王子様が告げる、終章の開幕

 何が自分の意識を外へ向けたのか、すぐには理解することができなかった。


「……雨?」


 ポツリ、ポツリと躊躇ためらうように降りだした雨が自分の頬を叩いたからだと知ったのは、目の前に立つ神官が信じられないという表情で空を見上げたからだった。


「なぜだ……ここは『炎狼ヴィヴィアス』の神域であるはずなのに」


 祭壇は溶岩が煮えたぎる火山口に張り出した岩橋の突き当りにしつらえられていた。ここに立っているのは花嫁であるサラと花婿であるカティス、そして式を進行する神官だけだ。橋のたもとには側近と思われる貴族達が控えているが、ボルカヴィラ王太子成婚の儀だというのに参列者はあまりにも少ない。


 サラは周囲に視線を走らせて、自分が置かれた状況を確かめる。


 サラの身を包んでいるのは簡素な町娘風のドレスではなく、見ているだけで暑苦しくなりそうな深紅の豪奢なドレスだった。髪飾りがふんだんにあしらわれているのか、妙に頭が重い。のどを焼くほどに熱された空気と相まって頭が痛くなりそうだ。


 そんなサラをなだめるかのように、冷えた雫が絶え間なく滴り落ちてきていた。始めは熱に押されて水蒸気となり消えていた雨は、やがて周囲の空気を冷やし、しとしとと確かに地面を濡らし始める。


「何をしている。お前は何も気にすることなく、己の職務だけをまっとうすればいい」


 サラが周囲に視線を走らせている間に、雨粒は豪雨に成長していた。橋の袂に控えていた参列者達が悲鳴を上げながら右往左往しているのがサラの元まで伝わってくる。


 だがそんな中、サラの隣に立つカティスだけが平然としていた。濡れて貼りつく前髪を鬱陶しそうにかき上げたカティスは、うっすらと口元に笑みを浮かべて神官を見下ろす。


「成婚の儀が終われば、これは俺の物。何があろうともその事実は覆されない」


 その言葉に、はっとサラは我に返った。


 ボルカヴィラ王宮で目を覚ましてからこの場に立つまでの間の記憶はひどくおぼろげだった。自分のせいで殺されてしまったハイトの最後の瞬間を思い出しては涙に暮れていたような気がする。何をされても、どのように扱われても興味は湧かず、日付感覚さえ曖昧なまま、流されるようにここまで来てしまった。


 ──何やってんのよ私は……っ!


「ふざけないでっ!! 私は誰の物でもないっ!! 私はこんな結婚、お断りよっ!!」


 サラは、フローライトの王女だ。唯一の直系姫だ。


 目の前で何が起きようとも、心を閉ざして自分の殻に閉じ籠るような真似が許されるはずがない。今の自分の肩にはフローライトの民の命と『詞梟ミネバ』の命運が乗っているのだから。


 突如としてサラの頬を叩いた雫は、土壇場でサラにそのことを思い出させてくれた。


「これ以上、茶番になんか付き合っていられるもんですかっ!」


 今更逃げ出すことはできるか。どうすればここからご破産に持っていけるか。


 サラは必死に頭を回しながら声を張り上げた。突然自我を取り戻したサラに驚き顔を跳ね上げる神官に向かって、サラは外した黒レースのロンググローブを投げつける。


「私はこんな男と結婚なんかしない! しないったらしないっ!!」


 サラの手から放たれた手袋はまたたく間に水を吸うとべシャリと神官の顔に貼りつく。


 その様を見てからようやく、サラは自分だけが雨に濡れていないことに気付いた。最初に頬を叩いた雫が触れただけで、周囲が濡れ鼠になっている中、サラの髪とドレスだけがふんわりと雨の景色の中を躍っている。


 ……こんなことが、ちょっと前にもあったなと、思い出した。


「私は結婚証明書にサインなんて絶対しないわよっ! サインさせられるくらいなら、ここから火口の中に飛び込んでやるんだからっ!」


 その瞬間、左の手首にポウッと温もりが宿った。もしかして、と思ったサラは左腕に残っていた手袋を投げ捨て、自分の手首を確かめる。


 そこにはこのドレスには似つかない、安っぽいリボンが巻かれたままになっていた。花の形に結ばれたリボンの中心には、小さな淡青色の宝石が輝いている。


 その宝石が今、青い光を灯してチカチカと明滅していた。


「ハイト……?」


 短い間しか行動をともにしていないのに、『懐かしい』と感じる気配が確かにそこにあった。


「生きて……?」


 サラが思わずこぼした言葉を聞いていたかのように、突然降り出した雨は降り出した時と同じくらい唐突にやんでしまった。


 雨のカーテンが消えた神域は、何かの登場を待つかのように静まり返っている。冷やされた空気は凛と張り詰め、心なしか先程よりも澄んでいるような気がした。


 そう、まるで。神が降り立つ瞬間を待っているかのように。


「アクアエリアにおいて国儀の際の雨は吉兆だが、ボルカヴィラでは凶兆のあかしなんだそうだな」


 その静寂を引き裂くかのように、凛と声が響いた。


「今まで一度もそんな凶兆が起きた事はないらしいが、万が一起きた時には全ての儀式は中止。儀式中に交わされた誓約は、全て白紙に返されるらしいじゃないか」


 振り返る。


 火口に張り出した岩橋の上。どん詰まりにいるサラ達と袂にいる参列者達のちょうど中間地点。


 そこにこの場にあるはずがない……あってはならない色を引き連れて、一人の青年が立っている。


「そうなんだろう? ボルカヴィラ王太子」


 まるで神の遣いであるかのように神々しく。まるで世界の支配者であるかのように堂々と。


 たとえ衣で姿を隠していたとしても、その圧倒的な気配は隠し通せるものではない。


「婚儀は白紙に返った。そして俺は、婚約自体も白紙に返す」


 この場にいる者の視線を余すことなく集めた青年は、頭からかずいた衣を流れるような所作で払い落とした。


 柔らかくそよぐ涼風が高くひとつにくくった黒髪を翻し、その下にある瞳を淡い光の中にさらけ出す。


 その色を見たサラは思わず息を呑んだ。


「アクアマリン……!」


 そこにあったのは、まさしく宝石と呼ぶにふさわしい、淡青色の瞳だった。


「アクアエリア第二王子、ハイトリーリン・ミスト・フレイシス・リヴェルト・アクアエリアの名において、この婚儀に異議を申し立てる!」

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