(ネバゴナ)ギブユーアップ

 「おはようございまあす」

 「おはよう、ちなつちゃん。よろしくぴょん!」


 スタジオ内はみんな笑顔で私を迎えてくれた。ただ一人を除いて。マネージャーの山田は壁際のパイプ椅子に座ったまま、視線を合わせようとしない。


 「ちなつちゃん、寒いけど喉とか大丈夫? これ。太郎ちゃんからの差し入れ。この前CMのロケでグランドキャニオンに行ったみたいでね、でもマカデミアナッツ。それと栄養ドリンク。一緒に食べたら鼻血でちゃうよね、ぶしゅー」


 プロデューサーの神崎は両手を上にあげて背を後ろにそらし、道化のように、場を盛り上げようとする。三十代後半で結婚したばかりの神崎の丸顔は餅のように膨らみ、豊富な頭髪を携える頭上に女性用の下着を被せたら、当時、流行りのマンガに出てくる中国茶の名前の豚のようになるだろう。白と黒のストライプのシャツを身に着け、ジャケットには肩パットが入っている。


 神崎の発するぶしゅーを点火材にして、一同は笑い声を一段高くした。いや、高くしなければならなかった。男の力が及ぶのは、この空間内だけにとどまらない。人事的な采配や予算配分などの権利、半期ごとに到来する「カイヘンキ」を上手く乗り切るための政治的な手腕。鼻を天に向けて目を閉じる神崎への背信行為は、この世界からの追放さえ意味していた。


 壁際の山田も、一応は笑った。笑った後すぐに神経質そうな顔を壁に向け、周囲に見えないように欠伸をした。有楽町の雀荘で同僚と徹夜で麻雀をしたからではない。業界内で生き残り、安定した収入を得て、若い頃に抱えた借金を返済できればそれで満足だった。


 このラジオ局で神崎は、プロデューサーとして間違いなくエースだ。ナイターが終了した後、聴取層が若年代にがらりとかわる深夜へ差しかかる時間帯を担当し、聴取率は首都圏エリアでも一、二を争っている。日経平均株価が鰻登りとなり、そのあとの平成不況という言葉が広まる前にあって、スポンサー企業の支持は厚く、タイアップ企画は後を絶えなかった。鬼才溢れる神崎を前に劣勢に立ったラジオ局は、オタク文化をターゲットにするか、高速道路を走り回るトラック運転手を相手にするかの選択に迫られ、いずれにせよ競争を避けるより他はなかったのである。


 ちなつは吸音材に囲まれたスタジオのテーブルの脇で、ガラス越しに見えるスタッフの前でもう一度、短くお辞儀する。神崎は理由は分からないがご満悦だ。


 五秒前、四、三……。


 そうなのよね、だいぶ寒さも和らいできて。タクシーでね、有楽町まで来るときに銀座のあたりをぐるって、窓から見たけど、いちゃいちゃしている人多いのよねえ。一足はやく春がやって来たみたいな。でももうすぐ出会いと別れの時期だから。デューダする人もいるだろうし。


 みなさんご機嫌いかがですか。島谷ちなつです。平成になって、初めての桜の時期よね。私は何をしていたかというと、みなさん、新聞で色々お騒がせしちゃいましたけど、あれわざとじゃないのよ。もう、世の中の男性諸君は、わたくしの足の付け根のあたりにどのような、着衣がなされているのか、ずいぶんご関心がおありのようで。まあ仕方がないですよね。ああいうの撮られちゃって。もうね、カメラマンの皆さんに脱帽です。だってコンマ何秒もないんですよ。それがチラリとみえる瞬間って。あーあ。わたしもデューダしようかな、なんてね。うそうそ。これからも頑張ってまいりますよん。ではまいりましょう。島谷ちなつのYOU LUCK SHOW NIGHT!


 きょうの最初の曲は、神奈川県綾瀬市にお住いのペンネーム、オニタリアンさんからのリクエストだよ。いつもありがとう。「大好きな英美。最後にデートしたのは去年のクリスマスだったね。ずっと会えないけど僕はあきらめないからね」。うーん、切ない。それではお聞きください。リッキー・アストリーの『ギブ・ユー・アップ』。負けないで、オニタリアン!


