ただひたすら逃げる
あの日以来、私は自治会の仕事が億劫になった。
歩いて十五分のところに、この沿線で多店舗展開するスーパーマーケットの中核店があって、そこに行くとスパークリングワインが、税抜き三百九十八円という、この地域の最安値で販売している。
酸化防止剤が強めに効いているのだろう。一人で一本空けると必ず翌朝、頭がズキズキして痛む。もう二度と飲むまいと後悔する。なのに夕方になると苦痛は和らぎ、またあの炭酸濃度の高いあれを口にしたくなる。
大量に購入する必要に迫られた私は、インターネット通販サービスを利用して、二ダースほど注文して、トラックで届けてもらうようにした。こんな安酒に合うつまみなど、駄菓子ぐらいだ。甘ったるい帆たらをつまみながら昔話をし、大笑いしたい。でも語らうべき人がいない。
毎週水曜日は、缶と瓶、ペットボトルの収集日だ。収集場までの道を歩く間、半透明のビニール袋に、スパークリングワインの緑青色の瓶が大量にあるのを近所の人が目撃したら、どういう噂が立てられるのか。収集場の近くには、このあたりでも大きなお宅がある。
そこに住む奥様は、熱心な新宗教の信者で有名だ。もし彼女の目にとまったら、心の隙間がないかどうかを探りに、私の家のインターホンのボタンを押しに訪れるかもしれない。近所の人だと面倒だし、そういう人が増えるのは困る。
玄関の花壇に植えた草花はすっかり枯れ果ててしまった。だらしないと思いながら、始末する元気も気力もなかった。
死んだ夫と私が結婚したのは三十年ほど前に遡る。結婚生活はわずか五年で終止符が打たれた。結婚式の一年後に夫との間に設けた息子の海斗と、二人だけで過ごした時間はどのぐらいだっただろう。あの子が四歳の時に夫が脳溢血であの世に行き、息子は大学を卒業して社会人になった後、一人暮らしを始めたのだから、十八年か。私は一人っ子で、両親は他界していた。ピアノ教室で何とか生計を立てていったのだけど、血のつながった存在は、実に息子だけだった。
東証一部上場の事務機器メーカーの文系総合職として入社し、幹部候補生の扱いで英才教育を受けているのだということは、本人の口からそれとなく知らされていた。大学のゼミには官僚の世界や銀行、外資系コンサルティング会社に入った仲間もいたようで、なんだか負い目を感じているようにも見えたけれども、私に言わせれば、十分すぎるほど立派に育った。十分すぎた。裂け目が少しでも入れば、全体に亀裂が広がるような、脆さも内包していた。だからこそ美しかった。
疫病が街を襲い、人と人との接触を控えるような社会的な圧力が掛かると、事務機器の需要は大きく落ち込み、息子の会社は上場来の大赤字を計上した。疫病さえなければと経営陣が恨み節を上げていた頃、息子はスマートフォンのアプリを通じ、感染者の濃厚接触者の一人である可能性があるのを知った。入社してようやく一年が経った頃だ。
無用な正義感からPCR検査を受けたところ不運にも陽性と判明し、正直にありのままの事実を会社に報告した。馬鹿正直に。会社は息子に、馬鹿とは言わず、人事的な処分を科すこともなかった。その代わり、息子の目の届かないところで、集団で嘲笑し蔑視した。幹部候補生のなかでもトップ集団にいた息子の評判は、音を立てて崩れ去った。
運命に抗いきれず、全てを諦めてしまった息子の死因は、法医学の専門家が言うには、アルコールと合法ドラッグの併用による急性心不全である。私には半分、自殺のようなものだと聞こえる。想いを馳せた女性が傍らにいる訳ではなく、私にも何も言わず、この世から逃げていったのだ。
いいんだよ別に逃げても。逃げたいと思うほど、あなたは、身を切り刻まれるような心地だったのだから。息子のケータイに何度電話をしても繋がらず不審に思った課長代理がマンションの管理会社の方と部屋に入った時、息子はもう息をする子ではなくなった。警察から連絡があった時、電話の声の男が何を言っているのか、本当に分からなかった。遺体安置室で亡骸と対峙しても、そこに横たわる男と十八年も過ごしてきたという事実があったことが信じがたかった。
こういう時は涙を流さないといけないのかなと思い、ポーチからハンカチを取り出した。涙よ出てきなさい、涙よ出てきなさい、出てこなかったら、私は鬼畜と思われてしまうではないの、と自分を鼓舞し、ようやく一滴の涙を絞り出した。
至って乾いた時間だった。通夜の日、葬儀会社はハイヤーを自宅前までわざわざ用意してくれたのに、私はまるで、かつてのパート先に出掛ける感覚で、市営バスの停留所まで歩いて、見慣れた市営バスに乗り、T駅周辺のセレモニーホールに向かった。時間通りに到着した時、葬儀会社の職員がほっとした表情で、ケータイに何度も電話したんですよ、と言ってきた。ハイヤーの運転手が何度もインターホンを鳴らしても応答がなく、もしやと考えて警察に電話をするところだったという。
