母を亡くしてから、ずっと怖かった。


 何が怖いのか、分からない。だけどずっと何かに恐怖し続けてきた。心に空いた穴がスカスカと寒くて、いつだって身を震わせてきた。


 ──だけど今は、怖くない。寒く、ない。


 怒りに瞳をギラつかせるボルカヴィラ王太子を前にしているのに、心は不思議なくらい静かだった。母を亡くしてから今が一番の危機であるはずなのに、恐怖も寒さも感じない。


 それは、かたわらに炎狼ヴィヴィアスがいてくれるからか。あるいは。


 エルザはチラリと岩橋の下に視線を走らせる。打ち合わせの通りサラを回収したハイトは水龍シェーリンの背の上に退避していた。あそこにいてくれれば、二人はもう安全だ。


「……何者だ、お前は」


 突如現れたエルザにカティスが凄んだ。今のカティスにはもう、目の前にいる娘が自分の追っていた抹殺対象であると理解するだけの思考の余地も残されていないのかもしれない。


「俺の邪魔をするならばお前も消えろっ!」


 カティスが操る炎弾が目の前で渦巻く。


 それをエルザは避けようともしなかった。


 ──サラさんとハイトさんが、私をここまで連れてきてくれた。


 炎狼の尾が鋭く一閃された瞬間、カティスの炎は燐光さえ残さずに消えた。無防備になったカティスに向かって今度はエルザが手を向ける。


 ──次は私の番……!


「炎狼っ!」


 エルザの声に炎狼の遠吠えが重なった。ビリビリと震える空気に共鳴した溶岩がデロリと鞭のように牙を伸ばす。


 その先が、カティスの足を捕らえた。


「な……あ? ああああああっ!!」


 足先からカティスの体に沿って伸び上がるように躍った溶岩の鞭は、カティスの体を捕えるとそのまま橋の下へカティスの体を引きずり込んだ。尾を引く絶叫を残して消えたカティスの体が赤々と燃える溶岩に呑まれ、やがて断末魔の悲鳴の余韻も消える。


『各国の神の神域は、それぞれ「裁定の泉」と言われておってのぉ』


 呆気ない幕引きに肩で浅い呼吸を繰り返すエルザにスリッと温かな毛並みが寄り添った。ろうたけた美しい女性の声は、今まで姿は見えずともずっとエルザに聞こえてきた馴染みの深い声だ。


『神に選ばれた者が立てば力を帯びておらずとも渡ることができ、神の意に沿わぬ者が立てば力を持ち合わせていようとも沈む。エルザならば、この溶岩の湖面を散歩することもできるのだえ』

「……王太子様は、炎狼に選ばれなかったから、沈んだの?」

『どちらかと言えば、あれが沈んだのはあれの罪のせいじゃな』


 だから恐れなくていいのだよ、と炎狼の尻尾がエルザの頭を撫でた。その温もりに、エルザの肩からほっと力が抜けていく。


『さぁエルザ、最後の仕上げじゃ』


 炎狼はエルザを励ますように頭をすり寄せると、視線を宙へ投げた。視線の先を追って空を見上げれば、そこにはハイト達を連れて上空まで退避した水龍がいる。


「……なんて、綺麗」


 見とれるような神々しさは、どこかハイトを思わせた。


 嘘を隠せない清らかさと、誠実さ。不器用とまで言える優しさ。その心でエルザを救ってくれたハイトと、心の芯の強さを……女のカッコよさを教えてくれたサラが、今もエルザを案じてくれているのが分かる。


「……ありがとう」


 届かないと分かっていても、こぼれ落ちる言葉は止められなかった。小さく漏れ出た笑みも。


 だがエルザはグッと口元を引き結んでそのすべてをかき消した。水龍を睨みつけ、精一杯威厳があるフリをして声を張る。


「異国の王族よ、去りなさいっ!! ここは炎狼の神域っ! 他国の神に穢されるなんて、許せませんっ!!」


 示し合わせた通りに声を上げたエルザは、ドレスに包まれた腕を真っ直ぐに水龍に向けた。


「炎狼っ!!」


 エルザの声に応えた炎狼がカッと口を開き空に向かって炎を吐き出す。水龍はすかさず水の膜を張って炎を防ぐが、徐々に水龍の体は力負けして空へ押し上げられていく。


 先程までカティスが強いられてきた劣勢をあっさり覆したエルザに、逃げ損ねた貴族達からどよめきの声が上がる。


『──────ッ!!』


 その瞬間、水龍が大きく咆哮を轟かせた。音の暴力と呼ぶにふさわしい衝撃波に場にいた誰もがとっさに顔を伏せ、耳を庇う。身をすくませたエルザを庇うように炎狼が身を投げ出し、エルザの視界は暗く閉ざされた。


「っ……ぅ……、炎狼?」


 ビリビリと体を震わせていた振動が消えたのを確かめてから、エルザはそっと顔を上げた。炎狼の毛並みの間からピョコリと顔を出してみたが、炎狼が見上げる空にすでに水龍の姿はなかった。打ち合わせ通り、ハイト達は撤退したらしい。


『まったく水龍め。いくらこの茶番が気にくわんとは言え、あんな咆哮をおなごに叩き付ける馬鹿がどこにおる』


 ほうけたように空を見上げていたら、炎狼が憤懣ふんまんやるかたないといったていで呟く声が聞こえた。エルザは思わず炎狼に問いを向ける。


「いかにも苦しまぎれの撤退って感じだったけれど……。あれは、相手が引いてくれたんだよね?」

『純粋な真っ向勝負で、アクアエリアのハイトリーリンに勝てる者はおらん。あれは規格が違いすぎる』

「ハイトさんが本気で力を振るったら……どうなるの?」

『ここをアクアエリアの神域に創り変えてしまうくらい、造作もなくやってのけるだろうて』


 つまり、この炎の力を全て消し飛ばして己の領域にしてしまえるということか。


 ──神様である炎狼がそんなことを言うくらい、ハイトさんってすごい人だったんだ……


 そうでありながら、なぜかエルザの記憶にあるハイトは、いつも仲間達に振り回されていた。苦労性で、お人好しで。先程ハイトの実力を間近で体感したはずなのにその思い出が強すぎて、次に会った時も思わず気安く『ハイトさん』と呼びかけてしまいそうな気がした。


 そんな自分に、エルザはクスリと笑みをこぼす。


「……私も、ハイトさんやサラさんみたいになれるといいな」

『力を強く振るえるから、良い王になれるというわけでもないのだえ?』

「ううん。そういう意味じゃなくって」


 エルザは二人が消えた空を眺めて瞳を細めた。東の空が白み始めた夜空の色は、エルザが初めて出会った時の彼の瞳の色によく似ている。


「お二人みたいに、どんな時でも、どんな自分にでも、胸を張って生きていたいなっていうこと」


 その言葉に炎狼は嬉しそうに瞳を細めた。


 やわらかくすり寄る体に、エルザはギュッと腕を回す。


「新しい女王が現れた!」

「炎狼に祝福された女王だっ!」

「炎狼と真の王がお帰りになられたぞっ!」


 そんなエルザ達を祝福する声が、争いが治められた神域の中に、幾重にも幾重にも高らかに響き渡っていた。

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