たとえあなたが熟女でも
《あなたのファンでした。いや今でもファンなのです》
と言ってみたいけれども、心の中にとどめてきた。丸椅子に腰を掛ける女性に、かつての輝きは全くと言っていいほど今はない。一見すると、比較的所得の高い配偶者を得る幸運になんとか恵まれ、経済的な不自由を背負うことなく過ごしてきた熟年女性だ。初対面では、あの人だ、と気付くことはできなかった。彼女とコンタクトを重ね、過去の話などを聞けるようになって、やっと島谷ちなつ本人だと確信するに至った。目じりの垂れ具合や、外耳の形状は当時と変わらない。
高校時代、同級生から借りたマンガ雑誌のグラビア写真が全ての始まりだった。彼女の写真集が発売されると知るやいなや、すぐに自宅近くの書店に駆け込み予約を入れたほどだ。ナイターが延長戦になり、度々彼女がパーソナリティを務めるラジオ番組の放送時間が削られた。野球選手に罪はないけれども、この歳になっても野球は嫌いで、終了時刻が想像しやすいJリーグのファンがもっと増えればいいのにと思っている。
毎夜のようにナイター中継がある夏より、冬が好きだった。医学部と歯学部だけの都内の私立大学に、父から買い与えられたアルファロメオで通い、授業が終わった後は軽音サークルの仲間と夜遅くまでだらだらとした時間を過ごし、ロックだのパンクだの蘊蓄を垂れ流し合っていたけれども、自宅に帰る時間には必ず、彼女の番組にチューニングを合わせていた。
島谷ちなつのCDが後部座席に置いてあるのをサークルのメンバーが見つけ、揶揄することもあったが、私は素直に彼女のファンだということを公言した。私にとっては、ロックやパンクの名だたるミューシャンと肩を並べる存在だということを何度言っても、周囲になかなか信じてもらえなかった。
平成元年の春に近づく頃、私は医師の国家試験の受験を終え、合格発表までの間、自由だが不安で、落ち着かない、フワフワした日々を過ごしていた。
不安だったのは、何も自分の将来に対してだけではない。試験のプレッシャーから解放され、昭和六十二年のクリスマスからお付き合いをしていた女性と、ようやく気兼ねなく会えると思っていたのに、彼女の家に電話をしても、電話に出ないのだ。
直観で居留守を使っているのだと分かった。試験までの一カ月間は勉強に専念したいといって、会わずにいた。その間に自分なんかよりももっと魅力的な男性と彼女は巡り会った訳だが、私は自分が彼女に最も相応しい人間であって、そんなことが許されてなるものかと思い上がっていた。
私は精神病院を経営する父の紹介で、都内の国立病院の精神科に勤務することが確約されている。そこで何年か勤務した後に、父は隠居し、病院を私が引き継ぐことが自然の流れとなっている。もちろん試験に通ったらの話ではある。医師になっても、ただ漫然と時間を過ごせばいいというものではなく、鍛錬は必要だ。でも約束はされていた。他の精神科医がするのと同じように、その日その日のやるべきことを乗り越えていけばよかった。
そんな自分よりも、もっと魅力的な人間は誰なのか。何が自分には足りないのか。当時の私には見当がつかなかった。買い与えられたアルファロメオで東名高速を走行中、自分の気持ちを伝える術がないことが悔しくて、たまらずアクセルをふかしたら白バイに呼び止められて切符を切られる。自分の道は約束されているのに、空回りをしている。どうしたら彼女に想いを伝えられるのか。私は何を血迷ったのか自宅近くの公園にある電話ボックスで緑の公衆電話にテレホンカードを挿入し、島谷ちなつのラジオ番組の、楽曲リクエスト用の電話番号をダイヤルした。
英美は私をお兄ちゃんと呼び、お兄ちゃんはリッキー・アストリーに似ていると言われないの、とよく聞いてきた。電話に出たアルバイトの女の子に、リッキー・アストリーの、なんでしたっけ、『ネバゴナギビュアッ』という歌、あれをお願いしますと言った。女の子はああ、あれですね、分かりますよと言い、その後何か色々と聞かれたけど、元来あがり症なので覚えていない。
電話を掛けた日にリクエスト曲は流れなかったので、そんなものかと思っていた。しかしその翌日、番組の最初に、私のペンネームが呼ばれ、英美へのメッセージが、ちなつちゃんの口から読み上げられた時は震えが止まらなかった。
Never gonna give you up. 決して君を諦めない。
ネバゴナギビュアッの邦題は『ネバゴナ』が切り取られて『ギブ・ユー・アップ』になり、諦めなさいとの反対の意味に変わる。恥ずかしい話だがこの時は知らなかった。番組が終わってから、英美の家に電話をした。彼女は変わらず、電話口には現れなかった。振り返ると、そんな女のことなんて諦めなさいと、ちなつちゃんに言われたような気もする。
