カウンシラー

 《両手を大きく振った後は深呼吸……。六、七、八。これでラジオ体操第一を終わります》


 地下鉄の駅のほど近くにある診療所の二階には、体育館にしては狭く、教室にしては広すぎる、杉板張りの床の多目的空間がある。パーテーションで区切られた奥の方には調理室がある。


 ここに来たばかりの人間はまず、通所者の昼食を用意するチームに加わることになっている。今、ラジオ体操を終えたばかりの集団とは別に、その同じ時間に、専属の栄養管理士は新しく施設に通うこととなった患者に対し、食材の買い出しを誰がするのか、洗浄したばかりの食器の清拭を誰がするのか、あれこれと指示を出している。


 ラジオ体操を終えた集団には「私」がいた。島津千秋だ。


 彼女は調理班に入った後、ずいぶん長い間、一切口を聞くことはなかった。やがて可能な限り早く、このようなくだらない治療に時間を奪われる状況から脱したいと考えるようになったのか、極めて事務的に、表面的なコミュニケーションをとりはじめた。


 こうした没個性的な姿勢がとれるようになったこと自体は、ある意味評価できることと言えるのだが、力みの入った不自然なものであった。歪んだ人格の根本を深く認識し、向き合える段階に達することができない以上は、やはり再び問題行動を起こしうるのだと言わねばならない。島津千秋の自己評価のレベルはまだまだ極めて低く、思考の癖の矯正にも相当な時間が掛かるとみられていた。


 「ではみなさん。それぞれのお部屋にご移動なさってください。忘れ物しないように気を付けてくださいね」


 ラジオ体操を終えた三十人ほどの通所者は、医師と精神衛生管理士の指導のもと、日ごとのスケジュールが決められ、管理されている。朝九時から三十分、ウオーミングアップをした後、午前と午後に二時間ほどのプログラムがあり、その間に調理班が用意した昼食が供される。


 多目的室を出た先の廊下には、両側にドアがいくつも並んでいる。ある部屋ではマインドフルネスという名の瞑想が行われ、ある部屋では模擬的なオフィス環境での簡易な作業を通じ復職への動機付けを促すプログラムが行われている。


 彼女が入った部屋は、壁や天井が黒の塗料で塗り固められ、窓のあるあたりには分厚い遮光カーテンが垂れていた。パイプ椅子が十脚程度、二列で等間隔に並んでいる。LED照明器具の照度を落とすと部屋は暗転する、小劇場を一段と小さくしたような空間だった。そのうちの角にある一脚に腰を掛けて三分ほどすると、ぞろぞろと、クライアント三人とファシリテーター一人が部屋の中に入ってきた。合計五人がいる部屋のドアは無表情なファシリテーターによって閉ざされた。


 「はい、ではですね。きょうはみなさんに、なりたい人間になっておよそ十分間、過ごしてもらいます。なりたい自分ですよ。なりたかったでもいいです。ほかの人のこととか気にしなくていいですし、今さらそんなの無理とか考えずに、十分間なりきってもらいます」


 小柄で小太りな三十がらみの女は緑色のワンピース姿で、甲高い声を部屋に響かせた。


 「まずは誰になろうか、考えてもらいたいと思います。いったん部屋を暗くします。十分間、音楽をながしますから、目を閉じながら、ゆっくりとイメージを膨らませてください。いいですか? では、まいりましょう。お願いします」


 ファシリテーター役の女はリモコンを操作し、天井にあるLED照明の光量を少なくしていった。暗闇が広がるのに合わせて、オルゴールのかすかな音色が部屋を満たしていく。パイプ椅子に座る四人の瞼が、力なく閉ざされていった。


 島津の瞼の裏には、脳内から発出された微弱電流が鼻に向かって流れているせいなのか、黄色く明滅する川があった。なりたい私を問うなんて愚問だと感じた。どんな人間も、ありたい自分とここにいる自分との間にはギャップがあるのだし、そういう前提を無視してただ仮想的な自分を設定する意味がどこにあるのだろう。そうはと言っても治療の一環らしいし、席を立って外に出たとしたら、自分への監視の目がより厳しくなる。その場を上手くやり過ごすのが得策だった。


 オルゴールの音色は聞いたことがあるなと思ったら、ジョン・デンバーの『カントリーロード』だ。ウエストバージニア。バージニアスリム。ロストバージン。


 なりたい自分というのは、失った自分なのかもしれない。二度と取り戻せない時間を生きた自分なのかもしれない。


 「……では、ゆっくーり、目を開けてください」


 部屋が明るくなる。瞼を細める四人が、首を回したり、背伸びをしたりしている。明るくなった会議室の角には、先ほどはなかった南国風の、背を幾重にも捻じった観葉植物が置かれ、遮光カーテンの外にある正午前の柔らかな日光を求めてうずうずしているようだった。島津は背筋をまっすぐ伸ばしている。細い頸筋と、そこから下に流れるなで肩には、衆目黙を集める存在感があった。


