第1話 白魔導士の少女

 笹岡健人は、ほんの一ヶ月前までは普通の高校生だった。


 しかしその日、特別な日でもなんでもない平日、彼はクラスごと異世界へ転送された。


 異世界転移ともなれば、チート能力や冒険など、誰だって少しは期待するもの。召喚された直後は混乱に満ちていたが、状況を把握するにつれ、少しずつ非日常に心を躍らせていたのも事実だった。


 だがしかし、この異世界は想像とはまるで違っていた。


 特別な力を持つ勇者ではなく、ただ単に兵力を欲していただけなのだ。


 この世界では現在、人類軍と魔王軍による大戦争の真っ只中だった。自軍の兵力だけでは攻略不可と判断した人類軍は、異世界から人材を確保しようと考えたのである。


 だだっ広い召喚の間で賢者が説明していたのは、今の世界情勢と、召喚された者は身体能力が多少強化されていること。言語や文字などの理解能力を付与されたこと。そして元の世界に帰りたくば、生きて魔王軍に勝利せよとのことだった。


 それから一ヶ月の間、健人たちは奴隷のように訓練させられた。


 健人たちの中で魔力を持つ者がいなかったため、魔法はある程度の知識だけに留め、主に白兵戦による戦闘術と槍の使い方だけを学んでいった。


 そして戦闘の基礎知識を無理やり教え込まされた健人たちは、魔王軍との紛争地帯へと送り込まれることとなる。


 だが一ヶ月前まで一介の高校生だった彼らが、いきなり戦争なんてできるわけがない。身体強化も元の世界の三倍程度しか付与されておらず、しかも相手は見たこともない怪物ども。後衛の魔導士たちの壁役くらいにしかならないことは、目に見えていた。


 だから健人は逃げ出した。


 魔王軍のモンスターに次々と殺されていくクラスメイトを見て、恐怖のあまり何もかもを捨てて戦場から逃走した。


 しかしその逃走劇も、呆気なく終わってしまった。


 見知らぬ森の中、複数の魔獣に遭遇し、彼は死んだ――。






「――うわあああああ!!」


 自分が死ぬという最悪の事実を突きつけられた健人は、絶叫とともに飛び起きた。


 全力疾走した後のように息を荒げ、不快感を抱くほどの汗が全身から噴き出している。未だ夢現の状態であるためか、数秒の間は視点が定まらなかった。


 ただ意識は混乱の中にあれど、今やるべきことは本能が示した。


 彼はまず、自分の右腕にゆっくりと視線を移す。


「あ……ある……」


 自由に動かすことができる。間違いなく自分の腕だった。


「……い、生きてる?」


 穴の開いていない下腹部に触れるとともに、脳裏に悪夢が過った。


 右腕が噛み砕かれる音。腹の中を掻き回される感触。鼻腔を刺激する血の匂い。あの感覚が夢であるはずはない。あれは間違いなく現実だった。


 だが前後の記憶が繋がらない。魔獣に襲われた自分が、何故こんな場所にいるのか。


 気持ちを落ち着かせるため、周囲の様子を観察してみる。


 健人が横になっているのは、白いシーツの上だった。床からの高さからして、おそらくベッドの上なのだろう。


 さらに見回してみると、ここがログハウスのような屋内であることが分かった。丸太を積み重ねた壁に、高い天井。家具らしい家具はタンスとテーブルしかなく、陽が差し込む窓にはガラスが無い。というか、今何時なのだろうか?


 魔獣に襲われたのは、確か日没から間もない頃だったはず。にもかかわらず、すでに陽が昇っているということは、少なくとも一晩中気を失っていたということだ。


「……ダメだ、考えがまとまらない」


 自分一人では状況が把握しきれず、健人は頭を抱えてしまった。


 とはいえ、健人をこの場所に運んできた誰かがどこかに居るはず。シーツの清潔さや清掃が行き届いている様子を見るに、まさか廃墟ではないだろう。


 このログハウスの家主を捜すため、ゆっくりとベッドから立ち上がろうとした健人だったが……彼の思考を読んだかのように、タイミング良く扉が開いた。


「おはようございます。叫び声が聞こえたので朝食をお持ちしました」


 パンとミルクを携えて部屋に入ってきたのは、健人と同年代の少女だった。


 肩のラインで大雑把に切り揃えられた髪は絹糸のように繊細で、色素が薄いのか灰色のように見える。また肌の方も髪と引けを取らないほど色が薄く、太陽とは一切無縁と言っても過言ではないほど、透き通るようなミルク色をしていた。


