3
ハイトの瞳は、コベライトの色を失っていた。
若干藍色がかった黒。黒髪黒眼の人間が多いアクアエリアならば、ごく普通に見かけそうな色。力を持たない、ただの人の色。
石に込められているのは、ハイトの力だ。ハイトはただでさえ少ない力を、惜しげもなくサラへ分け与えてしまったらしい。瞳の色が変わったのは、その証拠。おそらく今のハイトにカティスと戦えるだけの力はない。
「ハイト……っ!」
血の気が引いた顔で叫ぶサラに何も答えず、ハイトはサラから離れた。そのまま体が濡れるのも構わず水の中へ足を踏み入れ、己の歯で噛み切って傷をつけた指を流れの中に浸す。
「我が血を呑んだ神の従僕よ、汝が喰ろうた
ハイトが凛と紡いだ詠唱に、ザワリと洞窟の中の空気が鳴動した。波紋を作りながら流れていた水がピタリと動きを止める。
それを見たハイトは、色を変えてもなお鋭く光る瞳をわずかに細めた。口元にうっすらと
「信じてるぜ、お前ら……っ!」
サラの耳でもわずかにしか拾えなかった言葉は、常に行動をともにする彼らに向けられた言葉だった。
「キャサリン、リーフェ、ヴォルト……っ!!」
サラはもう、祈ることしかできない。
ハイトは優しすぎる。そして決して己の信念を曲げない人だ。
サラがもう何を言っても、ハイトは止まらないだろう。ハイトは自分はどれだけ傷付いても平気なくせに、身近にいる人が傷付くのを黙って見ていることができない。己の中に強い芯があるくせに、どこまでも他人の痛みには弱い人。
今のサラにできることは、せめてハイトを苦しませないように、全力で己の身を守ることだ。ハイトのことは、ハイトの身を守れるほどの技量を持った仲間達が早く駆けつけてくれるようにと、祈るしかない。
──私だけが逃げ回るわけにはいかない。
サラはドレスの上から母の形見に触れると、腕を後ろに回して鎖を外した。細工も優雅なチェーンを手繰り寄せて、右手に首飾りを握り込む。
──私の身元が割れようが、国際問題になろうが構わない。……命の恩は、命をかけて返すわ!
「今だ! 行け、サラッ!!」
サラは覚悟を決めると全力で地を蹴った。鏡のように凪いだ水面に足を乗せると、まるで地面を走っているかのように滑らかに足が動く。
最後のカーブを抜けると出口はすぐ目の前だった。洞窟が大きく口を開いた先は、周囲の地面がすり鉢状に開けた湖になっている。
ハイトが言っていた通り日が沈みつつあって外も洞窟の中と変わらず暗かったが、崖の縁を囲うようにズラリと並んだ兵が掲げる松明の灯りで周囲は目がくらむほど明るい。
その中にギラリと不穏に輝く矢じりが並んでいることにサラは一目で気付いた。その先にもパッと炎が灯る。
「射て」
冷酷な声が
それでもサラが怖気づくことはなかった。
「
首飾りを握りしめた手を宙へ滑らせながら古い言葉を口にする。その指先から琥珀の光が舞い、暗い夜空をキャンバスに古いスペルが綴られた。
「『
一度宙に刻まれた言葉は、次の瞬間パッと散ると琥珀の光で形成された壁になった。光の壁に阻まれた火矢はサラに到達することなく水面に落ちていく。
──やった!
言葉に実体を与えるのが『
「御身、
『この調子でどんどん行くわよ!』とサラは身構える。だが息をつく間もなく放たれ続けていた火矢は防壁のさらに向こう側をうねった水面に飲み込まれた。
「ハイト!」
サラを庇うようにハイトが滑り込んだ瞬間、火矢の嵐が止まる。
「ほう……欠陥品の王子でも、そんな芸当ができるんだな」
──ハイトの力は温存しといた方がいいはずなのに……!
