空想上のムスコ

 更年期とはいっても、生きるのを完全に諦めるのは難しい。別の人生を選ぶチャンスがないのなら、絶望したまま時間の流れに身を任せるしかないのだろう。


 私は工場街で学力水準が決して高くない児童が集まる小学校に通った。成績は上の方で、担任の教師からはこれでも、国立の中学校の受験を勧められた。だが、義理の父は首を縦には振らなかった。看護師である義理の母は、家にいない時間の方が多かった。


 この頃はまだ、二人とも実の父母だと私は思っていて、本当の父は行方知れずになり、本当の母は資力がなく、まだ記憶中枢が機能していない私を施設に預け、程なく里親登録をしていた夫婦に引き取られたのだと聞かされたのは、中学生になってからである。それも、二人から教わったのではない。地域の顔役で代々大地主の家系に生まれた同級生の聡子の家族が、私を含む同じクラスの男女5人を、長野県の山奥にある別荘に招待した夜、聡子の母がふと、義理のご両親はお元気にしてる、と私に言った。


 何を言っていることか分からずきょとんとしていると、言ってはいけなかったことを口にしてしまったことに彼女は気付き、ううん、何でもないの、ご両親はお元気になさっているの、と言いなおしかけた時、聡子が、千秋は小さい頃、ご両親と離れ離れになったのでしょうと、ごく自然な、三掛ける三は九です、というような口調で続けた。


 振り返れば幼いころから違和感を抱えながら育ってきた。母は一重で私は二重。母の声はアルトで私はソプラノ。父も母も音感はない。父も母も学力の問題で高校に通えず、父は町工場で旋盤工として生き抜き、母は喫茶店でアルバイトをして貯めたお金で看護学校に入った。二人の手先は器用で、経営者となった父は弦楽器の自作が趣味となり、母は職場の仲間とビーズアクセサリーの創作に励んでいる。


 一方の私は、手芸は苦手で、だいいち針が怖い。血液型は父がA型で母はO型。AOとBOなら全4通りの血液型は産まれるはすで、私はAB型となったけれども、本当にAO/BOの組み合わせなのかは分からない。AB型なので家のなかで宇宙人扱いをされても、血液型のせいだとして気に留めなかった。


 やがて町工場の経営者として独立した父は手形詐欺に遭い、その始末に追われた結果、多額の、法外な借金を抱えることになった。高校受験を控えた頃だ。本物のヤクザ様が家の応接間で態度を大きくしていた。私が志望していたのは、こう見えても最難関の一つである県立M高校である。二人が義理の父母だったことを受け入れつつあった当時、こそばゆい話だが、目いっぱい勉強をして弁護士となって、二人を経済面で支えてあげたいという、奉仕の心が芽生えつつあった。


 学校から帰ったばかりのセーラー服姿の私をヤクザ様は一瞥した。そして、なんだおまえんとこ、どえらい上玉がおるがや、はよ言え、たわけ、と清音の少ない名古屋弁を父に吐き捨てた。ヤクザ様は私の左手を掴み、品のない紅色をしたベンツの後部座席に押し込めた。


 藩校の流れを組む高校に入り、頭脳明晰な友人と切磋琢磨しながら、国立大学の法学部に進み、司法試験を突破して、レトリックとロジックを巧みに操って絶対悪を服従させ、高額の報酬を得るのだという私の希望は、消えてなくなった。それに対し、目の前の男といったら、ごくごく一般的な、恵まれた生育環境にいたにもかかわらず、救いようもないMなのだ。イケメンではあるけれども。


 「ママ。お店出ない?」


 濃紺の上下のスーツに身を固め、鹿皮の靴を履いた男がいる。駅の改札を出た正面にある大手喫茶店チェーンの座席はまばらだ。男のジャケットからは、ボタンホールを黒糸で縁取った綿のワイシャツが覗き、セミロングの黒髪は毛束が柔らかさを残しながらワックスでまとめられている。


 目鼻立ちは比較的しっかりとした面長の男はやや色黒で、メンズエステに通っているのかもしれない。二重瞼の瞳は子供っぽい純朴な光がにじむ。足元に目をやると。スラックスの裾には、明らかに寸法が合っていない、目いっぱい布地を伸ばして足首まで通した黒いソックスがわずかにみえ、その目地に色黒の肌が透き通って見える。


 「またココア残している」

 「だって」


 息子は、ココアが嫌いだった。子どもの頃に砂糖がたっぷり入ったココアを飲みすぎて、口中、虫歯だらけになったからだ。


 「全部飲まないと、ほら」

 「うう」


 理不尽な要求に素直に従おうとする、根源的嗜好を伴った自らの反応を確かめることによって、息子は存在の手応えを得てきた。うう、と呻いた息子の唇はマグカップの縁に近づいていく。三秒、四秒、五秒。息子は決心し、熱が蒸散して人肌の温度となった人糞色の液体を喉に流し込んだ。展覧会は終了した。


 「飲んだよママ」

 「あ、そ」


 店を出ると、駅前の狭いロータリーが目に入った。バスとタクシーがせわしなく駆け回っている。新型ウイルスの危険性が叫ばれて久しいのに、血管内の赤血球や白血球のごとく、人の往来は絶えないらしい。ビジネスバッグを手にし、リュックを背負う現役世代の多くは、壮大な社会実験のもとに自らが置かれているような、漠たる感覚を持ちつつ、それでもしっかりとした足取りで歩いている。


 死んだ血小板のような私は、歩くのさえだんだんとしんどくなっている。杖を突いて歩きたくなるぐらいに、筋肉は衰えている。新型ウイルスという奴が私をターゲットにして、早くこの世から消えさってしまえばいいのだ。額に汗が滲む。


 「大丈夫? 僕ママとなら隔離されてもいいよ」


 全く面白くない一言だった。あなたの心配は、このプレーの興奮を高めたり、味わい深さを与えたりするうえで何ら作用しない。これまでと同様、下から目線で、私の言うことだけを聞いていればいいのだと言ってやりたかったが黙り、ニコッと笑うことにした。


 歩いて向かった先は神社だった。宮司は常駐していないが、区内で隋一のパワースポットとして知られ、常に清々しい空気に満たされている。

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