりじゃのう」
燃え盛るサラマンダーが、ドクトルの元までやって来る。しかしサラマンダーの炎はドクトルたちの衣服に燃え移ったりすることはなく、また不思議と熱くもなかった。
と、サラマンダーが気を失っている健人に気づいたようだ。
「んんー? どうした、どうした?」
「実は連れの方が急に倒れてしまって……」
嗚咽混じりに説明するドクトルを見て異常事態を察したのか、サラマンダーもまた健人の顔を覗き込んだ。
「ふむ。とはいえ、白魔導士でさえ治せない症状を儂が診たところで、何の解決にもなるとは思わんが……んんー?」
何かに気づいたのか、サラマンダーは掠れた声で唸りながら首らしき部位を捻らせた。
「この者はもしや、この世界の人間ではあるまいな? 体内の『宝氣』が一切感じられないぞ
「はい、ケントさんは別の世界から来た異世界人なんです」
「なるほど、ならば決まりじゃな。この者は酸欠を起こしておる」
「サンケツ?」
ドクトルは、まったく聞いたことのない単語を耳にしたような反応を示した。
「体内に取り入れる酸素が不足している状態じゃよ。この洞窟には地上と繋がる横穴はほとんどないし、『炎石』から上がる炎は酸素が無くても延々と燃え続けるが、周りに酸素があればそれを食いつぶす。それ故、ここら一帯の酸素がかなり薄くなっているんじゃろう」
「でも、私はなんともないのですが……」
「お主が酸欠の症状を知らぬのも無理はない。仮に周囲の酸素が無くなったとしても、この世界の生物は体内の『宝氣』を無意識のうちに酸素へと変換しておるからな。余程のことでもない限り、酸欠に陥ることはないんじゃよ」
だから『宝氣』を所持していない健人だけが酸欠で倒れたのだ。
苦しむ健人を前に、ドクトルは縋るように声を絞り出す。
「どうすれば、治せるんですか?」
「治すというように考えない方がいい。足りないのだから、与えてやればいいんじゃよ。酸素をここへ持ってくるか、この者を地上へ運ぶか」
「地上へ……」
「ただ酸素の無い状態が三分も続くと非常に危険じゃ。蘇生できる可能性が著しく低くなり、仮に蘇生できても脳に後遺症が残ることもある」
「さ、三分!?」
健人が苦しみ出してから、すでに二分以上は経過してしまっている。このまま担いで戻っても、地上どころか炎の灯っていない地点まで辿り着けるかは怪しかった。
絶望に打ちひしがれ、ドクトルの目尻から自然と涙が零れ落ちる。
再び健人を見下ろしたドクトルは、悔しそうに唇を噛んだ。怪我や病気ならなんでも治せるという自負はあったが、たとえ最強の白魔導士であっても酸欠までは治せない。身体的に異常は無く、ただ単に必要な物が足りていないだけなのだから。
自分の無力を実感するように、ドクトルは項垂れる。
……その瞬間だった。ドクトルの脳裏に、奇跡的な閃きが過る。
自分たちが体内の『宝氣』で酸素を作り出しているということは……。
「酸欠って、溺れた時と同じ症状なんですよね?」
「まあ、似たようなもんじゃな」
ならば……と、決意してからの行動は早かった。
気道を確保し、ドクトルは自らの口で健人の口元を覆う。そして体内の『宝氣』を酸素に変換するよう意識しながら、彼の口の中へゆっくりと息を吹き込んでいった。
ただ普通の人工呼吸と異なるのは、健人の鼻は塞がず、ドクトル自身が息継ぎをすることもない。自分は酸素を作り出すだけのボンベとなり、あくまでも健人が自然と呼吸をできるように促していく。
「なるほどのぉ。自分の中で酸素を作り出して与えるわけか。だが二人分の酸素を補うのは、お主も苦しかろう。可能なら、そのまま地上へ向かえ。洞窟の入り口まで、小さな炎を灯して案内してやる」
サラマンダーが感心したように言うと、ドクトルたちが歩いてきた通路の地面に一定間隔の小さな篝火が灯った。ドクトルは目を伏せて感謝の意を示すと、健人に息を吹き込みながら引きずって運んでいく。
「すみません、ケントさん。怪我は後で治します」
所々健人の身体を岩にぶつけたものの、今は人工呼吸に集中する。反重力魔法は酸素を作り出しながらだと難しく、また口を離している時は自分の分の酸素も確保しなければならない。
息を吹き込んでは移動して、また立ち止まっては酸素を与えて。自分よりも重い身体を引きずりながら、健人に死んでほしくないという一心で、ゆっくりと、それでいて着実に地上へ近づいていく。
そして粗い岩肌が露出する急な上り坂を登り終えたドクトルは、ついに地上へ這い出ることに成功した。
緑が生い茂る地面に健人を寝かせ、心臓マッサージと人工呼吸を繰り返し行っていく。
「ケントさん! お願い、死なないで!」
するとドクトルの必死の叫びが届いたのか、健人が息を吹き返した。自力で大きく息を吸った後、気管に何か異物でも入ったかのように咳き込み始める。
だが安心するのはまだ早い。ドクトルほどの白魔導士であれば、蘇生だけならいくらでもできるのだ。何よりも問題なのは、脳に酸素が行っていない状態が長すぎて後遺症が残っていないかということ。
眩しそうにゆっくりと目を開ける健人へと、ドクトルが問いかけた。
「ケントさん。私が……私が誰だか分かりますか?」
寝起きのように何度か目を瞬かせた健人は、覗き込むドクトルの顔へと焦点を絞る。
答える声は何時間も水分を摂っていないほど掠れていたものの、その口ははっきりとその名を呼んだ。
「ドクトルさん……だろ?」
「――――ッ!」
目を覚ましたことよりも、名前を呼んでくれたことが何よりも喜ばしいと言わんばかりに、ドクトルの目から止めどなく涙が溢れてくる。
そして安堵のあまり言葉を失ってしまった彼女は、涙とともに溢れ出てくる喜びを全身で表すかのように、健人の胸へと顔を埋めたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます