あのね、お姉さん


 ベッドにやっとの思いでたどりついた後に見た夢は鮮明に覚えている。


 私はその世界の権威者で、生殺与奪の権を持っているとさえいってもいい神崎をかんちゃんと呼び、あるはずもない尻尾を振って近づいてきたかんちゃんに顔を足で踏んでくださいと頼まれた。かんちゃんがそういう嗜好を持っていたのは事実で、現実の世界でも頼まれたことがある。


 初めは恐る恐る、右足の親指あたりからゆっくり圧を掛けて踏んだのを覚えている。その日、夢を見ている時は、現実の世界ではないと肌感覚で察知していた。恐る恐るというステージはとうに終わり、ああ、いつもの要求がまた今日も示されたのだという感じで、ビジネスライクにかんちゃんの衣服を脱がせ、白い肌着とブリーフ姿にし、決して豊かとは言えない毛髪を鷲掴みにして引っ張って、床に伏せさせた。鼻血が出るまで踏みつけてやろうと力を込めて、かんちゃんの頬に置いた足を、万力のごとく床面に押し込んだ。苦悶するみせたかんちゃんの頸から、鈍い破擦音が響くと、かんちゃんは気を失って口から泡を吹くようになった。


 かんちゃん、かんちゃん。ねえ。起きてよ。ああ、死んでしまったのかな。私は何も気持ちよくなかったのに、苦悶したかんちゃんの表情が恍惚としたのに変わっていて憎らしい。まるでイチゴ大福が食べたいとずっと八十日間我慢していた男が、イチゴ大福をとうとう口にした瞬間のような顔だった。


 夏用の、薄い半袖のセーラー服姿だった。胸ポケットに生徒手帳が差し込んである。死んだ男の横で生徒手帳を開いて、一から十まである校則を読み上げて、私が何ら罪を犯していないことを確認しようとした。事実、人を殺してはいけないという校則はなかったし、私がいる世界の法体系が現実世界と同じようなものであるようにも思えなかった。逃げる必要はなさそうなのに、次第にこの場から立ち去りたいという恐怖が強まっていく。


 生徒手帳には「困ったら」と大文字で記されたページがあり、行政機関の相談窓口の連絡先となる電話番号が列記されている。逃げたい場合の相談相手は、児童相談所のようだ。


 私は立ち上がって公衆電話を探しに外に出た。一階にいる管理人の、ぎょっとするような視線を逃れ、往来に出たら、豪雨が襲った。でも電話したかった。下着の繊維に雨水が浸透するのを感じながら、傘もささずに歩き回った。レンガが敷き詰められた往来は焼肉の臭いが充満していて、ランチタイムの終わりで料理屋が軒を連ねる一帯は人影もまばらなので、こんな夏服の少女がずぶ濡れになっているのに気付いてもらえない。


 公衆電話はどこにもなかった。そういう時代なのかもしれない。私は仕方がないと思い、一階の管理人に見えないように床を這いつくばって、かんちゃんが死んだ部屋に戻った。ドアを開けると、かんちゃんは背中を私の方に向けて横になっているように見えた。


 恍惚とした表情が、まだそのまま恍惚としているかは、確かめようがなくて、私は靴を脱ぎ、濡れた制服の裾を雑巾のように絞って水滴を玄関に垂らし、忍び足でかんちゃんに近づいた。近づいてしばらくして、はっとした。かんちゃんはブロンズ像と化していて、顔面は長年風雪に耐え抜いたような、緑錆をふいていた。


 美術館の倉庫のような黴っぽい空気の断片が肌を通り過ぎた。私も何だか、作品の一部分を構成しているように思えた。私の肌はまだところどころに水滴があり、皮膚呼吸をし、それなりに艶もあって、かんちゃんのとは違う。いや、そう決め付けるのは見当違いかもしれない。


 私はたまらずセーラー服を脱ぎ、下着を外して全裸になって、自分の肌をくまなく確かめた。すると左膝の、皿の外側にやたら緑色をした部分があって、指先を置くと、金属質な触感があった。私は叫んだ。まだ固まりたくない、固まりたくない、と。緑錆の面積は、秒単位で少しずつ、少しずつ広がっていく。固まりたくないと叫び続けていたら、声が出なくなった。


 緑錆は同時多発的に、私の身体の内外で発生し、それぞれが広がっているようで、錆びた声帯を振動させることは叶わなくなった。息苦しい。とても息苦しい。死ぬとはこういうことなのか。左腕も動かなくなった。そして右腕も。声にならぬ声を出し続け、身体を捩り、揺らしているうちに、自分がベッドの上に横になっていて、見慣れた寝室の天井が目に入ってきた。私は全身が、汗でぐっしょりと濡れていた。頭のまわりに酸臭が漂っている。


 数日後、玄関のチャイムが鳴った。向井さんがお向かいからまたクレームを言いに来たのかと身構えたが、モニターに映ったのは、スーツ姿の二人の男性だった。左側に四十代ぐらいの小太りの、頭髪が薄れつつある男がいて、その横には精悍そうな、身長一八〇センチはある目鼻立ちがくっきりしたイケメン男子がいた。すぐに若旦那と名付けた。若旦那とだったら話をしてもよかった。


 「あの、何も悪いことをしたつもりはないんですけど、どちら様ですか?」


 あなたはちょっと前、かんちゃんをブロンズ像にしたではないか、と誰かが非難してきそうで、びくびくしていた。若旦那は言う。


 「県警の者ですけれども、少しお話だけよろしいでしょうか」

 「こういうご時世なので対面はできればしたくないんですが、自治会費のことなら、私の意見は変化しませんよ」

 「自治会費? なんですかそれ」

 「ひょ」


 文法的に区別しにくく、何ら意味をなさない音節が無意識に喉から出た。


 「あのね、お姉さん」


 少しだけ私は機嫌がよくなる。


 「この近くの△△神社から、バスに乗ってここまで来たでしょう? 防犯カメラにしっかり映っているの。近所の人に画像をみせたら、あそこのお宅の方だと教えてもらってね」


 すっかり忘れていた。かんちゃんのブロンズ像のインパクトの方が強すぎて、ついつい。だって、これまでもああやって、相手を放置したまま「プレー」を終了したことは何度かあったのだ。


 「ああ、はい。行きましたよ」


 若旦那の顔も踏みたいのに、禿頭の中年男が口をはさむ。


 「たまたま通りがかったサラリーマンの方がね、神社にある林のなかでね、木にくくられた男性が舌を噛んで血を流しているのをね、見つけられてね。ちょうど神社の防犯カメラに林に入る男女が映っていてね、しばらく経って女性だけおひとりで出てこられたんです。近くのバスの防犯カメラにも同じ女性が映っていたんですけど、確認のため玄関に出てきてもらえませんか」

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