続けて声を上げながらツカツカと二人の間に割り込めば、不意を突かれたせいなのか男はあっさりと娘の胸倉から手を離した。数歩ふらつきながら後ろに下がった娘はヘタリとその場に腰を落とす。


 そんな娘を背後にかばい、サラは男とたいした。ようやく我に返ったのかギャラリーの最前線に立つキャサリンが顔色を失っているのが見える。


 ──ごめんなさい、キャサリン。


 そんな腹心のメイドに心の中だけで謝りながらも、サラはキッと目の前の男をにらみつけた。


 ──でも私、こんな場面を黙って見過ごしたら、絶対に後悔するもの……!


「誰だテメェは」


 男はいきなり現れた見慣れない娘にたじろいだようだった。だが語気が弱まったのは初めの一瞬だけで、次の言葉には荒っぽい口調が戻っている。


「邪魔すんならテメェも容赦しねぇぞ、コラァッ!!」

「容赦しないのはこっちよっ! こんないたいけな女の子虐めて、あなたは恥ずかしくないのっ!?」


 サラは正面から男を睨み返すと鋭く啖呵たんかを切った。


「あなたとこの子の間にどんな関係があるのか知らないけれど、形見なんていう大切な物を力任せに奪おうとする人間が正しいわけないってことくらいは分かるわっ! それだけで、助太刀する理由は十分よっ!」


 見知らぬ娘の乱入に驚いたのは、相対した男だけではなかったようだ。ギャラリーを形成している野次馬達も、かばった娘さえも、信じられないという目でサラを見ている。


 ──まぁ、無理もないわよね。


 相手は背丈ならサラの倍、体重ならサラの4倍以上はありそうな大男だ。いかにも喧嘩慣れしていそうな雰囲気もある。


 対するサラはどこからどう見てもごくごく普通の少女だ。このまま事が再燃すれば今度は暴力の矛先がサラに向くのは火を見るよりも明らかなのだろう。


「助太刀ぃ? はっ! そのアマ代わりにあんたが俺に何か恵んでくれんのかよ?」


 男にもそんな未来が見えたのか、男は鼻先でサラを嘲笑あざわらった。


 だがサラは嘲笑にも蔑みの視線にも怯まない。


「あなた、私が怖いの?」


 それどころか、サラは真正面から男を見返すと、お返しとばかりに笑みを浮かべてみせた。


「手を出してこない所を見ると、随分私を怖がっているようだけど? 本気で私をどうこうできるのならば、一々言葉で返していないで拳で語りにくると思うわ。それとも、変な所で紳士なのかしら?」


 後ろでひとつにくくり上げた髪を払い、サラは真正面から男を挑発する。


 そんなサラが浮かべた笑みは、間違いなく『冷笑』と呼ばれる代物だった。侮蔑ぶべつを隠すことなく視線に載せたその表情は、サラの本性が支配する側の人間であることを圧とともに物語る。


「そんな所で紳士ぶるくらいなら、最初から紳士でいてもらいたいものね」


 その圧に一瞬男は無意識のうちに怖気おじけづいたようだった。そこからハッと我に返った男はそんな自分に気付いたのか細かく体を震わせる。


「くっ……そっ!」


 怒りか羞恥か、男の顔が茹で上げられたように真っ赤に染まる。振り上げられた拳に今度こそ躊躇ためらいはない。


「死にさらせクソアマがぁぁあっ!!」


 野次馬から悲鳴が上がる。サラの後ろで娘が鋭く息を吸い込んだ音が聞こえた。


「キャサリン、手を出さないでちょうだい」


 そんな中、サラは振り下ろされる拳を静かに見据えていた。


 サラにも、この娘のように、絶対誰にも奪われたくない形見がある。こんなに理不尽な目にったら、同じように戦ったことだろう。


 ただ一点違う所があるとすれば、それは……


「サラ様っ!!」


 スラリと伸ばした右腕の先、人差し指と中指を揃えて伸ばす。その指を唇の前まで運ぶ間もサラは男の拳から目をそらさない。悲鳴のように響いたキャサリンの声さえ意識の内から意図的に締め出す。


 そんなサラの構えた指先に、ぽうっと琥珀色の光が宿った。同時にサラの唇からは古い言葉が滑り出す。


我がうアシェル・リ……」


 光を引き連れて指を宙に滑らせる。そんなサラの姿に男が目をみはる様がやけに遅く感じられた。ほんの数秒のことが妙に引き伸ばされて眼前を過ぎていく。


「何をしている?」


 だというのにその人は、気付いた時にはサラの前に立っていた。


 声がした、と思った時には、すでに視界が深い藍色に包まれている。


「な……何だテメェはっ!?」

「何をしているんだと、いている」


 その藍色が誰かの背中なのだと気付いた時には、すでに男の拳が受け止められる鈍い音の余韻が低く清冽な声にかき消されていた。


「こんな街中で、しかも白昼間に、いたいけな娘二人に暴力を振るうとは。……お前は、よほど警邏けいらの世話になりたいらしい」


 思わぬことに、サラは指を構えたまま固まった。


 そんなサラを慌てて飛び込んできたキャサリンが野次馬の中に引き戻していく。


「きゃ……キャサリンッ!」


 引き戻すというよりは、肩の上にかつぎ上げて逃走するといった方が適切な体勢だった。どう見ても格好の良いものではない。


「お……お怪我はございませんかっ!?」


 だがそんなことをキャサリンは気にしてくれない。


 人垣を突破したキャサリンは、慌てながらも丁寧にサラを石畳の上に下ろすとオロオロとサラの体に手を当てていく。まるで医者が患者の体に触れてケガの程度を確かめるかのような仕草に、サラは思わず苦笑を浮かべた。


「……大丈夫よ。キャサリン」


 心配性なメイドの仕草に緊張の糸が切れたのか、今更ながら指先が小さく震えていることに気付いた。


 だがサラはそんな自分に気付かないフリをして、苦笑を微笑にすり替える。


「見ていたのならば、知っているでしょう? 私、まだ殴られてもいないのよ?」

「殴られていたら大惨事ですっ!!」


 サラの強がりにキャサリンは分かりやすく涙ぐんだ。このわずかな時間にどうやったらそこまで顔がグチャグチャになるのか、と訊ねたくなる勢いで涙ぐんだキャサリンはキャンキャンとサラに喰い付く。


「そのようなことになるならばサラ様の制止に耳を貸さず飛び込む所存でございましたっ!! 被虐趣味なことは被虐趣味者に任せておけばよいのですっ!!」


 そんなキャサリンの言葉に、サラは思わず目を丸くした。


 ──え……? 殴られることは被虐趣味者に任せておけばいい→キャサリンは私が殴られそうになったら飛び込むつもりだった→つまり、殴られ役はキャサリンに任せるべきだった→それってつまり……


「えっ!? ちょっと待ってっ!? キャサリンって被虐趣味者マゾヒストだったのっ!?」


 ポクポクポクポクチーン! というBGMがどこかから聞こえてきたような気がした。


 一体何のBGMかはサラには分からないのだが、聞こえたものは聞こえたのだ。


 ──待って!? キャサリンと出会ってから8年ぐらい過ぎてるけど、キャサリンがそんな性癖を持っていたなんて私、知らなかった……!


「はい? ちっ……違いますっ!」


 真剣に怒っていたはずなのにいつの間にか大きく間違った見解を持たれてしまったキャサリンは、愕然と目を見開くサラに一度キョトンと目を瞬かせてから慌てて大きく左右に首を振った。


「そういうことを言いたかったわけではなく……っ! 私は被虐趣味者ではございませんっ! 誤解です! そんな目で見ないでください~っ!」


 そんなキャサリンの様子をまじまじと見つめ、サラはソロリと唇を開いた。


「……そう、なの?」

「はいっ!」


 見つめられたキャサリンはいつになく真剣な顔でサラに頷く。そんなキャサリンを見つめ、サラはほっと安堵の息をつくとともにおかしな方向に思考を飛ばしてしまった己を恥じ入った。


 ──そうよね、そんなわけ……。私ったら、非常事態に心乱されていたとはいえ、そんなあらぬ疑惑を持つなんて……


「ごめんなさい、キャサリン。私ったら……」


 心を落ち着かせたサラは勘違いに対する謝罪を口にしようとする。


 だがキャサリンが胸を張ってさらなる爆弾を投下する方がわずかに早い。


「私、殴るか殴られるかなら、殴る方が好きなのでっ!」

「……はいっ!?」


 ──そんなカミングアウトを堂々とされても反応に困るんだけどっ!?


