一瞬、その声に時が止まったかと思った。


「う、そ……」


 サラは体に走る痛みを忘れてハイトの方へ身を乗り出した。瞳はハイトに絡め取られたまま動かせない。水面に燃え盛る炎がサラの髪をはためかせる。


「だって……ハイトの力は……」


 直系王族と呼ぶにはあまりに微弱で、はとこに当たるリーフェは不自然なくらいに力が強くて。


 だって、おかしいではないか。ハイトが直系でリーフェが傍系であるならば、なぜハイトの力は弱いのにリーフェがあんなに強大な力を振るえるのか。アクアエリア直系の瞳はアクアマリンのように薄い色味になるはずなのに、ハイトの瞳はあんなに濃い色を湛えているのか。


 ハイトは傍系でリーフェは直系。そう考えればすべて納得がいくのに。


「ははっ……はははっ、ははははははっ!!」


 突然知らされた事実に愕然がくぜんと目を見開くサラの後ろで、カティスが狂ったように笑い声を上げた。


「お前がそれを主張するのかっ! 王族として欠陥を抱えたお前がっ! アクアエリアで一番王族らしくもないお前がっ! まだロベルリン伯が権利を主張した方がまともに聞こえただろうよっ!」

「欠陥……?」


 きたくないのに、疑問を呈する声を留めることができなかった。そんなサラの声にカティスが瞳をギラつかせる。


「そうだ。こいつは決定的な欠陥を作っちまったんだよ。愚かなことに、自分からなぁっ!」


 他人ひとの瑕疵を嘲笑うカティスは、下町のゴロツキのように下卑た声を上げていた。今まではまだ綺麗に隠せていた方で、これがカティスの本性だったのだろう。


「そうだ、お前は知らないんだったなぁ、アヴァルウォフリージア姫。せっかくだ、俺が直々に聞かせてやろう、馬鹿な男の話を」


 そのままの口調でカティスはベラベラと言葉を続けた。サラを力で押さえつけ、ハイトを上から見下したまま。


「アクアエリア第二王子といえば、昔は王族一『水龍シェーリン』に愛された存在だと言われていた。王子が指を振るだけで、国中に雨を降らせることができるとまで言われていたんだ。あのまま成長していれば、玉座は間違いなくこいつの物だっただろうよ」


 カティスの口から勝手に過去を暴かれているというのに、ハイトがそれに口を挟むことはなかった。燃え盛る炎の向こうにいるのか、ヴォルトもリーフェも、ボルカヴィラの兵士達の姿さえ見えない。


「同じ頃、アクアエリアの王宮には化け物がいた。傍系王族が浅ましい考えで生み出しちまった化け物だ。そいつの両親は己の子供を贄に、『水龍』とはまた違う水神を降ろし、玉座を己の物にしようとしたのさ。いわゆる邪神降ろしだ。俺達と似たようなことをしでかそうとした輩が、一昔前のアクアエリアにもいたってことだ」


 結果から言えば、他神は降りた。だがその子供に流れる薄い王族の血では、他神を抑えることなど到底できなかった。そもそも神側から契約を持ちかけたならまだしも、人間側から呼びかけてまともな神が応えるはずがない。


 贄の子供に降りたのは、人の世を水で溢れさせ、己の眷属の住処すみかと成そうと目論んだ邪神であった。


「血に見合わぬ力を持っちまったその子供は、力を暴走させるだけの殺戮兵器になっちまった。邪神を儀式で返すことは難しいと判断したアクアエリア王は、その子供を王宮の尖塔のひとつに閉じ込めた。鎖で体をいましめ、誰も近付けず、食事も与えなかった。そうすればいずれ幼子は勝手に死に、依代よりしろをなくした邪神は元の世界に還るしかないからな。被害最小限で乗り切れると踏んだんだろうよ」


 だが子供は月日が過ぎても生きていた。幼子おさなごの体に降りた邪神は、その子供に尋常ならざる力を与えていたのだ。


 だが依代はあくまで人の子供。しかも生後数年の幼子だ。刻々と日々が過ぎゆく中で、徐々に贄の幼子は弱っていった。


 それを幼子に依った邪神は察したのだろう。


 塔に封じられて数年の歳月が過ぎたある日、邪神は最後の抵抗とばかりに力を爆発させた。


「封じの塔が破壊されて邪神が自由になれば王宮どころか国の危機だ。全員死んじまう。そう考えたアクアエリア王は、王族一の力の遣い手である第二王子をその化け物の元に送り込んだ」


 第二王子。今は『水繰アクアリーディ』の力をほとんど有していないハイトは、かつてはアクアエリア王族一の水遣いだった。


 きっとハイトは、昔から絶望的に優しすぎたのだろう。


 そんなハイトが、自分の血縁である幼子と邂逅かいこうして、簡単に幼子を殺せたとは思えない。国の民の命がかかっていたならば、両方を救う道を選んだはずだ。


 その決断の結果、自分が苦しむことになろうとも。


「だがそこで、第二王子は馬鹿なことをした。相手が自分の年下のはとこなのだと知った第二王子は、その化け物を殺すことができなくなったのさ。第二王子は、何とか哀れなはとこを救えないかと考えた。そして自分を守護する『水龍』におうかがいを立てた。『どうしたらこの子を救うことができますか』ってな」