 「お疲れ様でした!」

 「ちなつ、時間時間」


 神崎とスタッフらへの挨拶を済ませて廊下に出ると、山田が私を手招きしている。その手に吸い寄せられるように小走りで彼の元に近づいた。車止めにはファンが待ち構えている。極度の寒がりである私は、安物のセーターに毛糸のマフラー、半纏を羽織り、ケミカルウオッシュのジーンズの下にはタイツを何重にも履いていた。近眼のため銀縁の眼鏡も掛けている。一歩離れれば浪人生のようだが、自宅にいるような気分でリラックスして話ができる。でも車止めに出る際には、スタイリストが支給した衣装に着替えなければならない。


 スタジオと楽屋までの距離は十メートルもない。山田の手招きには、次の現場に向かうまで時間が限られていることを周囲に見せかけながら、限られた時間で抱擁とキスを愉しもうという、二人だけに通じるメッセージが込められているのだ。


 マネージャーとアイドルの恋愛は、もちろんご法度である。バレたら山田は即刻クビとなり、業界から追放される。そんなことぐらい知っている。でも、だからいい。それに山田はキスが上手だ。まだ二十歳に満たない私が身体を捧げた相手は山田しかない。


 山田と私は十字に交差する廊下を左に折れ、誰も周囲にいないことを確認してから、三秒ほどキスをした。山田はすぐにでも、ズボンを脱ぎたそうで、それを自制している大人の姿をみるのはたまらなく好きだった。唇を離すと、目と鼻の先にある楽屋に二人で入り、ドアをロックした。


 スタイリストがやがてドアをノックするはずだ。セックスする時間はないが、愛撫はできる。時間的な制約を気にして何もできないでいるようにみえる山田の顔に、私は乳房を近づけた。その谷間に、三十過ぎのスーツ姿の、抵抗する意思を奪われた男が、顔を埋める。まだノック音は聞こえない。山田の左手の中指が鼠径部からゆっくり内側へと伝い、局部に辿り着く。もうどうでもいい。スタイリストが来たら、三人で行為に及べばいいではないかとさえ思った。


 そのまま果てそうになったが、私はあえて身を離して、山田に自慰行為を命じた。物惜しげにズボンを脱ぐのを横目に、バックから取り出した駄菓子のスルメイカの袋を開けて椅子の上に置き、その後、私も自慰行為をすることにした。


 三分後。山田と私のティッシュはビニール袋の中にあった。外気に触れないように固く口は縛られ、山田のセカンドバッグに納まっている。やがてノック音がした。ズボンを履いたばかりの山田はなぜか立ち上がり、ドアの方に目をやりながら、抑揚のない声で言った。


 「ちなつ、悪い。仕事だから、これも」


 スタイリストが来るのではなかった。現れたのは神崎だった。


 「ちなつちゃん、お愉しみのところ、ごめんちー。お寿司でも食べにいこうよ。そのままの恰好でいいからさあ」


 ああ、この人は山田と私の関係を、知っているのだ。


 「山田ちゃんから色々聞いたよ。相当な性欲なんだって? 山田ちゃんも悩んでいたんだって。ちなつちゃん、仕事まだ続けたいでしょう。続けないと、義理のご両親、困るよねえ」


 私は黙った。


 「大丈夫大丈夫。ばらしたりはしないから。条件付きだけどねえ。お寿司の味は、保証するよ。じゃあ、行こう、行こう」

 「ちなつ、ごめん」


 山田は土下座をする。この後、セカンドバッグにあるティッシュでこの人は再び自慰行為をするのだろうと考えると、何だか哀れだった。


 「いいよ、山ちゃん」


 山田は土下座をしたままである。


 「ちなつちゃん、食事する時にはさあ、僕のことを神崎さんじゃなくてかんちゃん、といってほしいんだなあ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る