凜とした強い声に、神域の空気が凍りついた。


 王太子の婚儀が雨で白紙に戻された。その上、突然現れた異国の王族は、婚儀に異議を叩き付けてきた。こんな珍事は歴代のどこにもない。


「……っ!」


 ボルカヴィラ側が完全に凍りついたその瞬間を、サラは見逃さなかった。


「っ!? おいっ! 待てっ!!」


 カティスの指がドレスを掴むよりも早く、サラは身を翻した。


 ハイトに向かって、脱兎のごとく走る。高いヒールが石畳に引っ掛かって転びそうになったが、それでもサラは足を止めようとはしなかった。


「ハイト……っ!」


 ドレスをたくし上げて走るサラを、ハイトは両腕を広げて受け止めた。サラはハイトの首に腕を回して全力でハイトに抱きつく。


「生きてた……っ!」


 温かい腕は記憶の中にある通りで、それを確かめたら勝手に涙があふれてきた。それが分かったのか、サラを抱きしめるハイトの腕の力が強くなる。それが嬉しくて、どうしてもそれを伝えたくて、サラはハイトに抱きつく腕に力を込めた。


「ふざけるな……っ!」


 だが状況は、二人にそんな些細な幸せさえ許してくれない。


「欠陥品のお前ごときが俺に楯突くんじゃねぇっ!!」


 はっとサラが振り返った時には、二人めがけて炎弾が放たれていた。通路を埋め尽くしてなおあり余る炎の塊が、空気を押しのけるようにして迫ってくる。


「ハイトッ!!」


 サラはとっさに『詞中の梟ミネバ・ラス・フローライト』に指をかけながらハイトを庇うように前に出た。


 ──相性が悪かろうとも、私の全力を込めた一撃なら……!


 決死の覚悟で腕を振り上げる。


 そんなサラを、後ろから濃藍の外套が包み込んだ。


「大丈夫だ」


 そのたった一言で、迫りくる炎弾が青い燐光に弾かれて消えた。


「貸していたモノを、返してもらってきたから」


 サラを左腕で抱き込んだハイトは、右腕を振り抜いた姿勢のままカティスを睥睨へいげいしていた。


 神への助力を請う詠唱も、力を発動させる言葉も聞こえなかった。


 ただ、右腕を横へ一度、振り抜いただけ。


 本当にそれだけの動きで、ハイトはカティスの渾身の炎弾を払いのけていた。


「……っ!」


 その光景が信じられなかったのか、カティスは狂ったように炎弾を連続して投げつけてくる。だがハイトはそのすべてを指先のわずかな動きで払いのけてしまった。跡形もなく炎が消えた後に残る淡い青色の燐光は、東方諸国の夏の夜に舞うと聞く蛍を見ているかのようで、暴力の中にありながらあまりにも静謐せいひつで美しい。


「なぜだ……っ!」


 炎弾を繰り出し続け、最後には炎の壁で焼き包もうとしたのにそれさえも指先ひとつで燐光に変えられてしまったカティスは、こめかみを痙攣させながら金切り声を上げた。


「なぜお前が力を使えるっ!? お前は全ての力を失ったはずだっ!!」

「全て、ではなかったんだがな」

「うるさいうるさいっ!! 今の力を前にすれば、あれごときはないに等しいだろうがっ!! なぜだっ!? なぜ直系王族である俺の力が通じないっ!? なぜお前はそこに立っていられるっ!?」


 ただわめくことしかできないカティスに、ハイトはただ瞳を細める。


 ──でも確かに、どうしていきなりこんな風に力を使えるようになったの?


 ハイトはリーフェの命を救うために『水繰アクアリーディ』の力をほとんどリーフェに与えてしまったはず。事実、サラと行動をともにしていた時、ハイトの力は衣の水を飛ばすことさえできないくらい弱かった。


 それなのに今は『水繰』の力をまるで己の指を使うかのように自在に操っている。強さと練度で言えば、リーフェより今のハイトの方がずっと強いはずだ。


 ──まるで話に聞いた、リーフェに出会う前のハイトのような……


「与える事が出来るならば、返してもらう事も出来るとは考えないのか?」


 ハイトはスッと右腕を高く掲げながら言い放った。


「俺達の力は、神に下賜かしされたもの。神の加護の具現だ。俺達は血に宿った力を通路にして、国守くにもりの神から力を借りる事が出来る。神がどれだけ力を貸してくれるかは、その人が持つ器と、神との距離で決まる」


『そもそもなぜ力の強弱が発生するのか』という理屈を口にしたハイトに、サラは目を丸くした。


『力』はそこにあるのが当たり前で、なぜ人によって優劣ができるのかなんて、考えたこともなかった。


「俺達の力の強さは、血から引き出せる力と神から借り受けることができる力の総和。だから神が最初に選んだ者の血をより濃く継ぐ直系ほど、力は強い。他の国ではどう考えられているのか知らないが、アクアエリアではそう考えられている」


