姫様、藍玉に出会う
1
「ひ……姫様ぁ~」
「キャサリン、そう呼んじゃダメって、何回言わせれば気が済むの」
「さ……サラ様ぁ~」
「ん~、『様』もなんとかならない?」
「私達、一体どこへ向かっているのでしょうかぁ~?」
「さぁ?」
「『さぁ?』って何ですかっ! 『さぁ?』ってっ!」
跳ねるように進むサラの後ろに付き従っていたキャサリンがサラの無責任な言葉に悲鳴を上げた。
フローライトとリーヴェクロイツ、ボルカヴィラの三国の国境が接する街・ハンガでのことだった。
国で言えばリーヴェクロイツの領土になるのだが、国境が近いせいなのか、それともリーヴェクロイツが中立国であるせいなのか、フローライトの人間もボルカヴィラの人間も皆ひとしく街の中を行き来している。街の規模や雰囲気から考えるに、国境際という地の利を生かした交易で栄えている街なのだろう。
「私、サラ様には目的地があるのだとばかり思っておりましたのにっ!」
「目的地なんてあるはずないでしょ?」
サラはクルリと振り返ってキャサリンを見た。町娘風の質素なドレスの
王宮用の
「考えてみてよ、キャサリン。私達、家出してきたのよ? 荷物をまとめるのが精一杯で、目的地をどこにしようかなんて優雅に地図を広げている暇なんてなかったじゃない」
その言葉を受けたキャサリンが両手に握られている旅行鞄に視線を落とした。
庶民が日帰り旅行の荷物を入れる時に使うような、小さな鞄。サラとキャサリンが持ち出してきた荷物はたったこれだけだ。
「……申し訳ありません。私が、もっと手早く準備をできれば……」
フローライト国王の一人娘であるサラは、一日かかっても回りきれない大きな衣裳部屋を何個も持ち、物にあふれた優雅な生活を送っている。そんな王女が旅に出るとなれば、本来ならば荷馬車が何台も随行するような大装備になったはずだ。
しかし今回は城中の兵が追手となっていたこともあって、本当に必要最低限の荷物をまとめてくることしかできなかった。
……もっとも、荷馬車を何台も随行させて敢行する『家出』は『家出』とは言えないシロモノなのだろうが。
「でも、なんだか身軽になった気がしない?」
そんな矛盾に気付かずしょぼんと本気でしょげるキャサリンに向かって、サラは笑いかけた。
「肩の荷が下りたっていうか……こんなに晴れやかな気分になったのは、とにかく初めてなの!」
サラのはしゃいだ声に、キャサリンの顔がおずおずと上げられる。だがそこにはまだ己を責める表情が浮いていた。
「私、常々思っていたのよ。この世界を生きていくために、最低限必要な物はなんだろうって」
クルクルと回っていた体を止めてキャサリンとの間合いを詰めたサラは、キャサリンの頬に手を伸ばすとプニッと指を突き刺してやった。意表を突かれたキャサリンはキョトンと目を
「や、やめてください~っ! 何するんですかぁ〜っ!」
「私、今それが分かったような気がする。私に必要なのは『私』という存在と自由だけよ。今までが物であふれすぎていたの」
身をよじって逃げようとしていたキャサリンは、そんなサラの言葉に目を
そんなキャサリンのプニプニほっぺを思いっきり堪能してから、サラはキャサリンの頬から手を引いた。軽く肩をすくめて笑い返す今の自分には、ほんの少しだけ『アヴァルウォフリージア姫』がにじんでいることだろう。
「苦労を知らない王族の娘が何言っているのだか、って思われるかもしれないけれどね。でもこれ、お母様も同じことを
「ああ……いかにも仰りそうですね」
サラの言葉で王妃のことを思い浮かべたのか、キャサリンは穏やかな微笑みを浮かべた。
サラの実母であるフローライト王妃は、数年前に亡くなっている。サラの顔立ちは亡き母の生き写しらしいが、体が弱かった母はその分、サラよりも受ける印象が儚げだった。
だが外見と同じく中身も儚げであったかと問われれば、サラは首を
「私、お母様がそう仰っていた気持ちが、今はよく分かるわ」
サラはグッと両手を空に突き出すと、思いっきりのびをした。
そんな動きをしても目くじらを立てる者はここにはいない。王宮用の無意味に豪華なドレスと一緒にいつも自分につきまとう堅苦しい肩書も脱ぎ去ったサラは、にっこりと心の底から笑みを浮かべた。
