第15話 サラマンダーの洞窟1
森の草木を掻き分けながら歩いていたドクトルが、得体の知れない気配を感じて背筋を震わせた。そして不意に立ち止まると、枝葉に包まれた空を見上げる。
その仕草を異常事態だと感じ取った健人が、彼女の背中に問いかけた。
「ドクトルさん。どうしたんだ?」
「たぶん……いえ、間違いなく見られていますね」
「見られてる? 誰に?」
「カーシャさんですよ。私たちの動向を魔法で観察しているみたいです」
健人も葉っぱの空を見上げてみたが、何の気配も感じ取れなかった。
ただカーシャ自身、千里眼はそれなりに得意と言っていた。送り出した本人が、自分たちの身を案じて見守っていてもおかしくはないだろう。もちろん、本当に身を案じているかは分からないが。
だから健人はカーシャが見聞きしている前提で、牽制の意味も込めて、はっきりと自分の考えを伝えた。
「ドクトルさんはどう思う? カーシャさんは何か企んでいると思うか?」
「企んでいるのは間違いないでしょうね。それが何なのかは計りかねますが」
「じゃあ今から会いに行くサラマンダーとカーシャさんが共謀して、俺たちに何か悪さしようってことはあり得るか?」
進行を再開したドクトルが低い声で唸った。
「うーん……その可能性は無くもないですが、極めて低いです。そうまでして私たちを陥れる目的が見えてこないんですよね。だから、まあ……大丈夫だと思いますよ」
「そうだといいんだけどな」
そうこう話している間にも、サラマンダーの洞窟へと到着した。
地面に開いた大きな穴。その姿はまるで、海底に棲む魚が砂の中に身を潜め、獲物が来るのをじっと待っているようでもあった。
一切光の届いていない暗闇を覗き込みながら、健人は息を呑んだ。
鍾乳洞くらいは、家族旅行かなんかで何ヶ所か巡ったことはある。しかしそのどれもが観光用に照明や通路が整備されたため、完全に人の手が入っていない洞窟探索は初めてだった。
「えっと……洞窟の中に魔獣とかはいないよな?」
「ふふ。ケントさんはいつも魔獣におっかなびっくりですね。まあ、殺されかけた経験があるので仕方ないのかもしれませんが」
初めて出会った日のことをほじくり返され、健人は拗ねたように口を尖らせた。
「他の洞窟なら分かりませんが、サラマンダーさんが住んでいる洞窟に巣食う魔獣なんていませんよ。入り口付近以外には、蛇やコウモリのような小動物も生息していないはずです」
「入り口付近にはいるってことなんだな……」
健人にとって、異世界の洞窟やダンジョンの知識は主にゲームの中にしかない。そのためモンスターが生息していないか警戒するのは当然なのだが、だからといって蛇やコウモリ、生理的に受け付けない昆虫が平気というわけではなかった。
先ほどよりも現実的な恐怖心を抱きつつ、再び洞窟の中を覗く。今のところ、それらしき存在が居る気配はしないのだが……ここまで来てしまった手前、引き返すわけにもいかない。
覚悟を決め、健人は洞窟の中へと一歩踏み出す。
すると隣にいたドクトルが手を差し伸べてきた。
「はい」
「はい、って?」
なんか昨日もこんなやり取りをしたなと思いつつ、健人は首を傾げた。
「洞窟の入り口付近は急な下り坂になっています。なので手を繋いだ方が安定するかと」
「手を繋ぐ、か……」
透き通るような真っ白な手を一瞥した健人は、ふっと視線を逸らした。
すぐに手を取らない彼の行動に、きょとんとしたドクトルが怪訝そうに問う。
「どうかしましたか?」
「いや、なんていうか……手を繋ぐのは、照れ臭いというかなんというか……」
「えっ……そんなの、今さらではありません?」
確かにその通りだ。街の民衆から引き離す時はけっこう長く手を握っていたし、さっきだって崖の上へ引き上げる時に触れた。ただ頭に血が昇っていたり、ほんの一瞬だったためあまり手を繋いでいるという感覚はなかったのだ。
同世代の女の子の手に触れたことなど数えるほどしか経験していない健人にとっては、どうしても躊躇わざるを得ない。それがけっこうな美少女ならなおさらだ。
初めて好きな女の子とお化け屋敷に入るような初々しさをもって、健人はドクトルの手を取ろうとしたのだが……直前で気づいた。
「でもさ、お互い片手にランタンを持ってるんだから、もう片方も塞いだら危ないんじゃないか? 転んだ時に受け身も取れなくなるぞ」
「む、確かにそうですね」
どちらかが転べば、もう一人も道連れになってしまう。どうやら健人の考えを受け入れてくれたようで、ドクトルは手を引っ込めた。
ちょっと名残惜しくはあったが、洞窟は危険地帯。惚気ていては、防げる事故も防げなくなるだろう。安全第一を唱えた健人は気持ちを切り替えて、洞窟の中へ出発するドクトルの背中を追った。