葬儀が終わり、遺体を焼却し、カルシウムの集合体とその粉末を目にしても、涙というのは出てはこなかった。ああいけない、とハンカチを出そうしたけれども、いい加減面倒くさくなってきた自分がいた。こうして私は完全に一人になった。
たまに息子の中学時代の同級生が、誰から聞いたのか知らないが私のケータイを鳴らし、安否を確かめてくれる。彼ぐらいしか、外界から積極的に関わりを持とうとする人間はいない。自治会の方々との接点は、どちらかと言えば相互に消極的なものである。
同級生は木下さんという。新宗教の信者獲得に熱心で、日曜日に信者同士の集まりがあるので来ないかと、忘れた頃に話を持ち出してくる。断るのは悪いけど、心の隙があっては組織の思う壺である。適当な額の金銭を支払って、これで美味しいものを食べて元気になってと言って逃げ回った。木下さんはきっと自分の布施の足しにしていたに違いない。
樋口一葉は作り笑いを一切することはなく、ただただ無表情のまま、私の元を去っていった。酒代だけでなく交際費もかさむ。ゴミ収集場の近くのお宅から、別の宗教の勧誘を受けた時に言い逃れをするための金銭的な余裕はもうない。この年齢でパートになど出ようものなら、ご近所は困窮した有様を好奇な目で眺め、私のいないところで、結合力を強めるための材料とするはずだ。衆目を臆せず仕事に出たとしても、郵便局であれスーパーであれ、そもそも体力のない人間なのだから、使えない人間だとして罵られるのがオチである。
木下さんへの出費は月にしたら多い時に二万円、少ない時でも一万円ぐらいだった。こんな暮らしをしていたら固定資産税を支払えなくなるかもしれない、何とか、酒だけでも断たなければと思うのであるが、我慢できないので安酒を飲んでいる。それでも量が増えれば何も変わらない。
気が付いたら地図を眺めていた。どうやったら、効率よく消えることができるのかを考えていた。
幹線道路の真上を高架橋で繋ぐ都市高速道路がある。幹線道路の右車線から分離して料金所に入るインターチェンジは、いくつもある。そういうところは概して、上り線と下り線に挟まれた空間に高速道路への料金所と進入路を設けている。坂路となる進入路の途中でハザードランプを点滅させて停車し、車外に出て、進入路の壁を登って外へ飛び下りる。幹線道路は両方向とも追い越し車線になるから、車のスピードは速い。トレーラーとかなら、それなりのエネルギーで私の身体をすり潰してくれるに決まっている。
でもその場合、トレーラーの運転手が罪に問われてしまう。これが鉄道だったら話は変わってくる。線路に故意に侵入したと判断されれば、侵入した人間の罪がまず問われる。高速道路の進入路の両脇を鉄道が走るような、虫の良すぎる場所はないのか。高架橋の脇に線路が敷設されている場所はいくつもあった。グーグルマップで下見をし、飛び込み込み防止用のフェンスが低い場所などを中心に、関東近郊で候補を三カ所に絞り込んでみる。
買い物でしか使わない十年落ちのホンダ・フィットをとことこと走らせた。各駅停車の電車以外は通過する駅のロータリーにフィットを止めて、高架橋に向かって歩を進める。フェンスはちょうど、フィットと同じぐらいの高さだ。キッチンの手の届かない場所に物を収納するために購入した踏み台があれば、なんとか超えられると目論んでいた。
ロータリーから百メートルもない、目星をつけた場所に到達すると、折り畳み式の踏み台を設置して、直線を猛スピードで突っ走る電車がやってくるのを待ち続けた。時刻表によると一時間に五本以上、そういう電車が通る場所だ。概算で私に残された時間は十二分ほどだ。
十二分間、踏み台を足元に置く初老の女性。怪訝な目や、警戒の目が集まるのが、気持ちよくはあった。ああ自分は生きているのだなと実感できた。フェンスの網の向こうに青々とした山並みが見え、雲一つない空が包む混じりっけのない純粋さがよかった。そのスクリーンを血糊で汚す時間が刻一刻と迫っているのだと考えていた時、私の肩にカパっと、手が乗る感触がした。乾燥した分厚い手だった。振り向いた。木下さんに似た男が、目を閉じてお経を唱えているのかと錯覚したけれども、違った。目を擦る間もなく、その制服から警察官だと分かった。
特急電車が轟音を上げて通過していく。
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