「だからね、キャサリン。滅多に味わえないこの空気を、私達は思いっきり楽しむべきなのよ。堅苦しいことも、面倒なことも、気分が暗くなることはぜーんぶ忘れて、今はただのサラとキャサリンとして、目の前のことを楽しむべきなの」
その言葉に、ようやくキャサリンが小さく笑みを返してくれた。
「ええ……そうなのかもしれませんね」
その笑顔に満足したサラも笑みを深める。止まってしまっていた歩みを再開させるべく、サラは体を半回転させようと踊るように足をさばいた。
「さて! それじゃあまずは……」
「ですが、忘れないでくださいませ」
だがそれよりもキャサリンが口を開く方が早い。キャサリンの声に動きを止めたサラへ、壊れ物を扱うかのようにそっとキャサリンの手が伸ばされる。
「サラ様には、帰る家がございます。サラ様の御帰宅を心待ちにしていらっしゃる方がいる家です。家があるから『家出』なのです」
プニ、とサラの頬に触れる指は、可憐な容姿とはかけ離れた武骨な造りをしていた。サラに仕え、守り、慈しんできてくれた、世界のどこにいてもサラを安心させてくれる指だ。
「気分が暗くなることはぜーんぶ忘れても、そこにいらっしゃる方々のお心をお忘れになられてはなりません。皆様をギャフンと言わせて、サラ様の御心が晴れましたら、無事に元気で城へ帰りましょうね」
プニプニとサラの頬をつつき返すキャサリンの顔には優しい笑みが浮かんでいた。母親が子供を慈しむような、そんな優しい笑顔だ。
もしかしたらキャサリンは、家出を心の底から楽しみながらも、どこかで不安や苛立ちをくすぶらせるサラの心情に気付いてくれていたのかもしれない。
「……それまでずっと、ついてきてくれる?」
思わずポロリと言葉がこぼれていた。そんなサラに向かってキャサリンは穏やかに笑みを深める。
「城を出る時に申し上げました。『姫様が行くのならば、冥府の底へでもお供いたします』と」
「……そう」
先程までと、自分が置かれた状況は何も変わっていない。
だけど、そう言ってもらえるだけで、そうやって笑いかけてもらえるだけで、なんだか強くなれたような気がした。
「……じゃあ、まずは行き先を決めなくちゃねっ!」
いつの間にかうつむいてしまっていた顔を上げたサラは、キャサリンの指から逃げ出すと今度こそ歩みを再開させた。笑みを浮かべたまま荷物を持ち直したキャサリンが先程までより近い場所を歩いてくれる。
ナナメ後ろ、見る角度によっては隣にも見える距離まで近付いてくれたキャサリンを見遣り、サラは唇を開いた。
「何も考えずにリーヴェクロイツまで出てきてしまったけれど、これからどうしよう? キャサリン、どこか行きたい所はある?」
「行きたい所、ですか? そうですねぇ。私達、こうやって外へ出たことがありませんから。この際ですし、のんびり観光とかに行きたいですね。フローライト国外の観光名所巡りなどはいかがでしょう?」
「そういえばキャサリン、お城で馬車をかっぱらった後もひたすら国境を目指して馬車を走らせていたような気がするけど、それって何か理由はあったの? 特に理由を聞かないまま国境を越えちゃったけど」
「お忘れですか? サラ様。私達は家出中の身。フローライト国内には秘密裏に触れが出たでしょうから、連れ戻される可能性が高いと踏んだのです」
「さすがね、キャサリン。そんな可能性、思いつきもしなかったわ」
「恐れ入ります」
不穏な話題を実に楽しそうに交わしながら、サラとキャサリンは石畳の上を進んでいく。
交易の街であるハンガは、何もかもが活気にあふれて輝いていた。
サラが今まで目にしたことがある『街』はフローライト王都しかないのだが、それだって馬車の中から眺めただけであって、直に石畳を踏み、雑踏の中に身を投じたのはこれが初めてだ。
さらに言えば洗練された貴族文化が強いフローライト王都・レンテスとこのハンガでは活気や熱量が違う。
本の中に書かれた知識でしかなかったものが、今目の前に現実のものとなって存在している。触れて、感じて、サラもその中の一部になっている。
そのことにサラは目を輝かせた。何もかもが知識大国・フローライトの姫であるサラの知的好奇心をくすぐってくる。何もかもが目新しくて、キラキラしていて、どこを見ていたらいいのか迷ってしまう。
穏やかに降り注ぐ陽光。石造りの美しい街。笑い合いながら行き交う人々。そんな通行人を呼び込む露天商達の威勢のいい声。
──もっと、もっと知りたい……!