 今度こそ言葉を失ったサラはなぜか『えっへん』と胸を張っているキャサリンを目を丸くしたまま見つめる。ちなみにどんどん現状から脱線していく二人を本筋に引き戻してくれる人間は誰もいない。


「ハイト~、警邏の人、連れて来たよ~」


 そんなサラの思考を現実に引き戻したのは、状況にどこまでもそぐわない長閑のどかな響きを帯びた声だった。


 ハッと顔を上げると、目の前を見覚えがある深い藍色が横切っていく。


 それが声の主である青年の身を包む外套であると分かった時には、青年に連れられて登場した警邏隊がサッと人垣の中になだれ込んでいた。


 サラとキャサリンが会話の迷宮に飛び込んでいる間に無頼漢は成敗されていたのか、チラリと見えた人垣の中心では男が大の字に伸びている。


「おー、リーフェ。ご苦労さん」


 長閑な声に答えたのは、人垣の中心に立っていた青年だった。


 パンパンッと軽く手をはたいた青年は、警邏隊を連れてきた青年を迎え入れるとへたり込んでいた娘に手を差し伸べる。


「あの人が……」


 人垣の中心にいる青年も、警邏隊を連れてきた青年も、東方風の揃いの外套に身を包んでいた。すべてが引き伸ばされて見えていたあの瞬間、サラの目に留まらぬ速さで間に割り込み、サラとサラがかばった娘を助けてくれた、あの藍色だ。


 ──助けてくれたことは、ありがたいのだけど……


 サラはそんな藍色に身を包む二人を見つめ、少しだけ頬を膨らませた。


 ──私、別に助けてもらえなくても、自力で切り抜けられたんですけど?


 助けてもらえたことは、大変ありがたい。お礼を言ってしかるべきだ。


 だがサラの負けん気と、無頼漢への怒りが行き場を失ったままくすぶっていて何だか面白くない。正直に言うならば、あの男は己の手で成敗してやりたかった。……いや、本当は分かっている。こんな子供じみた八つ当たりなどしてはいけないと。


 色んな感情を心の天秤にかけてしばらくむくれていたサラだったが、最終的には『お忍びであろうとも、フローライト王族たるもの、礼節を欠くべからず』という矜持きょうじに軍配が上がった。


「彼、すっかり伸びてたね。駄目じゃないか。他国の領土で暴れちゃ。穏便に済ませてねって言ったじゃない」

「抵抗されたんだ。自己防衛だろ。……というかリーフェ、止めてこいって俺を突き飛ばしたのは、お前だったよな?」


 ──お礼、伝えなきゃ。


 サラは立ち上がるとパタパタとスカートのすそを払った。まだ何やら自慢げに胸を張っているキャサリンを放置して、もう一度人垣の向こうへ歩み寄る。


 その瞬間、サラを助けてくれた青年の視線が流れ、確かにサラと目が合った。


 青年の瞳を正面から見つめたサラは、思わず呼吸を忘れて青年に見入る。


 ──綺麗……


 サラより数歳年上か、と思える容貌をした青年だった。


 高い位置でひとつにくくられた髪は、闇よりも深い漆黒。癖ひとつなく肩下まで流れ落ちる髪にふちどられた顔は秀麗で精悍せいかんだった。


 女性なら誰もがうらやむようなつややかな髪ときめの細かい肌をしているのに、そこに女性的な美を感じさせないのは、意志の強さがにじんだ表情と細身ながらも鍛えていると分かる体つきのせいだろう。


 だが何よりもサラの目を引きつけたのは、青年の瞳だった。


 ──まるで、夜が明ける直前の空みたい……


 深い濃藍色なのに、不思議と暗さを感じない。夜明けを迎える直前の東の空が、光の到来を予感して黒から深い藍色に色を変える瞬間を切り取ったかのように、暗い色味なのにどこか光を感じさせる瞳を青年はしていた。きっとそれは単純に瞳の色味だけが見せている色ではなくて、青年のようがそこににじんで生まれた色なのだろう。


 深くて、澄んでいるのに、底を見透かせない。まるで吸い込まれていきそうな瞳。


 ──フローライトの王宮に献上されてきた、宝石に似てる。


 コベライト、と呼ばれていた。傷付きやすいこととその希少性から宝飾品に向かなくて、流通量も少ないから認知度も低い。だが一度見れば誰もが引きつけられて目が離せなくなる宝石であると。


 青年の瞳は、まさしくコベライトだった。吸い込まれてしまったサラは、まばたきさえできないまま青年に見入ってしまう。


 そんなサラが我に返ったのは、サラの視線の先で青年が動き始めたからだった。支えていた娘の手を連れの青年に預けた青年は、なぜか真っ直ぐにサラに向かってくる。


 ──えっ!? どうしてっ!?


