※※

 晴れ渡った夜空を見上げ、ハイトは深く息を吸った。


 王都手前の町と、王都の間。周囲には何もない、小高い丘の上だった。


 こうやって闇の中で深く呼吸をしていると、このまま空気の中へ溶けていけそうな気がする。


「ハイト、そろそろ」


 そんな空想に浸るハイトを、背後から密やかに響いた声が現実に引き戻した。


「全てお前の指示通りに手配させた。後はお前が動くだけだ」


 ハイトが振り返ると、アクアエリアの重鎮達が顔を揃えていた。


 いつも通りの笑みを浮かべるヴォルト。珍しく心配そうな表情しているリーフェ。そして、表情のない顔を向けているイーゼ。


 三人とも違う表情を浮かべているのに、ハイトを見詰める瞳だけは三人ともが真剣だった。


「……本当に行くの? ハイト」


 その中から、リーフェが一歩前に踏み出した。どこまでも心配性な従者にハイトは笑みを閃かせる。


「ああ」

「本心から、それを望んでる?」

「ああ」

「イーゼ様が作った厄介事を押し付けられていて、たとえこの厄介事を解決してもハイトの功績にはならないと分かっていても?」

「……ああ」


 言葉少なく答えながら、ハイトは一行の元へ歩み寄った。その途中、イーゼの前で一度足を止める。


「兄上、一つだけきたい事があるのですが」

「……何だ?」


 イーゼの表情は動かない。ハイトはイーゼに向き直ると、正面からイーゼの瞳を見詰める。青を溶かしこんだ藍玉アクアマリンの瞳に、自分の銅藍コベライトの瞳が映り込んでいるのが見えた。


「兄上が俺を表に出さないのは、俺を守るためですよね?」


 その言葉に、イーゼがわずかに目を見開いた。


 イーゼがハイトの手柄を横取りしているとリーフェは言った。だがハイトは、そうではないと思っている。


 確かに普段ハイトに回されてくる仕事は雑事や裏方仕事ばかりで、華やかで美味しい所は全てイーゼに任されている。


 ハイトが夜会や外交といった表舞台に出ることはほぼないし、式典などの公式行事でのハイトの立ち位置はいつも兄や父に埋もれた後ろ側だ。そんな自分に各国があることないこと好き勝手に言っていることも知っている。


 いっそ不自然なくらいに……もはや国の恥とそしられてもおかしくないくらいに、父や兄はハイトを表舞台に出してこなかった。


「な……っ!? 何を言ってるのさハイトッ!」

御人好おひとよしにも程があるだろ」


 リーフェが眉を吊り上げ、ヴォルトが不審を顔に出す。アクアエリア王宮がハイトにしてきた諸々もろもろの諸行を間近で見てきた二人は、そんな風に簡単に周囲を許すことなど出来はしないのだろう。


 だが。


「『水繰アクアリーディ』の力を失った俺を、父上と兄上は切り捨てなかった。本来ならば、そうしてしかるべきなのに」


 いっそハイトを表に出してハイトの状況を各国要人に見せてしまえば良かったのだ。そうすればここまで派手に噂を流されることもなかった。面白可笑おかしくアクアエリア王家が笑われることはなかったはずなのだ。


 それでも、父と兄がそうしてこなかったのは。


「力を失っても『水龍シェーリン』の声が聞こえる俺を……力がない癖に次期国王たる資格を持つ俺を……、いや、己を守る力はない癖に『神の器』として利用価値だけは残った俺に、各国が目を付けないように、あえて俺の姿を表舞台から下げたのではないですか?」


 ……噂話に興じて面白可笑しくハイトを笑っていた人間は、誰もハイトの正しい状況を知らない。


 ハイトの『水繰』の力はほとんど失われた。だがそれはリーフェにった邪神を『水龍』の力で押さえ込むため。ハイトという器に流れ込んでいた『水龍』の力の注ぎ先をリーフェに付け替えたというだけだ。


 ハイトの『神の力を受ける器』は、昔と何ら変わっていない。中の水が枯れただけで、力を注げばハイトリーリンという神の愛子いとしごは受け切ることができる。


 アクアエリア第二王子が、史上類を見ないほどに国守くにもりの神に愛された存在であったことは、皆もう過ぎ去った過去のことだと思っている。


 そう思わせるように、国王と第一王子が全てを賭けて守ったからだ。


「お前は……」


 父も兄も、そんな事を一言も口にしたことはなかった。


 力を失ってから今まで、自分達が日陰に置かれてきて、助けの手がどこからも差し伸べられなかった事もまた事実。自分は自業自得だからいいとして、リーフェとヴォルトだけでも助けて欲しかったという思いだってある。