 ただその顔に表情は無く、翡翠のように美しい瞳は無感情のまま健人を見据えている。美貌と無機質、二つの意味で人形のような少女が突然目の前に現れ、立ち上がろうとしていた健人は思わず動きを停止させてしまった。


「お……おはようございます……」


 反射的に挨拶を返すと、少女は流れるように健人から視線を逸らした。


 そしてパンとミルクをテーブルへ置くやいなや、そそくさと退室しようとする。


「ちょ、ちょっと待って」


 さすがにそのまま帰すわけにはいかず、健人は身を乗り出すように引き留めた。


「……なにか?」


「なにか? じゃなくて……」


 心底鬱陶しそうな目つきをする少女を前に、健人は再び頭を抱えた。


 それでも立ち止まってくれたことには感謝しなくてはならないのだろう。混乱している頭を無理やり稼働させ、今問うべき質問を必死で絞り出す。


「あ、あの……ここはどこですか?」


「私の家です」


「…………」


「…………」


 ドアノブに手を掛けたまま停止する少女と、大口を開けて呆気に取られる健人。


 もう少し何か情報を与えてくれてもいいんじゃないのか? と思うも、もしかしたら一問一答形式なんじゃないかということに気づく。


「えっと……俺、昨日……かどうかは分かりませんけど、死にましたよね?」


「そうですね。厳密には完全に死には至ってはおらず、瀕死の状態でしたが」


「……あなたが助けてくれたんですか?」


「はい」


 息を吐くように呟いた後、少女は機械的に頷いた。


 助けてくれた、という事実はいい。だが今ここの在る現実に納得がいかず、健人は再び自分の右腕を眺めながら問う。


「確か、魔獣に腕を食い千切られた思ったんですが……」


「ええ。それに私が見つけた時は、はらわたがほとんど引っ張り出されていました」


「でも治ってる」


「私が治しました」


「…………は?」


 健人が唖然としている間にも、彼女はようやくドアノブから手を放した。


 そしてベッドにいる健人に向けて、仰々しくも事務的に頭を下げる。


「申し遅れました。私、白魔導士をしております」


「白魔導士……」


 城にいた頃、魔法については賢者から大まかに話を聞いていた。


 白魔導士とは、主に傷や病気を治す魔法使いである。攻撃的な魔法を使うわけではないため前線には出ず、野戦病院で負傷兵を治療したりなど、衛生兵的役割があると言っていた。


 確かに少女の身なりを見ても、身体の線が隠れるほどのゆったりした白いローブは、ゲームの中の白魔導士のイメージそのものだ。服装で職業が判断できるのは、どの世界でも同じなんだなと、健人は感心したのだが……。


 いやいやいやと、彼は慌てて首を振った。


「そんなはずはない。普通の白魔導士は傷を塞いだりするのが精一杯で、失った腕を再生するなんてのは限られた魔導士にしかできない大魔法だと聞きましたよ」


 魔法で傷を治す方法は、大きく分けて二通りある。


 一つは魔力で細胞を活性化させる方法。細胞分裂を促進させ、傷を塞ぐのである。魔力量は少なくていいものの、治した部位の老化が早くなることがデメリット。いずれ自然治癒で治る傷を、魔力によって時間短縮させているのだとか。


 もう一つは魔力そのものが血肉となり、身体の欠損を補う方法。重症や即座に死に至る負傷に適応されるらしいが、魔力は膨大に消費する。人間の腕を元通りに復元するとあれば、必然的に後者にならざるを得ない。


 だから健人は少女の言葉を疑ってしまった。


 賢者の話を真に受けるならば、右腕丸々一本どころか、幾分か喰われた下っ腹まで完治させるには、一個人の魔力量ではまず不可能なのだ。にもかかわらず、ローブの少女は魔力を使い果たして疲労困憊した様子もない。


 いや、彼女は『一人で治した』とは言っていない。他に誰かいるのか?


 それとも魔獣に襲われたのが昨晩というのが嘘で、あれから何日も経過しているのか?


 様々な疑問が健人の頭を駆け巡る。


 返答を聞くため言葉を発せずに待っていると、ふと少女が視線を逸らした。そして床を見つめながら、落胆のため息とともにポツリと漏らす。


「……やっぱり、助けなきゃよかった」


「えっ?」


 かろうじて届いた声に、健人は呆気に取られてしまった。


 すると少女は急に踵を返し、乱暴にドアノブを掴む。今度は呼び止める暇すら与えられず、彼女はあっという間に扉の向こうへ去っていってしまった。


「ちょっ……」


 ベッドの上で呆然とするだけの健人には、無慈悲に閉じられた扉をただただ見つめることしかできなかった。

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