「大丈夫か?」


 まさかまじまじと見つめすぎたせいで不審者かと思われたのか、とサラが視線をさまよわせた時には、すでにくだんの青年が目の前に立っていた。


「先程、あの娘をかばって間に入ったのは貴女あなただったよな? なるべく貴女に危害が及ばない様に割り込んだ心算つもりだったんだが……怪我はないか?」

「えっ!? ……っ、ええっ! 全然ないわっ!」


 ──心配、してくれたんだ。


 とりあえず不審者と思われていなかったことにほっと安堵あんどの息をついたサラは、深呼吸をして居住まいを正してからもう一度しっかりと青年を見上げた。


「助けてくれて、ありがとう」

「いや、こっちも事情あっての人助けだ。気にしないでくれ」

「事情?」


 思わぬ言葉にサラは目を瞬かせる。そんなサラに軽く頷くことで答えた青年は一度それとなく周囲に視線を走らせた。


「そうだ。他国の領土で厄介事を引き起こしてでも、人助けをしなくちゃならない事情があったんだよ」


 その視線につられるようにサラも周囲を見やる。


 騒ぎが片付いたせいか、人垣がゆったりと崩れていくところだった。見物に集まった野次馬は三々五々に散っていく。街に日常が戻っていく風景があるだけで、特に不審な点は見当たらない。


 だがそんなサラの考えを否定するかのように、青年の背後から長閑な声が聞こえてきた。


「やっぱり、巻き込まれちゃったみたいだねぇ、お嬢さん」


 その声に青年が振り返る。サラもその動きを追うように視線を投げれば、青年の連れが娘の手を取ったままのんびりと青年に歩み寄ってくるところだった。


「僕達は目を付けられて自業自得……というより、むしろぜひとも付けて下さいって感じだけれど、お嬢さん達は全く関係ないのになぁ」


 分厚い丸メガネと長い前髪で顔のほとんどが隠れている連れは、唯一見えている口元に喰えない笑みを浮かべていた。青年と似たような東方風の旅装姿なのになぜか不審者じみて見えるのは、伸びるに任せたボサボサの黒髪のせいなのだろうか。それとも連れの青年がまとう何とも言えない独特な雰囲気のせいなのだろうか。


「どういうことだ、リーフェ」


 青年が連れに呼びかける。どうやら連れの名前は『リーフェ』というらしい。


「どうやら、お嬢さん達も監視対象ターゲットにされちゃったみたい。視線が増えたんだよね」

「俺達の関係者だと思われたか……」

「あるいは、第二の敵……いや、僕達の方が後から割り込んだ訳だし、順番的にはお嬢さん達の方が『第一の敵』、なのかな?」


 リーフェの視線がおっとりとしたままサラの背後に投げられる。思わずリーフェの視線を追って振り返ると、いつの間にかサラの後ろを守るかのようにキャサリンが立っていた。そのキャサリンも青年と同じように緊張を帯びた表情をしている。『メイドのキャサリン』ではなく、『護衛官のキャサリン』の顔つきだ。


 ──でもキャサリンの場合は、周囲を警戒しているっていうよりも……


 キャサリンの視線の先は青年とその連れ……いや、連れと手を繋いでいる娘に据えられているように思える。


 ──そういえば最初にあの子を見た時も、何か過剰に反応していたような気がするけど……


「それはまずくないか。こっちの事情に一般人を巻き込む訳には……」

「でもこのまま別れたら、お嬢さん達に付きまといそうな雰囲気がビンビンしてるんだよねぇ」


 サラが考えを転がしている間も青年と連れのヒソヒソ話は進んでいた。視線を流してみれば、リーフェの言葉に青年は分かりやすく苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。対するリーフェは相変わらず喰えない笑みを浮かべ続けているようだった。


 互いに声音を落としてささやき合っているから散り始めた周囲の野次馬に二人の声は届いていないだろう。だが二人と数歩の間合いで対峙しているサラにはすべてが聞こえているし、リーフェもあえてサラ達には聞かせている風情がある。


 ──ついてこいって言いたいの?