 島津を除いた三人はすっと立ち上がり、会議室を後にする。


 入れ代わり立ち代わりに初老の女性が入ってきた。


 背は自分と同じように、すっとまっすぐに伸びていて、背丈と肩幅はまるで自分と同じぐらいだ。やつれた面長の顔に、二重瞼の垂れ目が不釣り合いで、肩まで伸びた髪は幾筋にも白いのが混じっていた。紺のワンピースから覗く素足の先には、若々しい真っ赤なエナメルのローヒールがアクセントを与え、つま先が外に開いているのが、彼女の生育環境の悪さを露呈していた。


 「よろしいですかね、こちらに腰を掛けても」

 「ええ。構いませんよ。ええっと二十……、二十三番の方でしたっけ」

 「ええ。電話で予約いたしました。二十三番の者です」


 私と女は同じタイミングで咳払いした。女は気まずそうに口を開く。


 「二十三という数字は素数ですね。カルチャースクールの数学教室で習いました。空気のような『一』か、自分自身でしか割り切ることができないから、きっと二十三自身の内部は混沌としているのだろうと思います」


 私はぎょっとした。私も、二十三という数字を口にして、なぜか分からないが素数だと思ったのだ。でも、もう一つ浮かんだことがある。司法試験の勉強以外、何もしなかった歳だったということ。さすがにそれは女の頭にはないだろう。


 「メールを拝見いたしました。この度はご愁傷様です。亡くなられた旦那様のお住まいの相続のご相談ということでよろしかったでしょうか?」

 「はい。遺言状を用意する間もなく、急に他界したものですから」

 「今は旦那様のお住まいにいらっしゃるんですか?」

 「いえ。私自身は夫が購入したマンションに住んでいるんです。ずいぶん長く別居状態にあったんですけど、連絡は数年に一回は取り合っていてですね。ただ夫の弟さんが、あなたは兄貴にロクに嫁らしいこともせず精神的な負担を掛けてばかりいたので、兄貴名義のマンションなんかに住む資格なんかないからすぐに出ていけというのです」

 「失礼ですがご子息はいらっしゃるのですか?」


 女は一瞬、口をゆがめた。


 「お答えしにくいことをお伺いしてしまい、心苦しく思いますが、この先のお話を進めるうえで重要なところでありますので」


 女はちらりと会議室の観葉植物に目をやった。そして深呼吸をして、口を開いた。


 「二人いました。双子のきょうだいで、上が女の子で下が男の子でした。夫は強迫事件を起こして服役をしていたので、狭い団地の部屋で二歳半ぐらいまで三人で暮らしていまして」


 私は、すっと、彼女の瞳に吸い込まれそうになった。


 「お姉ちゃんはよく弟を虐めて泣かしていましてね。弟の顔を平手打ちするのはまだ許せるとして、首を絞めて失神させたことがあって、ひどく叱ったんですけど、なんだかその、夫にそっくりというか、先天的にそういうのがあるのではないかと悩みまして。人格的な問題と言ったらいいのでしょうか」


 私は胸の苦しくなるのをこらえながら、事務的な対応をとるべきだと自分に言い聞かせた。


 「娘は結局私が育てきれないので、養子に出しました。ただネットで調べると、そういう養子でも、相続の対象となる可能性があるのだと書いてありまして」

 「弟さんはご一緒ではないのですか?」


 私は平静を保ちつつ尋ねた。


 「弟はこの世にはすでにおりません。お姉ちゃんには首を絞められましたけど、二十三歳の春に自分で首をくくって死んでいきました」


 女は平然としていた。水道の蛇口から水が一滴落ちていきましたというような、感情のかけらを感じられない物の言い方だった。


 「息子は、アイドルのね、島谷ちなつの大ファンでした。高校の頃、長野の片田舎で一軒しかないレコード店に足を運ぶと、きまって彼女のCDを買っていたのです。夜中に大音量で音楽を掛けて、近所から苦情が来るほどでした」


 《その島谷ちなつは》


 私はそう言いそうになったが、口が動かなくなった。透明な第三者が口角と横隔膜周辺の筋肉の動きを強制的に止めたような感覚だった。私自身、なぜそんな根拠のないことを、あたかも自然のこととしてとらえているのか、分からない。 


 「息子がすごく大好きな曲があったんだけど、ええっと、何だったかしら。よく思い出せなくなるんですよね。お葬式でもかけてあげたぐらいなのに。あの当時はね、二十四時間働かないといけない世の中で、我慢して組織への忠誠を果たすことが今よりもっと美徳となっていましたけど。生まれた頃から、自分が何者なのかを上手く表現して、相手と目線を合わせて話ができるような人ではなかったのです。つまりそういうことで追い詰められたんじゃないかと私は思っているんです」