知識欲がうずくがままに、サラは前へ前へと足を踏み出す。
「キャ────ッ!!」
だがそんな浮ついた空気は、唐突に響いた絹を裂くような悲鳴に引き裂かれた。
ハッと我に返ったサラは足を止めると声の発生源を探して首を巡らせる。そんなサラをかばうようにキャサリンがサラの前に滑り込んだ。
「……何かしら?」
「分かりません。私の
低く
サラは家出するにあたってキャサリンだけを
「キャサリン、あっちに人垣ができているわ」
冷静に周囲を観察したサラは、少し離れた場所に野次馬が集まり始めたことに気付いた。指を指して示せば、キャサリンの視線が鋭くその先を追う。
「何か揉め事が起きているみたい。こういう街では、これは『当たり前』に起きることなのかしら?」
「そのような場所だという噂は、聞いたことがありませんが……」
「この距離からでは、何で揉めているかも分からないわよね?」
「声を拾うには少々距離がありますし、人垣に阻まれて現場を直接見ることもできませんから」
サラに直接危害を加えられる可能性は低いと判断したのか、身構えていたキャサリンがサラの前から体を引く。人垣をより観察しやすくなったサラは、キャサリンの言葉も加味して状況を分析してみた。
そんな思考の向こうで、うずっとサラの好奇心がうずく。
「ねぇ、キャサリン。このまま何で揉めているのか分からないままこの場を立ち去るのは、何だかモヤッとしたものが残ると思わない?」
サラはその好奇心を殺すことなくキャサリンにぶつけた。
サラがそう言ってくると、キャサリンは
これがメイドモードのキャサリンだったら『だっ、ダメですよぉ! そんな危ないことっ!』とワタワタと大いに慌てて、振り回した自分の腕が顔面にぶつかるか、自分の足に反対側の足を引っ掛けてすっ転んでいたことだろう。
「まだこの街に滞在する可能性もあるのでしょう? あの揉め事が今後の揉め事に発展する可能性もあると思うの。把握しておくべきだと思うわ!」
「姫様の
キャサリンの首肯を得たサラはパッと顔を輝かせると跳ねるように人垣の方へ進んでいった。不謹慎にも人生で初めて目撃する乱闘の気配に浮き立つサラの後ろをキャサリンが護衛官としての体捌きでついていく。
「ちょっとごめんなさいね……通してちょうだいね……」
人垣はいつの間にか分厚く成長していたが、小柄で細身なサラはスルリと人垣の隙間に入り込んだ。見物人達の間隔がそこまで狭くないこともあって、スルスルとサラの体は人垣の先へ進んでいく。そして進んだ分、人垣の中から飛んでくる男のドスの利いた声と、
──ゴロツキが女の子に言いがかりをつけている?