サラは内心で悔しさを噛みしめる。
そんな二人の視線の先にゆったりとカティスは姿を現した。臣下を従えて崖上に立つカティスは、もはや勝負は決まったとばかりにハイトに
「そっちが俺に相当な量の血を流させてくれたお陰でな。いつもは使えない芸当も使えるようになってんだよ」
「それは上々」
ハイトの皮肉をあっさり流したカティスは、パチンッと指を鳴らした。それを合図に弓兵が一斉に火矢を構え直す。
「この矢に灯されているのは、俺の力で生み出された炎だ。ただの水では消せない。そう……お前が操る水ではな」
それを見たサラはとっさに右腕を構えた。ハイトがそれとなく周囲に視線を配っているのが分かる。
「お前がどこまで耐えきれるか、ひとつゲームに興ずることにしよう」
その言葉と同時に火矢の嵐は再開された。サラの腕が振り上げられ、ハイトが足元の水から刀を作り出して構える。
「……っ! ハイト、いつまでも耐えられるわけじゃないわよっ!?」
「分かってるっ!」
炎は書きつけられた文字を燃やして無効化する。サラが作り出す障壁でしばらくは火矢を防ぐことができたが、雨あられとばかり降り注ぐ火矢に防壁はあっという間にかき消された。
──ハイトはこれを分かってたってこと!?
サラはそれでもめげずに『詞繰』で繰り返し壁を作り出す。その
「そろそろ限界か? ん?」
数分もすると矢がサラ達の体をかすめるようになっていた。火はかろうじてハイトが押さえてくれているが、サラの障壁が間に合わなくなってきている。
──一体どれだけ火矢と弓兵を用意してきたのよ!? 性格悪いにも程があるんじゃないっ!?
いっそそう叫べたらと願いながらも、サラは奥歯を噛み締めて『詞繰』を振るい続ける。
「諦めてさっさとハリネズミになればいいんだ。麗しの姫をこちらに渡せば、お前はただのハリネズミになるだけで許してやろう。もしくは一瞬で焼き殺される方が好みか?」
「どっちみち、俺は殺されるんじゃねぇか」
カティスがハイトに声をかけたせいか、攻撃が止まった。
ハイトはヒョンッと一度水刀を振るうと、カティスに向かって刃を構える。サラはその背で息を整えていた。母の形見を握る右腕は感覚が鈍くなってきている。
「なぜそこまでサラに
「こだわるに決まっているだろう? 彼女は俺の
「許嫁?」
さすがにサラも、その言葉を聞き流すことだけはできなかった。
「誰が許嫁よっ! 私はそれを承服した覚えはないと言ったはずだわっ!」
「それでも国同士の約定は簡単に翻るものではない。お前は『
その言葉にサラの体が強張る。ハイトが愕然した視線をこちらに向けてきたのが分かった。
今までは、
『詞中の梟』
それは、フローライト王室の至宝。フローライトがフローライトという国として存在するための証。フローライトの至宝を首にかけることが許される姫は、直系王族であるアヴァルウォフリージア姫しかいない。
今の言葉でハイトには、ともに行動してきた『サラ』が『アヴァルウォフリージア姫』であると分かったはずだ。
「……なんだか、予想以上に事態は複雑なようだが」
ハイトの声は、サラが予想した以上に落ち着いていた。
ハイトが何を言うか分からず、顔を伏せたまま体を強張らせることしかできないサラの前で、ハイトは言葉を選ぶようにゆっくりと、だが力強くはっきりと言葉を紡いだ。
「役者の裏事情は、幕を引いた後でも調べる事は出来る」
その言葉にカティスが不愉快そうに眉を寄せたのが分かった。
だがその表情は、すぐに驚愕にとって変えられる。
「この不愉快な劇の幕は、俺の手で引かせてもらう」
場の空気がざわついたのが分かった。だがそれは決してボルカヴィラの兵が立てたざわめきではない。
「容赦はいらない。外交問題は俺が解決してやる。存分に暴れろっ! ヴォルトッ!!」
その空気の鳴動は、たった一人の武人が
「御意。我が殿下」
声が返った時には、すでに五人の兵が水面に落とされていた。鋭い一閃を浴びた兵はどれも一振りで絶命させられたらしく、落ちてきた兵は誰もが無抵抗のまま水中に没していく。
「全て
松明の中に走る光が
「嘘……あれ、ヴォルトなの……?」
長大な刃を振るい、兵の間を駆け抜けるわずかな間で確実に敵を
ボルカヴィラの兵はヴォルトを止めようと弓を捨てて剣を構えるが、それが意味をなす前にヴォルトが振るう刃に斬り捨てられてしまう。反対側の崖に立つ兵が必死に弓を引くが、なぜか放たれた矢はヴォルトではなく味方の胸に吸い込まれていた。ヴォルトが同士討ちを誘っているのだ。