 その腕に呼ばれたかのように大気が鳴動したのが分かった。何か質量のある物が揺らめき、空気を押し退けていく。


水龍シェーリンの意志に関係なく俺の血から引き出すことが出来る力は、元々あの程度だ。ただ、俺のそばには常に水龍がいた。水龍との距離が他の人間に比べて格段に近い俺は、その分水龍から多く力を借りる事ができた。ただそれだけだ」


 その空気の中に圧倒的な神気が混じっていることに気付いたサラは、顔を跳ね上げると空を見上げた。


 そしてそこに横たわる姿を、初めて瞳に焼き付ける。


「俺は昔、とんでもない我が儘を水龍に叶えてもらった。その願いを叶え続けるために、元々俺に注がれていた水龍の力はそのほとんどがリーフェに注がれる事になった。リーフェの命を繋ぐために」


 溶岩が放つほの暗い赤に染め上げられた夜空を青い燐光で塗り替えながら悠々と宙を舞っていたのは、長大な白銀の龍だった。神域の空を埋め尽くしてなおあまりある巨体をくねらせた水龍は、黄金こがね色に輝く瞳でその場にいる人間を睥睨へいげいする。そのひと睨みで腰が抜けたのか、橋のたもとで右往左往していた人間の何人かがヘタリとその場にくずおれた。


「だからリーフェ側の問題を他の何かで補う事ができれば、俺に水龍の力を注ぎ直す事だって出来る」


 そんなアクアエリアの国守の神を従え、ハイトは静かな瞳でカティスを見下ろした。


「お前に勝ち目はない、ボルカヴィラ王太子。馬鹿な野心は捨てて、さっさと玉座を正しき者へ返還する事だ」


 炎狼ヴィヴィアスの神域が水龍の力で上書きされていく。世界で一番炎狼の力が強まる場所が、他国の神の領域に染め替えられていく。


 徐々に冷えていく空気は分かりやすく炎神が水神に押されていることを示していた。これは明らかにそれぞれの力を振るう者の格の違いだ。この場に参列している貴族はカティスの腹心ばかりであるはずなのに、その貴族達さえカティスの不利を覚って逃げを打とうとしている。


 ──ハイトがわざわざ水龍を召喚したのは、分かりやすくカティス側の貴族をおどすため?


 カティスにおもねることで甘い汁を吸ってきた貴族達だって自分の命は惜しいはずだ。その危機を分かりやすく突きつけることで、後に現れる真の王への忠誠に変えようと言うならば……


 サラはチラリとハイトに視線を送った。それに気付いたハイトがカティスから視線をそらさないままギュッとサラを抱く腕に力を込める。ハイトからの返事を受け取ったサラはコクリと小さくあごを引いた。


「今なら炎狼もお前の命くらい、見逃してくれるだろうよ」

「……黙れ」


 フツリと、静かにカティスが呟いた。


 一瞬静まり返ったカティスは次の瞬間殺気を爆発させる。


「黙れ黙れ黙れっ! 俺は正しき王だ! 国も神も俺の物だっ!!」


 怒りのままに周囲の空気を燃え上がらせるカティスを見てもハイトはひるまなかった。ハイトに支えられたサラも怖気おじけづくことなくキッとカティスを睨みつける。


 そんな二人の姿に、カティスの中で何かが切れる音をサラは聞いた。


「従えないならば全て燃え尽きろっ!!」


 グワリと熱が躍る。カティスを中心に炎が燃え上がり、そのすべてがサラとハイトに向けられる。


「煉獄に沈めぇぇぇっ!!」


 特攻とも言える攻撃を目にしたハイトはサラを抱えたまま岩橋から身を投げた。そんなサラとハイトの体を救い上げるかのように水龍の体がうねる。


 そしてカティスの攻撃は、新たに降り注いだ真紅の燐光が受け止めた。


「な……っ!?」


 真紅の燐光はカティスの攻撃を真正面から受け止めるとカティスの体を弾き返した。カティスが無様に尻もちをつきながら燐光を見上げれば、弾けた燐光の中から獣の巨体が姿を現す。


 それは、燃えるような赤毛をまとった狼だった。肉食の獣の姿を取りながら貴婦人のような知性を金の瞳に宿した狼は、カティスを睥睨してからスッと体をかがめる。


「お初にお目に掛かります、いとこ殿」


 その背から、フワリと少女が舞い降りた。


 柔らかく翻る赤毛は真紅の燐光をまといルビーのように輝いていた。知性が煌めくアメジストの瞳は怒りに狂うカティスを見ても強さを失わない。


「私の名前はエルザ。先の王の娘、エリシアの血を引く者」


 新たにまとった緋色のドレスを翻し、『炎天ヴィヴィアス・の狼ヴィル・ボルカヴィラ』を首にかけ、炎狼を従えたエルザは、神域中に響き渡る声で名乗りを上げた。


「私と炎狼の玉座、今ここで返していただきます!」

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