その声からそんな情景を思い描いた瞬間、人垣が切れてパッと視界が開いた。
「違いますっ! これはそんな大それたものではありませんっ!」
「嘘を言えぇっ!? これがただのガラス玉だと? あぁっ!? どう見たって上質のルビーだろうがよっ!」
視界が開けた先では、サラが想像した通りの光景が広がっていた。
いかにもガラが悪そうな大男と、石畳の上にくず折れた娘。すでに男に打ち据えられた後なのか、折れそうなくらい細い体をした娘の頬には殴られた跡があった。それでも男の気は済まないのか、男はツバを撒き散らしながら大声で
「迷惑料にそれを寄越せば、全部丸く納めてやるっつってんのによっ! そんなに死にてぇのかこのクソアマッ!!」
「死んだって離しませんっ! 私はそもそもあなたにぶつかってなんかいないっ! そんな言いがかりで手放せる物ではありませんっ!」
圧倒的な暴力にさらされていながら、男を
そんな少女の手の中には、何かがしっかりと握り込まれている。サラにはそれが何なのか判断することはできないが、両手を合わせて握りしめた間から金の鎖がこぼれ落ちている所から見るに、何らの装飾品ではないだろうか。『ルビー』という言葉も聞こえてきていたから、宝飾品ということか。
「キャサリン、あの子の手の中にある物、本当にルビーだと思う?」
サラは二人から目をそらすことなくキャサリンに問いかけた。
娘の身なりは街を行き交う人々と比べてもどこかみすぼらしい。まとう空気から考えても、裕福な人間が変装しているという線も薄そうだ。
宝飾品には縁がなさそうな娘が高価な宝石を身に着けていた。それを見て取ったならず者が、娘から宝石を巻き上げるために
──そんな流れかしら?
そんな推測を脳内で転がしながらサラは声をかけたのだが、キャサリンからの返事はなかった。
「……キャサリン?」
キャサリンがサラからの問いかけを無視することなどあるはずがない。ならば声が届かないほど離れてしまっていたのかとサラは慌てて周囲を見回す。
そんなサラの耳に、驚きに息が詰まったかのような、引きつれた鋭い呼吸音が響いた。
──キャサリン?
呼吸の主はキャサリンで、キャサリンはサラのすぐ隣にいた。
ならばどうして答えてくれなかったのかと驚きとともにキャサリンを見遣れば、キャサリンのエメラルドの瞳は一点に向けられたまま凍りついたように動きを止めている。
その視線の先にいるのは騒動を引き起こした二人で、キャサリンは娘の手の中にある何かを見つけて驚いている、といった雰囲気だ。
そんなキャサリンの反応に驚くサラの前で、小さく震えているキャサリンの唇が微かに動く。
──どうして……
「母の形見なんですっ!!」
だがキャサリンの唇の動きは悲痛な娘の叫びにかき消された。
ハッと娘の方へ視線を向ければ、男に胸ぐらを掴み上げられた娘がそれでも両手を固く握りしめたまま男を睨みつけていた。娘のアメジストのような瞳からは絶え間なくポロポロと涙がこぼれ落ちていくが、それでも娘は男から視線を逃がそうとはしない。
「私の手元に残された最後の形見だから……っ! だから、絶対、死んだって渡しませんっ!」
──形見。
少女の口から飛び出た言葉が、サラの心に鋭く突き刺さった。思わずサラは服の下に隠すように下げた首飾りの先を服の上から握りしめる。
「……最後の勧告だ、小娘。その首飾りを俺に寄越せ」
「嫌ですっ!!」
──もしも、私が、あの子と同じ目に
首飾りを握りしめる手が熱い。どうして誰も彼女を助けようとしないのかという
──私だって、きっと、同じように抵抗する。
娘の
一瞬静かになった気配は、呼吸ひとつで爆発するような殺気に塗り替えられる。
「じゃあ死ねよっ!」
男は娘を片腕で吊し上げたまま拳を振りかぶる。それを見たギャラリーが息を飲むが、助けに動こうとする者はやはりいない。
──でも、私と彼女の違いは……
「待ちなさいっ!」
気付いた時には足元の小石を拾って男に向かって振りかぶっていた。狙いすましたかのように男の拳に当たった小石は、拳が娘に当たる直前でかろうじて男の動きを止める。
「その
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