ドクトルさんの最強白魔法
秋山 楓
プロローグ
彼――
持っていた槍は放り投げ、重りになっていた甲冑は脱ぎ捨て、できるだけ戦場から離れられるよう、見知らぬ森の中をただひたすら走り続けた。
体力が尽きて立ち止まった頃には、すでに陽が落ちていた。
戦いの喧騒はもう届かない。追手が来る気配もない。あの地獄のような戦場から、ようやく逃げ切れたのだ。生き延びたという実感により、彼の口からは自然と安堵のため息が漏れた。
だが安心するにはまだ早かった。
陽の落ちた森の中は、数メートル先すらも視認できないほどの暗闇が広がっていた。そして気づく。得体の知れないいくつもの気配が、彼の周りを囲んでいることを。
この異世界に召喚されてから戦場に出るまでの一ヶ月の間に、城の賢者から話を聞いたことがあった。人の手が入っていない森などの自然区域には、魔王軍とは別の魔獣と呼ばれるモンスターが生息しているのだと。
泣きっ面に蜂とはこのことかと、健人は握り拳大の石を拾った。唯一の武器である槍を捨ててしまったため、そこら辺にある物で対応するしかない。
「くそっ、来やがれ!」
覚悟を決めるやいなや、一匹の魔獣が暗闇から飛びかかってきた。
毛を逆立てた狼のような魔獣が、牙を剥きながら疾風の如き速さで迫ってくる。肉食獣の本能なのか、奴の狙いが首であることが即座に分かった。
持ち前の反射神経で魔獣の噛みつきを避けつつ、手にしていた石で殴り掛かる。すると見事下顎にヒットし、魔獣は「きゃうん」と情けない声を上げて地面を転がっていった。
イケる! 元の世界の身体能力だったら避けられなかったが、今なら対応できる!
焦りながらも、勝機が見えたことで自然と頬が緩む。
だが……それで終わりだった。
周りを囲んでいた魔獣たちが、一斉に襲い掛かってきたのだ。一匹だけなら対処できたとはいえ、五匹同時の急襲には為す術がなかった。
左脚を噛みつかれたことにより、バランスを崩して地面へ倒れる。
首をガードした右腕が噛み砕かれ、食い千切られる。
抵抗はした。しかし野生の暴力の前では、生きることを諦めるしかなかった。
全身の痛みと失血からついに動けなくなった健人は、静かに魔獣の餌となる。魔獣たちも獲物が死を受け入れたことを察したのか、荒げた息を抑え、一番肉が詰まっている下腹部へと牙を立てた。
臓器が外に出て行く嫌悪感が、全身を襲う。
「いや……だ。死にたく……ない。……なんで……こんな所で……」
薄れゆく意識の中、悔しさのあまり涙が零れた……その時だった。
魔獣たちの動きがピタリと止まった。内臓が掻き混ぜられる感触が消え、身体に乗っていた重りが退く。そして静かな足音とともに、周りから魔獣の気配が遠ざかっていった。
自分が生きているのか、もしくは死んでいるのかすらも分からない健人には、何が起こったのかさっぱり理解できなかった。何故魔獣たちが途中で食べるのを止めたのか。何故落ち込んだようにとぼとぼと去っていったのか。
いや、もうどうでもいい。もう、どうせ自分は助からない。痛みすらも失ってしまった下腹部が、そう物語っていた。
ゆっくりと、意識が
水底から水面を見上げるようにぼやけた視界の端で、ふと何かが映った。ローブのようなゆったりとした服を着た誰かが、自分を見下ろしている。
「何の対策も無しにこの森に足を踏み入れるとは、とんだ愚か者がいたものですね」
呆れるような、憐れむような女性の声。
すると突然、視界が白い光に包まれた。
嗚呼、今の女性は天使だ。死に逝く俺を、あの世から迎えに来てくれたのだろう。
そう思うのとともに、健人は完全に意識を失ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます