実像の証明
実像の証明Ⅰ
「まあ、考えておくよ。」
適当に答えて僕は階段を降りた。背後からレスポンスはなかった。
あのシロクマはやはりロボットだと僕は推測している。何せ人間以外の動物はほぼ絶滅しているし、ナチュラルな動物は研究施設か、動物園や水族館といった施設で管理されているはずだからだ。
もしかしたら人の目に触れないところでシロクマは特異的な進化を遂げ、人間に近づいたのかもしれない。そんな風に空想した。可能性はゼロではない。こんな風にどうでもいい事を考えてしまうのが僕の悪い癖だ。もはや趣味とも言える。
仮にナチュラルだったとしたら、オスなのかメスなのかどちらなのだろうか、と僕はまたも無駄なことを考えた。
これは人にも言える事だけれど、見た目や声色で断定できないというか、断定すべきではないというのが僕の価値観だ。当人がどう思っているかと言う点を考慮する事が重要だ。個人的に彼とか彼女と言う第三人称は扱いにくいと思っている。
名前を聞いておくべきだった。
名前とは言ってしまえば識別コードみたいなものだ。願いだとか祈りだとか、そういった付加価値を還元していけば最後に残るのは何か。
それはただの文字の羅列だ。そんな事を考えながら階段を降りていく。そもそもあのシロクマに名前があるのかも分からないけれど。
僕の職場は四十階の高層ビルの最上階にある。シロクマと出会ったのは屋上へと続く非常階段の踊り場だ。このビルで勤務を続けて五年は経過しているけれど、非常階段に僕以外の誰かが居るのは初めてだった。そもそも非常階段を使用する者は皆無と言ってもいい。階の移動にはみなエレベーターを使う。このビルには階段は設置されていない。他の人はどう思っているのか分からないけれど、僕は不便と思ったことは一度もない。
非常階段を使う人間は仕事を抜け出して煙草を吸いに行くような怠け者くらいだろう。この怠け者もナマケモノと同じように絶滅危惧種だと言える。煙草も酒も嗜む人は少なくなっていると思う。酒に関しては単に僕が滅多に飲むことがないだけだから、大酒飲みはたくさんいるのかもしれない。
喫煙者もどこかで保存活動の一環で管理してくれたらいいのにと思う。そんな内容の小説か映画があった気がする。
僕は非常口からビルの中に入った。床も壁もすべてが白タイルで統一されていて、実寸よりもずいぶん広く感じる。ガラス張りのエントランスドアの上のステンレス製の企業ロゴが冷たく輝いている。
僕はドア横に設置されたセキュリティセンサに手をかざす。
一昔前は網膜や指紋、骨格などでセキュリティをパスするセンサが主流だった。けれど、そういったものは複製が可能になったため、一定のセキュリティレベルを保持しなければいけない施設では使用が禁止されている。代わりに十数年前から普及し始めた
このチップには手のひらに移植されていて個人に割り当てられたIDが紐づけられている。
オフィスの中に入り、自室に向かう。このオフィスで働いてるのは僕を含めて十人で個人個人に部屋が割り当てられる。作業自体も個人個人で対応する内容が違うため、基本的には自室にこもって各々が作業している。人との関わりが煩わしい僕にとってはありがたい環境だ。
「アサ。」
自室のセキュリティを解除し、ドアノブに手をかけたとき、イグサに声をかけられた。冷や水のような無形の鋭さを孕んだ声色。不思議と背筋が伸びる。
イグサはこのオフィスの最高責任者で僕の記憶が正しければ、僕より十歳年上で今年六十歳だったはずだ。僕と同じ、いや多くの人々と同じように
異性に対する関心が希薄な僕でもはっきり認識できるレベルで、彼女は美人である。僕よりも十センチほど背は低いが女性にしては長身で百七十センチ後半ほどあると思う。いつもヒールを履いているので、丁度僕と同じくらいに背格好になる。
「どうかしましたか?」
僕を見るイグサの瞳が細くなっている。睨まれているのだと気づいた。どうやら少しばかり機嫌が悪いようだ。イグサは前髪をかき上げ、溜息を吐く。
「また仕事を抜け出して、煙草を吸っていたのか。レディーと話したか?」
「すみません。まだです。どうかしましたか?」質問の答えになっていなかったので、僕は同じ質問を繰り返した。
イグサはまた溜息を吐いた。なんだか肩が少し重くなったような感覚がする。視覚できるなら、溜息は蛇のように僕の身体に巻きついているだろう。
「レディーが過去に前例のないデータの
イグサは口早に、いかにも責任者らしい口調で言った。
「発信元も不明なのですか?」
「一切の情報が現状不明だ。
「確かなことは分かりませんが、ハッカーが
「他国の人工知能による攻撃の可能性は?」
イグサが踵を返して歩き出したので僕は彼女の後を追う。コンパスのような歩き方だなといつも思う。踏まれたら痛そうだ。
イグサの横に並び、僕は答える。
「攻撃というのは考えられないですね。人工知能もロボットも自らの自己存続を最優先して演算を行いますから、自らに火の粉が降りかかるような行動は取らないはずです。」
イグサは頷く。
「リスクが分かった上で、危険を冒すというのは考えられない。コンタクトを取ろうとしているのかもしれません。」
僕とイグサはオフィスの中央へと向かって歩いていく。
オフィスにはスタッフの個室の壁以外に遮蔽物はなく、その壁も基本的にはスケルトンボックスになっており、極めてオープンなスペースになっている。他のスタッフはそれぞれの個室で業務を行っているようだった。
フロアは長方形で個室が左右に五つずつ、中央に全長二メートルほどの
僕とイグサは球体の前に並んだ。
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