 それでもハイトは、自分から父と兄を嫌いにはなれなかった。


「……ほんっとうに、勝手に優しい子に育って」


 クシャリと、泣き出しそうな顔でイーゼが笑う。


 そう思った瞬間、いきなり視界を奪われた。


「わっ!?」


 慌てて頭に手を伸ばせば、柔らかい布地の感触が伝わってくる。必死に手繰り寄せて頭を出せば、ハイトに投げ付けられたのがイーゼが外套代わりにまとっていた大袿おおうちぎだったということが分かった。


「真に『水龍』に愛された者を庇護し、玉座に座るその瞬間まで導き、指導するのも、我らアクアエリア王族の責務だ」


 声に視線を投げれば、すでにイーゼははるか彼方かなたまで歩を進めていた。そんなイーゼが途中でチラリと視線を投げてくる。


「そうじゃなくても、お前は俺の可愛い弟だからな」

「え……っ!? ちょっ、兄上っ!?」

「持ってけって事だろ。空の上は寒いからな」


 イーゼの行動の意味が分からず戸惑うハイトの後ろで、ヴォルトはどこかあきれた口調で呟いた。振り返ってみればヴォルトは出来の悪い弟を見るような表情で去りゆくイーゼに視線を送っている。


「普段はリーフェ並に内心を覚らせない癖に、こういう時はほんっと不器用なんだからあの王子は……」

「僕とあの剽軽ひょうきん王子を一緒にしないでくれる?」


 リーフェは不機嫌に言い捨てると、ヴォルトを押し退けてハイトの前に立った。


 リーフェはどんな理由があろうとも、イーゼのことが気に入らないらしい。王宮にいる時はいつも綺麗に隠している癖に、今は周囲を気にしなくても良いせいか顔一杯に『まったくあの人騒がせ王子が』という表情が浮かんでいる。


 だがリーフェはハイトの瞳を見上げて、今はそれを論じる場ではないと思い出したようだった。スッと不機嫌そうな表情が消え、真剣な光が淡青色の瞳を満たす。


「首飾りと腕輪、きちんと付けてるよな?」

「もちろん」


 リーフェは袖の中に隠された腕を伸ばして両の手首にはめられた銀の腕輪を示すと、そのまま両手を伸ばしてわずかに襟元えりもとを緩めた。衣の下に隠されていた首飾りは腕輪と揃いの意匠で、銀の優雅な台座の上に小粒の藍玉アクアマリンがいくつもあしらわれている。


 腕輪と首輪に散らされた藍玉アクアマリンは、全てハイトの血から作られた王藍玉リラ・アクアマリンだ。リーフェが十五歳で成人の儀を受けた時にハイトが贈った装飾品は、リーフェに依った邪神の力を押さえる効力を持っている。万が一『水龍』の加護がリーフェから外れても、短時間ならばこれで邪神の力を抑えることが出来るはずだ。


「……大丈夫か?」


 ハイトがリーフェにこの首飾りと腕輪を贈ったのは、少しでもリーフェが命の危機にさらされる危険性を減らしたかったからだ。


 リーフェに宿った力は、本来人間という器に納まる物ではない。抑えとなっている『水龍』の加護が外れた瞬間から邪神の力は容赦なくリーフェという器を削る。


「……ハイトは優しすぎるよ。命じてくれても構わないのに」


 それを分かっていながら今から自分が行うことに、ハイトは思わず瞳を細める。


 そんなハイトを見て、リーフェは苦笑を浮かべた。リーフェがハイトとヴォルトくらいにしか見せない、少しだけ泣きそうな表情を含んだ笑みだった。


「元々、『水龍』が愛しているのは君だもの。この加護は、いつだって君の物。僕はいつだって、喜んで『水龍』を君に返す」


 リーフェは胸の前で水を掬うように手を組むと、そっとハイトの方へその手を差し出した。リーフェの手の中にはいつの間にか『水下シェーリン・ハラルの龍・アクアエリア』が乗せられている。