英美への未練が完全になくなるまでは結構な時間が掛かった。それでも国家試験に合格し、国立病院への勤務が始まって、多忙な日々を過ごすうちに、恋愛に意識を傾ける余裕はなくなった。ナイターの季節になったし、特に夜勤もあったので、ラジオ番組を聞く時間もなくなった。コンサートの告知を目にしても、鼻から行けないだろうなと諦めてしまっていた。
精神科医として接した人間が、自ら命を絶ち、無力感のどん底に突き落とされる経験を何度もした。お前は俺を薬漬けにする気かとすごまれ、首を絞められたことだってある。気晴らしにスナックにでも行くと、精神科医って気楽な仕事じゃない、患者さんの愚痴にうんうんとうなづいて、睡眠薬を処方すればおカネになるんでしょう、と自分より年下の女性になじられる。
自分の境遇を恨むことさえあった。精神病院経営の家に生まれなければ、こんな無力感を味わうこともなかったのだと。卑屈な自分を英美がせせら嗤っている。私は正しい解を導き出したのよと。
ちなつちゃんの笑顔は、もちろん芸能の世界だしそれが作られたものだというのは百も承知しているけれど、リアルな嗤いから視線をそらし、忘却させる力があった。非番の日、ちなつちゃんのコンサートを収録したVHSを繰り返し見るのが、私にとって必要な癒しであったのだ。だが、そんなことは決して言わない。彼女が口を開いた。
「先生、私の治療っていつまでかかりそうなんですか?」
「まだ回復には程遠いかな。辛抱できる?」
「うーん、どうだろう。それとね先生。私は薬が大っ嫌い。よく精神科のお医者さんって、患者を薬漬けにするっていうでしょう。今貰っている薬もね、飲みたくないし、本当は飲んでないの」
「だから回復に時間が掛かっているんだよ」
「漢方も嫌だ。薬飲みたくないし、ここに通うのも面倒だから、本当は来たくないのに、ちゃんとこれまで通ってきたんだから。もうそろそろいいでしょう?」
「まだ早いから。来週は来られそう?」
「そういう風にまた言うし。一週間に五分ぐらい話しただけで私の何が分かるのよ。言っておくけどね、精神科医って世の中から、本当に信頼されていない存在ってこと、分かっていますか?」
「今、治療止めたら、また元の繰り返しになるよ。あなたは病気なの。その病気の根源的なところに、あなたのパーソナリティ障害があるの。でも時間は掛かるけど、あなたのケースは治るから」
「じゃあせめて、どんな状況になったら完治したことになるのか、示してください。それに向かって頑張りますから」
私は頑張らなくてもいいと強調したうえで、あえて熟考するような素振りを見せてから、彼女の耳に響くように丁寧に言った。
「青臭いこというけど、隣人を愛せるようになって……。いやいや、もうちょっと簡単に言えないかな。うーん。その人に素直に、私と関わってくれてありがとう、と言ってあげたいと思えるようになったら、かな」
「そんな隣人いませんよ。私は夫と別れたし、子どもいないし」
「隣人という言葉を使ってしまったけど、家の扉を開けて外に出るでしょう。その時に顔を合わせる人を、大切にすべきかなとと気付けるようになった段階で、ここには来なくてよくなるよ。そのためにはまず、自分が大切な人間なのだと思えるようになることが、大事なんだけどね」
「ふうん」
「まだ薬余っているんでしょう。今回は出さないから、また来週、話を聞かせてください」
「はあい」
島谷ちなつは立ち上がり、なんだか釈然としない表情をしたまま一礼をして、診察室を後にした。
来週、彼女はちゃんと診察に来るのか。一抹の不安を感じた。彼女の今の状態からみて、医師として通院の中断を許すことはまだできない。定期的な外出の機会と他者との交流がなくなれば、再び彼女は反社会的な行動に走ることとなるだろう。
半面、自己を放擲しようとせず、自分の意思をしっかり口にできるようになったという点は、回復の証なのかもしれない。ファンとして、彼女と対峙する時間を得たのはある意味、幸せなことである。でも自分は医者だ。彼女との別れが早期に、それも自然な形で訪れることこそ、祈り続けるべきことなのだ。
あなたはおばさんになっても、生きている。あなたが復活し、再びコンサートを開き、光あふれるステージの中央で踊る未来があるのなら、私は迷わずチケットを買って会場に向かい、年甲斐もなく声を枯らして、あなたに向かって何度も何度も、左右に大きく手を振るのだろう。
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