四 『夜光』

 




4.




 帰り道、ルツは一言も口を利かなかった。

 ストームカラッパの蒸気/ディーゼル機関の点検中も、探索用の装備を整える際も、ねぐらに戻ってもろくに喋らず、黙りこんだまま。夕食もいらないと断られた。慈雨は一人でひよこ豆のスープを作って食べた。いつもよりも辛くて、舌がひりひりした。

結局会話することなくそれぞれが寝床に引き上げ、明日を待つことになった。

 慈雨はなかなか眠れず、何度目かの寝がえりをうった。

 砂漠に程近い北多摩積層都市のはしっこ。ごうごうという潮の遠鳴りのような砂漠の風の音が、今夜はなんだかやけにうるさい。赤い風は夜とて吹き止んだりはしないのだ。おかげで地上に灯はなく、砂漠の夜には砂と星の光――自然の光源しか存在しない。しかも昨今は砂嵐のおかげで星の光さえ届かないことが殆どだ。


「落ちた星はよっぽど嫉妬深かったのかもね。自分だけを見て欲しくて彼は地球までやってきたんだよ。だから星の光も文明の灯も、すべてを奪い去ったんだ」と以前ルツが冗談めかして言ったことがあったが、案外本当にそうだったりして。

 そうこうしているうちに眠れそうな気になってきた。その時だった。


「慈雨、起きてる?」


 声は穏やかで朗らか。いつもと寸分たがわぬルツのものだった。

 少し考えて慈雨は答えた。


「……起きてる。今そっちへ行く」



 §



 オアシス最外縁の骸径がいけい積層都市はその名の通り新旧の都市構造が複雑に重なりあってできた迷宮都市だ。実際、慈雨の部屋のすぐ下には別の家の屋根がある。ルツはそこに仰向けに寝転んで空を眺めていた。今は仄暗い砂嵐の夜空を。ルツの足首に巻かれた監視装置が呼吸の速度で赤く明滅している。逃亡を防止するために永劫炉が嵌めこんだ足枷を外すことは慈雨にもできない。本当の意味でルツが自由になる日は永遠に来ないのだ。


「そんな空を眺めて、楽しいか」

「星々の瞬く音が聞こえるし、時折風に混じってオアシスの喧噪も聞こえるよ」

「……ルツは耳がいいね」

「ただ目で聴いているだけさ」


 少し間隔を開けて慈雨も屋根の上に同じように寝転んでみたが、やはり星はひとつもみえない。気配すらないのに、ルツはどうやって聴いているというのだろう?


「今日はごめんね。キミにひどい態度をとった」

「べつにいい。たぶん、わたしでも同じことをした」

「……そうだね、慈雨ならそうだと思う。でも、だからこそ、ボクはやっぱり反対なんだよ」

「ルツ」


 このままでは堂々巡りだ。続く言葉を遮ろうとすれば、ルツはそれをそっと制した。全部言わせてくれればもう反論はしないと青い瞳が訴えていた。


「ボクの知る限り、今の第三五番地下都市遺跡は異邦者フォーリナーの巣窟になっていてとても危険な場所なんだよ。そこで探しものだなんて、殺して食べてくださいと言っているようなものだ。まあ、食べて殺して、の順かもしれないけれど」


 異邦者とは都市の外からやってきて迷宮を彷徨うようになった虚ろな者たちのことだ。

 赤い風が彼らを連れてきたというが、実際は風に狂わされた者たちだったのだろう。それが地下都市迷宮を徘徊するうち、塵肉を喰らい、生血を啜って永らえる狡猾で残忍な一族に変わり果てたのだ。


「あの区域ではつい最近も複数の探索者のパーティが犠牲になっている」


 ルツは元々迷宮探索のエキスパートで――とんでもなく迷惑な方向にだが――常に情勢を頭に入れている。たとえ小さな情報だとしても、その有無が生死を分けることになる。


「さらに厄介なのは落盤で従来の移動経路が代わってしまっているうえ、本来は階層の奥にいる筈のアカバク族がいつもより浅い場所にまで移動してきているらしいこと」


 アカバク族は異邦者の中で最も凶暴で禍々しい部族である。テリトリーへの侵入者を許さず、生きて返すことはけして無いそうだ。

 慈雨は「難所は避けて通るものだ」と師から教わってきた。故にこれまで遭遇したことはないが、その存在自体は知っている。


「……だからね、今危険を冒してアタックするのはよしてほしいんだ。ねえ――行かないでよ、慈雨」


 慈雨の意思を知った上で。ルツはやはり何度でも同じ言葉を言ってしまうのだろう。

 どう答えるか考えあぐねて、慈雨も結局昼間と同じ答えを繰り返してしまう。


「わたしはもう契約した。行かないわけにはいかない」


 うん、という相槌。それからルツにしては珍しく少し間があって、昼間はなかった問い掛けが返ってきた。


「それってさ、ボクのため?」

「にゃっ!?」

「砂塵肺の治療データの提供と引き換えに、わざわざあるかどうかも分からないサンプルを取りに行くと言ったの?」


 ルツの目つきは真剣そのもの。

美貌のルツに見つめられると、慈雨の身体はどうしたって竦んでしまう。それから心臓に爪を立てられたように胸がきゅっと痛むのだ。

 でも、今はそんな痛みに負けている場合ではない。


「……わ、たしは、ただルツに死なれると仕事の損失が増えると思って、その……迷惑を被るのは御免だから」


 慈雨の憎まれ口にも、ルツはくつくつと笑い声をたてて微笑むだけだった。その赤い唇が毒々しい言葉を紡ぐ。


「慈雨は可愛らしい顔をして、本当にひどいことを言うんだね。何百人も殺したボクの命を助けたいって、それこそ生命への冒涜じゃない? 僕に殺された人たちはさぞかし無念だろうねぇ」