湿った壁を手で伝い、足元に気をつけながら、ごつごつと露出した岩の上を下っていく。湿気が高く、壁や地面が滑りやすくなっているも、時間を掛けることで特に事故に陥ることもなく一旦は平らな場所へと出た。
少し広めの空間に小さな地底湖があり、ランタンの光が青白く反射している。波風なくじっと静止しているその湖は、まるで一つの巨大なサファイアのようだった。
「綺麗……」
立ち止まったドクトルが、湖を見下ろしながら小さく呟いた。
彼女と肩を並べた健人もまた、素直な感想を漏らす。
「……そうだな」
「あら? ケントさんも綺麗って思うんですね」
「それは失礼だろ。俺だって綺麗なものを綺麗って思う感性くらいはあるよ」
意外そうに驚くドクトルに向け、健人は抗議の視線を寄こした。
ただドクトルとしても決して健人の内面を粗暴と揶揄したわけではない。クスッと笑いながら言い訳がましく言葉を付け足す。
「いえいえ。そうではなくて、ケントさんの世界と私たちの世界の感受性は同じなんだなと思いまして」
「……ま、そういうことにしておくよ」
「ふふふ」
人をからかうように笑い、彼女は再び地底湖へと視線を移した。
その瞬間、不意に健人の心臓が跳ねた。地底湖に見惚れているドクトルの横顔が、あまりにも美しかったからだ。
湖の青い光が反射した瞳はまるで本物の宝石のよう。また高すぎる湿度のせいで繊細な髪には水滴が張り付いており、乱反射したそれらが彼女の美貌を一層引き立てている。ドクトルの体格が華奢なせいもあってか、青白く輝く横顔は麗しくもあり、どこか儚げでもあった。
綺麗。彼女の発したその一言が、健人の思考の大部分を占める。
地底湖の輝きを恍惚とした眼差しで眺めるドクトルと、彼女の美貌に見惚れる健人。二人は同じ感情を抱いてはいるものの、そこには明確な違いがあった。地底湖の輝きは見ることしかできないが、ドクトルの美貌はすぐ手の届く範囲にあるのだ。
触ってみたい。そう思った瞬間、彼の心に魔が差した。
健人の手が、無意識にドクトルの髪に触れていたのだ。
「ひゃわ!?」
甲高い悲鳴を上げて、ドクトルが全身を震え上がらせた。
同時に、健人が我に返る。「あっ……」と喉から後悔の声が漏れるが、もう遅い。驚かされたと勘違いしたドクトルが、頬を膨らませながら健人を睨みつけていた。
「もう、びっくりしたじゃないですか! 私の顔に何かついてたんですか?」
「いや……ごめん。髪に水滴が付いてたからさ……」
「水滴?」
自分の髪に触れるドクトルへ謝罪するように、健人は顔を背けた。無意識とはいえ今のはマズかった。急に女の子の髪を触るとか、絶対にやってはいけない行為だ。しかも健人はドクトルの恋人でもなんでもなく、ただの居候なのだから。
どんな罵る言葉が飛び出しても、すべて受け入れる。刑の執行を待つ罪人のように、反省しながら反応を待っていた健人だったが……あろうことか、彼女はクスクスと声を押し殺して笑い出した。
「何言ってるんですか。ケントさんの頭もベトベトに濡れてますよ」
つま先立ちになったドクトルが、健人の頭を撫でるように髪に付いた水滴を払い始めた。ぱっぱっぱと短い髪の先端が何度も撫で回されるので、徐々にむず痒くなってきてしまう。
「くすぐったいって」
「ふふふふ。勝手に髪を触った罰です」
お互い口では文句を言いつつも、ドクトルの口元は綻び、健人もまた彼女の手が届きやすいよう軽く頭を伏せていた。ただ健人の場合は火照った顔を見せないようにするのと、近すぎる彼女の顔を見てまた変な気を起こさないためでもあったが。
そしてしばらく戯れた後、距離を取ったドクトルが手を差し伸べてきた。
「ささ、こんなことしてないで早く行きましょう。この先に行けば、これくらいの湿り気ならすぐに乾くと思いますので」
「乾く?」
問いながらも、健人は自然な動作でドクトルの濡れた手を握った。
行けば分かります。とでも言わんばかりに、ドクトルは健人を洞窟の奥へと案内する。健人も引っ張られるがまま、足元に気をつけながら彼女の背中を追ったのだが……その際、ふと思ってしまった。
この世界の人間と健人の感受性が同じならば、健人の見立て通り、ドクトルはこの世界の人々にとっても相当な美人に値するのだろう。今は森に住んでいるため他人に関わることが少ないが、街に出た時など男が言い寄って来ても何ら不思議ではない。
だからこそ、彼の心のどこかで小さな蟠りが生まれてしまう。
ドクトルが自分以外の男と手を繋ぐのが嫌だなぁと、少しだけ、ほんの少しだけ、健人は考えてしまった。
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