「アクアエリアの
「ごっめぇん! ハイト、遅くなっちゃった!」
カティスが
「怪我してない? 無茶してない? どっちもしてるか! まぁハイトだもんね!」
気が狂っているのかと問いたくなるくらい陽気な声を上げたリーフェは両手に握った銃を器用に操りながら笑っていた。ケラケラと笑うリーフェはいつも以上に陽気なのに、漂う空気は見ているだけでこちらが凍りつきそうなほど冷え冷えしている。
そんなリーフェがふと、笑みを消した。
「しばし御時間頂きます、殿下。殿下をこのような目に合わせた
二人が口をつぐんだ後にあったのは一方的な殺戮だった。
飛び込んできたのはたった二人であるはずなのに、統率された一師団がそのたった二人に圧倒され、総崩れになっていく。目の前で行われているのは命の取り合いなのに、圧倒的に二人が強すぎるせいか、二人の戦いは美しさまで感じさせられた。
──助かったのね……
サラは思わずほっと息をつく。
だが
「クソがっ! 出来損ないどもが勝手なことをっ!」
怒りに顔を歪めたカティスが腕を振り上げる。その瞬間、ザワリと何か不穏な空気がサラの身を撫でた。
「調子に乗るなっ!! この愚民どもがっ!!」
キィンッと耳鳴りがしたのと、ハイトの体が傾いだのはほぼ同時だった。ハイトの膝が水面に埋もれると同時に足元が一瞬で煮え湯と化す。何が起きたのかとサラが足元に視線を走らせた瞬間、水の下から突き上げてきた炎がサラとハイトの間を裂いた。
「っ、キャァッ!!」
さらに追い打ちをかけるかのようにサラの足元が
「っ!? サラッ!!」
遠くからサラの名を叫ぶハイトの声に必死に顔を上げた瞬間、後ろで腕を
痛みをこらえて視線を投げればサラの腕はカティスに取られていて、はるか下の湖面ではハイトが苦しげに胸を押さえながらサラのことを見上げていた。
水面下から燃え上がる炎に巻かれたハイトの顔面は血の気を失って真っ青になっている。ハイトがカティスに力負けしている証拠だ。
──火矢の炎はカティスの『
「ハイト……っぅ!!」
「俺の許婚に、気安く声をかけないでもらおうか」
腕を捻り上げる力を強めながら、カティスは冷たい笑みを浮かべた。ハイトの方へ身を乗り出したサラは、痛みを訴える肩を庇うためにカティスの方へ身を寄せるしかない。下手に動けば肩が外れる。だというのにカティスは、サラに構うことなく腕を絞り上げる力を強めていく。
「……誰が、誰の許婚だと?」
ハイトの声が低く響いた。その声にサラの肩が跳ねる。
だがカティスはそんなことでは止まらない。
「こいつは、俺の許婚だ」
むしろそんなサラの震えを楽しむかのように、カティスは笑みを含んだ声音で、いっそ優しくサラの素性を口にした。
「フローライト国王が娘、『
サラの右手に握られていた『詞中の梟』が指から滑り落ちた。
『詞中の梟』は母の形見だ。
同時にサラの身分を証明する物であり、フローライト王室の至宝である。
サラは今、『詞中の梟』を握り、『詞繰』の力を振るった。
これ以上、サラの身元をごまかすことはできない。
「こいつが『詞中の梟』を持っていることが、何よりの証拠だ。分かったらさっさとここで……」
「断る」
カティスがサラの手から落ちた『詞中の梟』を高々と掲げて声を張り上げる。
だがその言葉は真っ向から切り捨てられた。
「……なに?」
「引くのはお前の方だ。カティスヘルズ・フレイ・ドルートン・ボルカヴィラ」
静かな声で言い切ったハイトは、水面から膝を上げると真っ直ぐにカティスを睨みつけた。
その瞳に宿る強い光は、こんな窮地に立たされても揺らぐことはない。
「フローライト王より、アクアエリア王へ正式な申し入れがあった。フローライト王の娘、アヴァルウォフリージア・サルティ・ヴォ・フローライト姫を、アクアエリア第二王子、ハイトリーリン・ミスト・フレイシス・リヴェルト・アクアエリアの妃にと」
その言葉にカティスがスッと瞳をすがめる。だがハイトはそれに
「俺はハイトリーリン・ミスト・フレイシス・リヴェルト・アクアエリアとして、彼女が俺の許婚である事をここに主張する。引くのはお前だっ! カティスヘルズ・フレイ・ドルートン・ボルカヴィラッ!」
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