 ハイトはその手を数秒見詰めてから、そっと自分の手を重ねた。


「……命令だ、リーフェ。俺が全てを片付けて帰還するまで、無事でいろ」

「拝命つかまつりまして御座います、我が殿下」


 その答えに触発されたかのように、ハイトの手の下で『水下の龍』が熱を帯びた。


 その中に慣れ親しんだ波動が揺らめいているのが分かる。清水が杯を満たしていくかのように、己の中に力が満ちていくのが、分かる。


御前ごぜん


 その力の奥底へ、ハイトは静かに呼び掛けた。


 ブワリと体が吹き飛ばされそうな風が二人を中心に吹き荒れる。乱れ舞う黒髪の下で、藍玉アクアマリンの瞳が銅藍コベライトへ、銅藍コベライトの瞳が藍玉アクアマリンへ色を変えていく。


 ハイトは本来の色を取り戻した瞳を夜空へ向けると、大きく右手を振り抜いた。その瞬間、二人を取り巻いていた風が一気に夜空へ駆け上る。淡い青色の燐光を纏った風は、遮る物のない空の中で本来の姿を現した。


『久しいな、ハイト』


 夜空に悠々と身を横たえおごそかな声でハイトの名を呼んだのは、白銀の長大な龍だった。


 水神の王にふさわしい高雅な巨体に淡青の燐光を纏った水龍は、いかめしい顔を地上へ近付けると親愛の情を示すかのようにハイトへすり寄る。


 その身に纏う空気だけで人をひれ伏させるような圧倒的な存在であるのに、ハイトの手の下で気持ち良さそうに瞳を細める様はまるで気紛きまぐれな猫のようだ。


「こうやって直接話すのは、ほんとに久し振りだよな、御前」


 そんな水龍にハイトも親愛をにじませた笑みで答えた。


『ハイトリーリン』の愛称を『ハイト』に決めたのは、水龍だったそうだ。


 ハイトはおぼろげにしか覚えていないのだが、水龍は身内の誰よりも熱心にハイトの世話を焼いてくれたらしい。


 周囲は手の掛かるイーゼに振り回され気味で、ハイトを構っていられる余裕はなかったという。そんなハイトをあやし、見守り、時に誰よりも過保護に養育したのがこの水龍だった。


 周囲にとっては伝説の中の存在で、王でさえ声を聞くのがやっとで姿を見ることなどほぼないと言われているのが国守の神だ。そんな中で水龍は、ハイトにとっては誰よりも馴染み深い保護者だった。あの日、リーフェの命を永らえるためにハイトがとんでもない我が儘を口に出来たのも、水龍とずっとそうやって共に生きてきたからだ。


 国の守り神が子守りをした人間など、世界広し歴史深しといえどもハイトくらいしかいないだろう。


 ──そんな当たり前の事さえ力を失ってからしか理解出来なかったんだから、俺は本当に周囲に甘やかされてきたんだよな。


 そんな風に生きてこられた自分を、ハイトは幸せ者だと思う。こんな自分を裏表なく支えてくれてきた人達に、誠実でありたいと思う。


『リフェルダを通して聞いていた。お前の望みは我の望み』


 そんな事を思うハイトの前で、水龍はグッと頭を下げた。ハイトにこうべを垂れるかのように身を低くした水龍は、性別を感じさせない厳かな声で続ける。


『乗れ。あまり長くは離れていられない』

「恩に着る、御前」


 ハイトはヒラリと水龍の頭に飛び乗ると、地上に残した腹心二人を振り返った。


 地面に片膝を突いたリーフェは苦しそうに顔を歪めている。だがハイトを見上げる瞳には、強い光と柔らかい笑みが浮かんでいた。それを確かめたハイトは、リーフェを支えるように肩に手を回すヴォルトへ視線を向ける。


「ヴォルト、頼む」

「ああ、任された」

『行くぞ』


 水龍が短く告げた瞬間、鼓膜が悲鳴を上げた。強い風と急激な気圧変化がハイトの体をなぶる。


 顔を庇うために上げた腕を外した時、ハイトはすでに空の遥かな高みにいた。気が遠くなる程遠い足元にある町は暗闇の中に沈み、家々の灯りだけが星のように輝いている。まるで二つの空の間を泳いでいるようだと、こんな時なのにハイトは目の前の光景に感嘆していた。


 ──サラにも、見て貰いたかったな。


 あの好奇心旺盛な姫ならば、どんな反応を示しただろうか。


 こんな時なのに、不意にそんな場違いな事を思った。


詞梟ミネバの姫の所に向かえば良いのだな?』

「ああ、頼む」


 無駄を省いた水龍の確認にハイトは思考を切り替えると短く答える。そんなハイトに水龍も端的に告げた。


『承知。振り落とされるなよ』

「了解」


 水龍の体が風を切りながら舞う。


 ハイトの眼前には、不気味な赤い光に満たされた山々が見え始めていた。

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