 それは一体いつの話だったのだろう。そんなに幼い頃からハイトは『水龍』と意思疎通が取れていたのか。ハイトは生まれながらにして国守の神に愛され、次期国王候補に指名されていたということか。


「『水龍』の答えは残酷だった。『お前が持つ力の全てをこの者に分け与えろ。さすれば我がこの者の中に宿る力を御し、正しく扱えるように導いてやろう』……そう言ったのさ」


 ……そのすべてを投げ出して、ハイトは幼子の命を救ったというのか。


「馬鹿な王子は簡単に答えを出した。力を全て化け物にくれてやったのさ。普通はそんなことするわけねぇのになぁ? 玉座と王族として己が持つ権威。その全てを投げ打ってまで救う価値が、そいつにあるわけねぇっつうのになぁ!」


 サラも力を持つ王族という立場にあるから、ハイトがどれだけ大きなモノを失ったかが分かる。


 王族は力が全て。たとえ王の実子であっても、力を持たない者は王家の一員として認められない。


 ハイトの場合はそれだけではない。


『水龍』の寵愛深き王子。それまで王族一の遣い手と言われ、次期国王とまで見なされていたハイトにとって、力を失うことは何よりも恐ろしいことであったはずなのに。


「それだけじゃ話は終わらねぇのよ。何を考えたのか、王子はその化け物をまるで実の兄弟であるかのように世話を焼きだしたんだ」


 ここまで話を聞けば嫌でも分かる。


 これはハイトとリーフェの物語だ。


「笑えるじゃねぇか。王子のアクアマリンの瞳は化け物に、化け物のコベライトの瞳は王子に。王子の力は化け物に、化け物の力はさらに強くなって化け物に。王子の権威は化け物に、化け物への侮蔑は王子に」


 歌うように紡がれるカティスの声を聞きながら、サラは社交の場でまことしやかに囁かれるアクアエリア第二王子の噂を思い出していた。


 王族と呼べないくらい『水繰』の力が弱い。人嫌い。人前に出られないような醜い姿をしている。化け物を子飼いにするような魔王子である。


 噂は、部分的には事実を言い当てていたのだ。


「王子が失ったモノは、全てその化け物に譲り渡された。普通は憎むだろ? そんな者の世話を必死に焼いてやるなんて、頭がとち狂ったヤツしかいねぇだろうよっ!」

「俺の頭が狂っている事は認めるが」


 カティスはゲラゲラと、まるで下街のごろつきのように笑った。だがその下卑た笑い声は、涼やか声にかき消される。


「リーフェの命に価値がなかったとは、言わせない」


 静かなのに、人の耳目じもくきつけてやまない、清涼な力のある声だった。


「命の重さは、皆平等だ。どれも等しく重い。俺のちっぽけな権威や力なんかよりも、ずっと」


 その言葉にサラは目をみはる。


 炎に巻かれ、生殺与奪の権を完全にカティスに握られる形になっているというのに、ハイトの瞳に絶望はなかった。それどころか、その暗い色彩の瞳には、禍々しい炎の灯りを弾き返すくらい強い光が宿っている。


 その強い意志は、まだカティスなんかに折れてはいない。


「俺は、リーフェを助けた事に、後悔なんてしていない。これからする事もない」


 決然とした声に、カティスは顔を朱に染めた。侮辱したはずの相手に真正面から切り返されたことが、彼の中に激しい怒りを生んだらしい。


 カティスはバッと腕を振り上げると金切り声で叫んだ。


「だったらその結果に殺されちまえっ!! アクアエリアの馬鹿王子っ!!」

「ハイト……っ!!」


 サラが取られていない手を伸ばす先で炎が噴き上がった。水面下でくすぶり続けていた炎が一気に爆発したのだと理解した時には、目の前に炎の壁ができている。水を湛えていたすり鉢の底は、炎が荒れ狂う地獄に姿を変えていた。


 この中で人が生きていられるはずがない。ハイトにはもうほとんど力が残っていなかった。この炎を防ぐ手立てはない。


「はい……と…」


 カティスの腕がサラから離れる。束縛から逃れたサラは、肩の痛みさえ忘れて炎の壁へ這って進んだ。


 目の前の光景が信じられなくてそっと手を伸ばす。だが体を叩く炎の熱はサラに容赦なく現実を突きつけていた。


「こんな状況になっても後悔できないなんて、本当にただの馬鹿だな。力が使えないだけでなくオツムのデキまで弱いなんて、いっそ哀れなくらいだ」


 不意に視界が歪んだ。頬を何かが流れていく。ひどく息が苦しくて、いっそ死んでしまった方が楽かと思えるほどの痛みが胸に走る。


「さて、これで邪魔者はいなくなった」


 トンッと首に衝撃が走った。まぶたが勝手に落ち、体中の力が抜けていく。


「お楽しみは、ボルカヴィラ王宮まで取っておくことにしよう」


 意識が闇に溶けていく。


 サラを抱きしめてくれるあの優しい腕は、もうどこにもない。

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