 その割に力尽くでどうこうしようという気配はない。青年の方はできればサラを巻き込みたくないと思っている、という内心も何となく察することができた。


 ──今のところ、彼らが即危険因子になるとは思えない。


 むしろ二人の会話から察するに、この二人に素直に同行した方が身の安全は確保できるのかもしれない。『巻き込まれた』『ターゲット』『付き纏う』という言葉からは荒事の気配が強くする。キャサリンは確かに信頼できる護衛だが、戦力が多いに越したことはない。


 娘に対するキャサリンの反応だけは気になるが、サラの身に何か危険が迫る懸念を感じていたのであれば、キャサリンは青年達に構わずサラを連れてこの場から逃げ出していたはずだ。それをやっていないということは、少なからず護身という意味では彼らのそばにいた方が安全であるという判断をキャサリンがしたということになる。


 ──あとは、彼らを信頼していいのか、というところだけなんだけども……


「とにかく、ここから移動しないと何も始まらないよ」


 胸の内だけで考えを転がすサラの向こうでリーフェが低く囁いた。同時にリーフェの視線は自分が手を引いてきた娘に落とされる。その視線を敏感に感じ取った娘はとっさに顔をね上げて逃げようとしたようだが、娘の意図いとに反して娘の体はほとんど動かなかった。


「大丈夫だよ。僕達は、君を害そうと思って事に介入した訳じゃないんだ」


 サラの目には、リーフェが娘と緩く手を繋いでいるようにしか見えない。だが当の娘は『何が起きているのか分からない』という表情でリーフェを見上げていた。カタカタと細かく震える体にも、リーフェを見上げる顔にも、強く恐怖が表れている。


「出来れば、貴女にも来てもらいたい」


 一体何が起きているのか、と二人を観察していたサラの上に、その言葉は落ちてきた。


 清涼な川の調べを思わせる声に顔を上げれば、コベライトの瞳が真っすぐにサラに据えられている。


「巻き込んでしまった事は、申し訳なく思う。初対面の男連れにこんな事を言われるのも、予定が潰されるのも、不快だろうし、不信感や恐怖があると思う。だが、このまま別れては危険だと予測出来ているのに貴女達を放り出すのは、俺達も寝覚めが悪い」


 サラは、青年の言葉に耳を澄ます。


 青年の為人ひととなりを知るために。


「だから、どうか一緒に来てもらえないだろうか」


 世界にあふれる言葉は、大抵が嘘つきだ。


 意図してついた嘘、意図しなかった嘘、たくさんの『嘘』と曲がった言葉でこの世界はできている。


 だがその言葉達の『嘘』が、サラにだけは通じない。


 フローライトは『本の国』で、『言葉の国』。


『フローライトの姫』であるサラにとって、言葉は友であり、武器であり、時に正直すぎて残酷な証言者だ。


 ──嘘じゃ、ない。


 だからこそ、サラには分かった。


 ──この人の言葉はどこまでも真っすぐだ。


 コベライトの瞳と同じく、青年が紡ぐ言葉は真っすぐで、深く澄んでいた。心地良ささえ感じるほどに。


 ……信じたい、と。


 フローライト王家唯一の直系姫として物心ついた時から権謀術数の中にいたサラに無条件でそんな思いをいだかせるくらいに、サラの目に映る青年は澄み切っていた。


「ひとつ、教えてもらえないかしら?」


 サラは一度ゆっくりまばたきをしてから唇を開いた。サラの言葉を受けた青年は、変わらず真っすぐにサラを見据えている。


 だからサラは、ふわりと笑ってみせた。


「あなたの名前。これから行動をともにするならば、名前が分からないと不便だもの」


 そんなサラに青年は目をしばたたかせた。言葉か笑顔かどちらに青年が驚いたのかは分からない。だが厳しさが緩んだ青年の顔は先程よりもわずかに子供っぽさがにじんでいる。


「それに私、名前も名乗らない相手にノコノコついていくほど、バカでもないのよ?」


 続けて言葉を添えれば、今度こそ青年は呆気に取られたかのように目を丸くした。


 人によっては気分を害するかもしれないとは思った。何せサラの方だって名乗っていないのだから。暗に『先に名乗れ』と命じる言葉は、相手の身分によっては大変な無礼にあたる。


