プロローグⅡ
シロクマは後ろ足で直立し、手すりに前足を乗せ、遠い目で雲一つない空を見つめている。派手な赤いアロハシャツとデニムのショートパンツを身に纏っている。一瞬、思考が停止した。なぜこんな所にシロクマのロボットがいるのか。
寝起きの口の中は不快感に感じたし、飲みかけのコーヒーも不味かった。これは夢の続きではない事は明白で、今僕が見ているものは紛れもなく現実である事は間違いない。
驚いた僕は咥えていた煙草を地面に落としてしまった。僕はゆっくりと後退りする。迂闊な事に階段から足を踏み外しそうになった。
「おっと…。」
しまったと思ったけれど、もう遅かった。
声に気づいたシロクマがゆっくりとこちらに顔を向ける。視線があった。
シロクマもまた煙草を咥えている事に気づいた。僕と同じ銘柄で完全無臭の煙草だ。シロクマは前足の指の間に煙草を挟む。器用だ。しかしロボットがタバコを吸うだろうか。見たことはもちろん、聞いたこともない。
そんな風に観察できる程、不思議と僕は冷静だった。もちろん少なからずパニックには陥っているし恐怖も感じている。
「ひょっとして、俺の事が見えているのか?」
野太い声。視線はあったままだ。
「見えているんだな。煙草落としてるぞ。」
シロクマの口角が上がった。笑っているように見える。鋭い牙がキラリと光った。僕は腰を曲げ、視線はシロクマから離さずに素早く煙草を拾い上げる。
「普通もっと驚かないか?逃げ出してもいいと思うが。」
ごもっともだ。驚きで体が硬直しているのか。あるいは、あまりにも現実離れした状況に、僕の脳は驚きや恐怖に鈍感になっている状態なのかもしれない。
けれど人間の言葉を話すという点で直感的に知性を感じたし、逆に凶暴性はあまり感じなかった。それに服を着ている点もコミカルに思えた。
シロクマの黒い小さな鼻腔から細い煙が吹き出す。
「驚いてるよ。ただ情報量が多すぎて。」
そう。情報過多な状況に思考は停止してしまった。煙草を吸いに来たのだと思い出し、僕は煙草に火をつける。禁煙という張り紙が睨み付けてきたけれど、それを無視する。
シロクマの爪先から頭のてっぺんまでを観察する。再現度の高い着ぐるみなのか。しかし、先ほどのニヤリとした表情。あの表情は再現できるだろうか。
「それもそうだ。見ての通り、俺は普通のシロクマじゃない。でも取って食ったりしないから安心してくれ。」
そう答えるとシロクマは大きく口を開け、笑った。白い牙がよく見える。歯並びがいい。この立派な口で何を食べるのだろうかと考えていると、突然シロクマが体をこちらに向けて身を屈めた。そして、ずいっと顔を近づけると、あのニヤリとした顔で言った。
「お前、俺が見えているんだよな。」
目の前に白い牙が婉曲し並んでいる。さすがに体が強張る。シロクマから柑橘系の爽やかな香水の香りがした。
「見えているよ。普通は見えないものなの?」
僕は手すりを背もたれにし、シロクマの横に並ぶ。横目で見るとやはり大きな体格をしている。二メートルはあるのではないか。
「いや、見える。」
見えるのか。なんだそれは。
「知っているか。シロクマの体毛は本当は透明で筒状なんだ。光を反射して白く見えてるだけ。俺の場合、ヤニで指先と口元が茶色くなってしまっているけどな。」
その割には牙は物凄い綺麗だ。ホワイトニングでもしてるのかもしれない。
そもそもシロクマが喫煙するという点も疑問ではある。けれど絵を描く象もいる。人間でも大昔にヘビースモーカーの幼児がいたと言われているし、そこまで驚く事でもないような気がしてきた。
「なんだ。見えるんだ。」
「シロクマジョークだよ。」
そこで沈黙が流れた。答えに困ったから。何がジョークなのか理解できなかった。
「君はその、本物のシロクマなのか?」
「本物かどうかなんて、大した問題じゃない。要は見た目の問題だろう。こうして会話して、同じように服を着て煙草を吸っている。そっちの方が外見よりも重要だと思うけどね、俺は。」
「哲学的だね。でも意味が分からないし、なんだか誤魔化されたような気もする。」
「それよりも。なあ丁度いい。手伝って欲しいことがあるんだが。」
何が丁度いいのか分からない。
シロクマはパンツのポケットから携帯灰皿を取り出した。パンツを見るとポケットがやたら大きいことに気がついた。太い前足が入るように作られているのかもしれない。
「アサ!」
階段の下から同僚が僕を呼ぶ。
「まずい。仕事を抜け出しているんだ。戻らないと。」
「仕事ね、今じゃ人間ができることなんて限られてきているだろう?」
「君は一体、何者なんだ?」
しかし、その通りだ。仕事のボリュームは縮小傾向にある。これは何も僕だけに限った事ではなく、万人の共通テーマだし、何年も前から続いていることだ。
その理由は人工知能やロボット技術の発展にある。つまり、作業者は人工知能とロボットといった
シロクマは僕の質問には答えなかった。質問に質問で返されたからかもしれない。僕はシロクマの質問に答える。
「そうだね。作業の大半をコンピュータとロボットに任せているから、業務の工数は目減りしているよ。」
僕が煙草を靴底に押し当て火を消す。シロクマは無言で灰皿を差し出してきた。気が効く。
僕の勤め先は幸いにも、人工知能の開発、メンテナンスを行う企業だったため、そこまで企業縮小のあおりを受けることはなかった。
時間的余裕は増えたけれど、金銭的余裕は増えていない。これは万人における共通のテーマで、多くの人が時間を持て余している。言ってしまえば生きがいというものが薄まっていると感じる。それはこの僕もそうだ。仕事にも生活にも困っていないけれど、仕事以外に時間を費やす何かがないのだ。日々を過ごしていく中で刺激、メリハリというものがあまりない。
「そういえば君はここで何をしていたの?」
階段の目の前で踵を返し、僕はシロクマに尋ねる。
「端的に言うとこの世界の現状を変えにきた。刺激的だろう。」
なるほど、確かに丁度いい。素敵なお誘いかもしれない。
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