拍手が大嫌い

 息子はちゃんと意識があり、命に別状はなく、しばらくは明瞭に喋ることが難しい程度の負傷だったと数日後、若旦那から聞かされた。Mの音が発音できず、ママと言いたくても、アアとなってしまうらしい。医師の診断では後遺症の心配はないそうで、弁護士を通じ賠償を求めるような意向も息子にはないのだという。


 そもそも一連のプレーで起きたことだ。草野球だって、ママさんバレーだって、ケガをする人間はケガをする。一般的には殺意があったか、故意に傷害を負わせたのかなどが争点になるのだろう。この場合は身体的な危害が及ぶ可能性があることを双方がある程度理解したうえでのことだ。


 こういう趣向の人々に対する保険商品があったら、かなりの引き合いがあるかもしれないと、くだらないことを考えながら、私は若旦那から受け取った一枚の紙片を折りたたんで胸のポケットの中にいれて、市内を縦断する地下鉄に揺られていた。


 若旦那は、しっかり治してください、あなたは病気だと思いますので、と言った。私に関心を抱いてくれたのが嬉しくて、目と目があって二分ぐらい沈黙したらキスをしたいなと妄想をしたけれども、若旦那はそっけなく、ロボットのように踵を返した。その背中に埋め込んだ透明なスピーカーから、きもいんだよばばあ、という音を、正常な人間の耳には聞き取れないぐらい高い周波数で発信させたような気がして、私は傷ついた。


 言葉が満足に話せないのなら、しばらくプレーは成立しない。もう息子はアカの他人になったのだ。新しい息子は、その気になったらまた手にできるのだろう。なんなら、今から行く場所にだっているのかもしれない。


 指定された時刻の二秒前に受付に着き、その二秒後に自分の名前を名乗った。


 「あの、私が来るというのが連絡がいっていると思うんですけど、島津千秋という名前なんですけれども、伝わっていますでしょうか」


 アクリル板で仕切られた受付の向こう側には、市松人形のような、黒髪のふっくらとした色白の女性が無表情で座っていて、事務的なやり方で番号札を渡してきた。それから、据え付けのアルコールジェルで手指を消毒するように求めた。


 「私が、ばい菌だということですね。はい。わかりました」


 市松人形は微動だにしない。真っ白の壁紙の待合室に人は誰もおらず、三列に並ぶ黒い合皮の長椅子に、養生テープを×と張られたのが所々にある。


《番号札、十七番をお持ちの方、三番の診察室へどうぞ》


 やたら横によく滑るドアだった。目に入ったのは、また真っ白な壁紙に囲まれた空間で、事務机と二脚のパイプ椅子が据え置かれている。舞台上のコントがこれから繰り広げられそうな、コストを抑えた簡略な備品が、空間の無機質さを際立てた。


 部屋に入るとすぐに、白衣の女性が現れた。足元は安物のジーンズで、百円均一ショップにでも売っていそうなバレーシューズを履いているのを見て、医者なのに貧乏なのだと笑いがこみあげそうになる。話をするうちに彼女は医者ではなく、アシスタント的な立場にいる人間だということを知るのだが、この時はまだ医者だった。


 あえてみすぼらしい恰好になって私のような人間と同じ目線で話ができるようにする戦略ではないかと、訝しむようになり、この人を虐めたいと思うようになった。背は低く、ショートカットで、頬には常態的な赤らみがある。きっと学生時代はソフトボール部に所属していたに違いない。


 「お名前をフルネームでおっしゃっていただけますか?」

 「名前ですか? そこに書いてあるじゃないですか」


 女が左手に持つボードには私の名が記されたプリント紙が固定されている。無駄なことはできればしたくない。


 「あ、いえ。ご本人かどうかを確認するためなので」

 「そうですか。あの、こういう、人の名前を聞くときって、まず自分の名前を名乗ってから聞くのが、礼儀でしょう」

 「ああ、失礼しました。私は神村萌と言います。お名前を教えていただけませんか」

 「萌さんね。みずほ銀子といいます」


 若い女が前にいるから、嫉妬もしている。


 「銀子さんとお呼びしていいですか」


 萌はしなやかに反応したので、馬鹿馬鹿しくなった。


 「だからそこに書いてありますけど」

 「どちらでおよびすればいいですか?」

 「じゃあ島津で。呼び捨てでいいです」


 私は目の前の女の顔から、困惑の表情が強まっていくのを期待した。だが、まるで高性能の半導体で皮膚が制御されているかように、表情には微塵の変化もなく、女は自然に振舞っていてむかついた。


 「島津さん」


 呼び捨てでいいって言っているのになんだよこいつ。


 「なぜここにいるのか、分かりますか?」


 言葉が出てこない。なぜだっけ。


 「きょうは何時に朝ご飯を食べられましたか」


 質問を聞いても、答えようという意欲が湧いてこない。いや違うな。答えたら負け。


 「答えたくない?」


 私は素直に首を縦に振る。喉の奥がひりひりしてくる。


 「じゃあ、無理に声を出して答えなくてもいいですよ。疲れちゃいますからね」


 女は引き出しを開けて、紙の冊子と、HBの鉛筆を取り出し、事務机の上に置いて私に見せた。


 「十五分ぐらいで終わる簡単なテストなんですけど、別にね、この結果で島津さんが素晴らしい人なのかとか、そうじゃないのかとか、そういうのを確かめるものじゃないんです。私たちがね、島津さんが日頃どういうことで幸せになって、どういうことで苦しさを感じられるのかを知るために、あくまで参考にさせていただくものですから、十五分といいましたけど別に早く済ましてしまっても、じっくりやられても構いません。ご協力いただけますか?」


 三十秒ほど黙ってから、仕方がないなあ、という素振りを見せ、私は机の上の鉛筆を手にすることにした。そうでもしないと帰れない。


 時計の秒針が動く音。拍手の音。


 フロアの一角は、復職を目指す人のためのリワークプログラム用にあてがわれている。私は紙冊子の質問文に目を通す。そして最も自分に当てはまりそうな選択肢の数字を丸で囲む。一問ごとに、拍手が沸き上がる。


 ああ! 自分自身がこんなに腐っているのに、腐りながらも体裁を整えて、均衡を保ちつつ何とか周囲と調和しようと私なりに努力しているのに、他の人間が腐っていないなんて。


 拍手は嫌いだった。本物の不機嫌さが沸々と自分の奥から立ち上がっていく。その場にずっといて聞かされると、気分がもっと悪くなる。たまらず耳をふさいで、事務机に突っ伏してしまう。ごめんなさいごめんなさい。必要もないのに謝りたくなる。


 「お姉さん、あの拍手なんとかならないの? どこかドア空いているんじゃない?」


 苦情を言うと、女はなにも言わず席を立って、受付に出た。クリニックと廊下の間が閉扉されると、拍手は弱まった。つくづくよかった、と思う。

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