「そうか。割って入るのに必死だったから、名乗る時節タイミングを完全にいつしていたんだったな」


 だが青年は気を悪くするどころか楽しそうに笑った。社交的な笑みではなく、本当に心の底から楽しんでいると分かる笑みを浮かべた青年は、右手を胸に、左腕を背に回して軽く頭を下げる西方式の礼を取った。


「俺の名前はハイト。ハイト・フレイシスと言う。名乗る事なく相判エスコートの手を差し伸べる様な無礼を働いた事、どうかお許し願いたい」

「許してあげる。名乗らなかったのは、私も同じだもの」


 その誠意に応えて、だが王女らしい気位の高さは忘れず、サラはスカートのすそを持ち上げてチョコンと淑女の一礼カテーシーを返した。


「私はサラ。サラ・フリージア。お付きのキャサリンともども、しばらくよろしくね」

「ああ、こちらこそ」


 軽く曲げた膝を伸ばせば、ハイトが片手を差し伸べてくれる。サラは不敵な笑みを浮かべると、しっかりとその手を握り返した。


「さて、話は纏まったかな? ヴォルトが近場に宿を押さえてくれているはずだから、とりあえずそこに移動しよっか」


 そんなハイトの向こうからヒョコッとリーフェが顔を出す。相変わらずリーフェに手を取られた娘は顔から血の気を失いすぎて今にも倒れそうだ。


 そんな二人を見て何か思うところがあったのか、ハイトはスルリとサラから手を離す。


「込み入った話は、落ち着いた場所に移動してからね」

「そういやどうやってヴォルト合流するんだ? 宿の場所、こっちから指定してないんだろ?」

「まぁ〜……、何とかなるって!」

無計画ノープランに部外者巻き込むの、どうかと思うぞ」

「大丈夫、大丈夫!」


 どこまでもマイペースなリーフェに押し切られる形でハイトとリーフェ、そしてリーフェに連れられた娘が移動を始める。


 サラもその後に続こうと一歩を踏み出した。


 だがその足は、後ろから伸びてきた手に止められる。


「? キャサリン?」


 唐突に取られた左腕に驚いて振り返れば、キャサリンがサラを引き留めるかのように二の腕を掴んでいた。思っていたよりも間近にあったエメラルドの瞳が、嵐に揉まれる湖面のように大きく揺れている。


 そんなキャサリンに、サラは大きく目を瞠った。


「どうしたの?」

「あ……」


 思わず問いかけると、キャサリンの瞳がさらに揺れた。『自分でもどうしてこんなことをしたのか分からない』とでも言いたそうな雰囲気だ。


 ──こんなキャサリン、初めて見る。


「姫さ……」

「あ、名乗り忘れてたけど」


 震える唇が、躊躇ためらいながらも何か言葉を紡ごうと動く。


 だがキャサリンが言葉を紡ぐよりも、少し離れた場所から長閑な声が飛んでくる方が早かった。


「僕はリーフェね。もう知ってると思うけど。ヴォルトってのが、もう一人の連れ」


 リーフェの言葉に振り返れば、少し離れた場所でリーフェがこちらに顔を向けていた。その言葉に振り返ったハイトが動こうとしないサラ達の様子を見て小首を傾げる。


 そんなハイトの向こうで、リーフェは口元しか見えていない顔で相変わらず喰えない笑みを浮かべた。


「どうぞよろしくね、

「え、ええ……」


 その笑顔になぜか圧を感じたサラは戸惑いを隠せないまま曖昧に頷いた。そんなサラに満足したのか、今度こそリーフェはマイペースに足を進め始める。


「……申し訳、ありません」


 か細い声に再度振り返れば、キャサリンの手が離れていくところだった。すがるように一度キュッと強くサラの腕を握りしめた手は、そんな変化があったことなど覚らせないくらい、スルリと呆気なくサラから離れていく。


「私達も、参りましょう」


 一瞬、足を止めてでも、ハイト達とはぐれても、キャサリンを問い詰めるべきか迷った。だがサラが口を開くよりも早くキャサリンの方が歩き出す。


 ──問題、山積みね。


 内心だけで呟きながらも、サラはキャサリンを追い越す勢いで歩み始めた。


 ──でも、不安はないわ。


 自然に湧いてきた笑みを隠すことなく口元に載せて、サラはハイト達一行に合流する。


 そんな一行の姿を、絶え間なく流れ続ける人の波が呑み込んでいった。

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