 しん、と張りつめた空気が会議室を覆った。私は喉につっかかる、ひりひりした感触を覚えながら、弁護士としての役割を果すべきだと心を入れ替えようとした。でも、想いとは反対の言葉ばかり口に出てしまう。


 「下の子ではなくて、上の子を養子に出したんですね」

 「その、娘には申し訳なかったんですけど、その当時、夫が憎かったものでして」

 「娘さんとは連絡をとろうとなさらないのですか?」

 「それはそれで申し訳ないというか。養子に出した後は、まめに電話をしていました。ただ、いつの頃か、夕食時に電話をして近況を伺った時、電話越しに『ママ、ママ、はやくチャーハンちょうだいよ』と娘が言うのが聞こえて、すごく寂しくなったというか、いや嫉妬したのかな。新しい家族に迎えられて、愛情のある環境に身を置いていることに対して。大人げないですけど」


 大人げないですけど、と言う女の声調は、私なんかよりも事務的なきらいがあった。かえってその話ぶりは、いつになく雑念に振り回されている私に、鎮静剤としての効能があったのかもしれない。


 「そういう娘が一人いるものですから、彼女の存在を夫の弟さんに伝えたところ、激高なさって、財産狙いのクソババアと罵ってくるものですから、協議は難しいなと感じまして、私の言い分を先方にしっかりと伝えるには、弁護士の方のお力をいただかなくてはならないと考えてまいりました」


 女の目には、救済を懇願する人間の、ある種の卑屈な色は全くなかった。自分のとる行為は有利な立場を得るための戦略の一環で、自分の意思でそれを選んでいるのだというような、芯の通った姿があった。こうした境地にたどりつくにはどれほどの時間が掛かるのだろう、と考えさせられる。


 私は黙ったまま、彼女の依頼に応じようと、ファイルから紙片を取り出して、弁護費用などの説明を始めた。


 「もう十分間、経過しましたけど」

 「この十分間は、大丈夫です。料金は発生しません。正式な申し込みを済まされてからとなりますので」

 「いえ、そうじゃないんです。島津さん」

 「島津、ですか?」


 ──目を凝らすと、女のワンピースの色が紺から緑色に変わっている。体型も、さきほどよりはふくよかだ。


 「ロールプレイングの終了のお時間です。ずいぶん成り切っていらっしゃいましたね」

 「ロールプレイ……」

 「感想については後ほど、皆さんと共有いたしますので、ひとまずお疲れ様でした。扉の外の席でお待ちください。では、次は、ええっと。宮前さんですね」


 この後、私はファシリテーター役の女性に、実際になりたい自分になってみてどう感じたのかと問われ、全員の前で報告することを求められた。私はあまりにも個人的な話なので、ここであえて話すことには強い抵抗感があるのだと、正直に訴えたところ、無理して話をしなくても大丈夫だから、自分のなかでしっかりときょうの体験を吟味してほしい、と諭された。


 喉の奥には、まだひりひりした感触がリアルに残っていた。

 

 ──その夜、家に帰って一人になると、無性に「息子」に会いたくなった。仮想現実で対面した女の息子ではない。現実世界で出会った、嗜虐対象としての仮想的な息子のことだ。LINEに今すぐ会いたいのとメッセージを送ったが、既読のまま放置され六時間経ち深夜になった。自分の衝動が抑えられず、もう一度、会いたいとメッセージを送ってみる。三時間経ったが、返事はなかった。


 気を紛らわしたいと考えて、インターネットの通販サイトにアクセスする。検索ボックスにいれるワードを思案したあげく、「息子」と入力してみると、映画のDVDや文庫本などがヒットした。それもいらない情報だった。私を満たすのは一体何なのだろう。涙が出てきた。ぐしゃぐしゃになった視界で今度は「島谷ちなつ」と入力してみた。十五年前に発売したCDや、大昔の写真集がヒットした。ここにはいない私がまだ存在していた。が、今も生きていると言うのは憚られる。今も生きているのなら、仕事をしているに決まっている。


 こんな身体だもの。脂肪の蓄積した腹部、一日でも歯磨きを怠ると悪臭が漂う口腔、日の当たらぬ場所で生気なく伸びた、うどのような二の腕。動脈硬化の進行を示唆するような、手の甲に浮き出た血管の筋。黒ずんだ乳首。動かすたびに鈍痛が走る腰。


 反社会的な人格を受け継いだのは私のせいじゃないの。国立大学に行かなかったのは、私のせいじゃないの。私はただ、与えられた環境で、自分なりに頭と体を使って、生きてきただけなの。その結果が今なの。ここから何を望めばいいの。セクシーな下着をインターネットで買ったとしても、あと少しでおばあさんよ。一体何を頼りにすればいいのよ。


 大昔の私が、涙のなかで左右に揺れた。


 やがて朝になった。その頃には疲れ果てた私の視界は暗転し、眠りに落ちていた。


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