 それは刺々しい態度であったが、ほんの少し寂しげにも見えた。だから慈雨は続きを口にする。


「……たしかにわたしの選択はひどい。でも間違っていないと思う。ルツの命を優先して選択することで、他の命の価値を切り捨てる。これは差別だ。ようするに他のものよりもルツのほうが大切だと判断したんだ、わたしは。でも、ルツがよく口にする、その……あ、愛ってこういうものなんでしょ」

「……ちがうよ。ぜんぜんちがう」


 ルツは唇の端を歪めた。美しいけれど、どこか虚しい微笑だった。


「ボクは他人が何人死のうが関係ないし、たとえサンプルが見つかって研究が進むことで何人助かろうが関係ない。カントウの話だけじゃない。この星の人間が何人死のうが、ボクは慈雨の命を優先する。慈雨の意思だって知るもんか。キミが何を考えていようが、ボクのことをどう思おうが関係ない。どうだっていいんだよ。ボクが慈雨を好きで、キミを一番に扱える限りは」


 ひたすら身勝手に、残酷に。そしてこの上なく献身的に。ルツは慈雨を好いている。天秤に掛けるまでもなく、慈雨以外のすべてを切り捨てるほど病的なまでに愛しているのだ。ルツにはもとより他の選択肢などないらしい。ときには自分自身すらも後回しにするほどに。

 でも、慈雨にだって信念がある。

 それはルツが相手でも――ルツが相手だからこそ譲れないものだ。


「それでも、もう決めた」

「……うん。知ってる。慈雨が決めたなら、ボクはもう傍にいてキミを守るだけさ」


 頷いた直後、ルツはまたも咳き込んで赤い砂を吐いた。

 ルツ自身が両腕で抱えた体からさらさらと砂が零れて、それを夜風が攫っていった。


「あーあ。結局ボクはキミを身勝手に愛することすら許してもらえないんだなァ」

「だって、ルツは大罪を犯した囚人で、わたしはランクA級の便利屋だ。ルツはわたしの、その……しょ、所有物だから。わたしが預けられた命をどう扱おうが、それはわたしの勝手でしょ。わかる?」


 無理やり冗談をいって背中をさすってやると、ルツは可笑しそうに笑って慈雨を見返してきた。深く澄んだ眩い眼差し。

 その口元から赤い砂が血のように一筋、さらり、と零れた。


「あは、口ん中ざらざら。大風でも吹いたらボク、ぜんぶ砂になって飛んでっちゃうかもね。案外、慈雨にはそのほうがいい――」


 もう続きを聞きたくはなかった。だから慈雨は自分の唇でルツの口を塞いでやった。ルツの味がした。赤錆びた血の匂いもした。砂のじゃりじゃりとした感触を掻きだすように舌で口内をぐるりと撫ぜる。ルツは抗うのをやめる代わりに、口内に差しいれられた舌を吸い、慈雨のくちづけに熱烈に応えてきた。互いの呼吸を奪い貪りあうと、慈雨のほうから唇を放した。絡め取った砂をぺっと吐き出す。体内から溢れ出た血みたいに真っ赤だった。暗闇でも赤く濡れてみえた。


「ほんとに砂だらけ。いつも思うけど、この砂って集めといたりしなくていいの? 一応ルツの一部で」


 言いかけたところで再び、今度はルツから唇を重ねてきた。いつのまにか抱き竦められた身体が熱く汗ばんでいく。

 慈雨にもルツにも、今さら引きさがる口実なんかなかった。


「慈雨、いい?」

「…………きくな。ばか」


 その夜ばかりは砂漠の夜闇と風の音が、ふたりを世界から隠してくれた。慈雨には重なりあうルツの心音が一層愛しいものに思えた。




 §




 慈雨は北の涯の地下迷宮で生まれた――正しくは、ある日突然〝目覚めた〟。

 前文明の墓標である地下都市遺跡、その中の小さく冷たい棺で氷漬けにされて眠っていた。

 目が覚めても自分がどこの誰かもわからない。名前も、素性も、行くあてすらも。わけなんか何一つわからなかった。わかるはずもなかった。

 便利屋の男に偶然助けられて以来、旧東京大砂漠を狂奔し、犯罪と病魔が蔓延る積層都市を彷徨って、必死に喰らいついてきた。出自などルツに出会うまで気にしたことはなかった。そんな些細なことに囚われていたら死んでいたと思う。ただひたすら今だけを必死に積み重ねてきたからこそ、今この瞬間がある。

 けれど、もし自分の過去を垣間見られたら?

 ……自分が何者か知ることができたなら、もう少し意地を張らずに他人であるルツを好きでいられるのかもしれない。

 慈雨が依頼を引き受けた裏にはこのような想いもあった。



 

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