ごめんなさいごめんなさい


 目覚めると、三時間前に戻ったような気がした。そんな訳はないのだろうが。柔らかな日光が寝室を照らし、隅に据えられたコーヒーの木の緑葉が鮮やかだった。

 サイドテーブルに放置していたスマートフォンがショートメッセージの着信を知らせている。想像上の「息子」が寄こしたものだ。


 《やはりママ、会えないですか。あなたに虐められたいです》


 そういう遊びはもう終わりにしたかった。第一、体力が持たない。返信するのも面倒臭い。かといってやり過ごしてしまうと、身体の何処かがムズムズしてしまう。加虐的なのはどちらなのだろうと文句を言いたくなる。


 《小学生のような、戦隊モノの絵柄の入ったキツめのブリーフを履いて、いつもの駅までいらっしゃい。明日の午後一時半に改札口でいかがかしら》


 想像上の息子は、私の昔の商売がどのようなものだったのか、知らない。出会い系アプリを通じ知り合って二年ほど経ち、月に二、三回の頻度で顔を合わせては、コーヒーを飲み、他愛もない話をした後に、二人きりになれる場所に向かう。それは時にマンガ喫茶だったり、オフィスビルの奥まった所にある男女共用のトイレだったり、レンタルしたワンボックス車の後部座席だったりする。


 私は旦那に先立たれた独り暮らしのマダム。彼は社会人になり、母の元を離れて生活する一人息子という建て付けである。実際に、男が何をして生活をしているのか、私は詳しくは知らない。一度だけ、学習塾の経営にまつわる話を息子がしてきた時、ああ、そういう子どもを相手にしたお仕事をなさっているのね、と察したことはあったけれども、それ以上深く具体的な話を求めることはしなかった。返す刀で、お母さんは普段はどうしているの、と聞かれたら困る。三年前まで、ある地方都市のAM放送局で十五分程度のラジオ番組を持っていたなどと暴かれてしまっては、目も当てられない。


 母と息子の禁断の時間に、現実社会での仮面は不要なのだ。私は新興住宅街で悶々とする熟女であって、重力に長年さらされて張りを失い艶をなくした肌を渇望する、蛇が向かう先に過ぎない。蛇が私の前で右往左往する姿をみて、私は自分の欠けた部分を充足させるのである。


 息子からの返信が来た。


 《もちろんだよママ。ちゃんと言われた通りにするからね》

 《ちゃんと一人で買い物に行ける? ママと会うまで汚したらお仕置きね》


 胸にずっしりとした重石が圧し掛かるのを感じた。自然の流れに抗うのを選向する自分がいたからだ。


 気を紛らわすために散歩に出ようと決めた。郵便局にいずれ行かねばならなかった。なぜ郵便局に行くのかというと、今年出しそびれた年賀状が五十枚ほどあり、もったいないと思ったからだ。手数料を払えば新しい葉書に交換してもらえる。葉書を出す相手は特にいない。ただそうしたかった。それと、郵便ポストの形をした陶器製の貯金箱に、海外旅行で使いそびれた硬貨が詰まっていた。


 ネット情報だが風水師が言うには、こうした硬貨は運勢を悪化させるらしい。いずれ海外に行くことがあれば使おうと考えていたがこんな状況だから、行けそうにない。土に埋めたり、燃えないゴミとしてクリーンセンターに持って行ったりすれば、より運気を低下させる遠因となるようにも思えてしまう。ここは、国際機関の外国コイン募金しかないと私は悟った。


 送った硬貨はそっくりそのまま、途上国の教育支援などに用いられるらしい。しっかりと梱包した硬貨は、「メタル類(メダルではない)」などと記載して発送すれば、法律には触れないようだ。


 送料は千円前後で、タイならだいたい三百バーツ。現地の屋台で供される麺料理約十食分。いやいや、そんなことよりもまず、自分の運勢のことを考えるべきだろう。


 一通りのメイクを済ませ、グッチのサングラスとマスクで顔を覆う。これも矛盾。濃緑の無地のワンピースを身に着け、首元にスカーフを巻き、これからいかにもママ友とお食事に行きますといったムードで、玄関を出る。


 まず、トイプードルを散歩に連れて日傘を差すどこに住んでいるのか知らない女性に、こんにちは。コインパーキングに隣接した砂場と滑り台だけの小さな公園のベンチでタバコを吸うサラリーマン男子に、臭いですよ。バス停で私をじろじろ見てくる子連れの中年女性に、何か顔についていますか、はは。社会とつながっている。


 このまま駅まで行って、空腹を満たしたい。バスが来た。パスモが残高不足だった。


 「チャージをしてもいいですか?」

 「あん?」


 このあたりを通るバスの運転士はみな親切なのに、なぜかこの男の態度はぶっきらぼうだ。


 財布を開けると、一万円札しかない。チャージをするには千円札が必要だった。両替をしたい。


 「え、一万円しかないの? ちょっと待ってよ、勘弁してよ」


 運転士は席の横に吊るしたカバンから財布を取り出した。この時、自分が乗ろうとしているのが、普段の私鉄系会社のバスではなく、市営バスだということに気付いた。公務員じゃないか。


 乗客はまばらだった。みすぼらしい老人が数人と、世の中に不満を抱えてそうな肥満体の中年男性が座っている。いずれも、二キロほど離れたところにある団地の住民だろう。


 運転士はああ、ちくしょう、なんだようとブツブツ言う。乗客らの苛立ちと冷たい視線が私の背後に集中している。


 「客さん悪いんだけど、両替できる紙幣がないの。看板にあるでしょ、小銭を用意してくださいって。小銭持ってきてさ、次のバスに乗ってくれる?」


 私の目の前は、うっすらと霧がかってきた。


 「わかりましたじゃあ私が悪いんですね小銭を持ってこなかった私がいいですよ。こんな貧民街の団地の人間を乗せないとあなたたちも働けないんでしょうかわいそうですね一万円あげます許してくださいごめんなさいごめんなさい」


 料金支払い機の上に一万円を置いてバスを降りた。運転士はあっけにとられたまま、こちらを見ている。私は慌てて、石灰色の舗道の坂を駆け上がり、林のそばにある公園に引き返そうとした。額と脇の下に汗がにじむ。バスは一向に走る気配がない。逃げなければと思った。


 空は、まだ明るい。その下の坂を上り切ったあたりから、喪服を来た向井さんが現れた。軽蔑されると構えたが、向井さんは何やら上の空のようで、私の存在には目もくれず、かえって有難かった。


 乾いた空気の住宅街をすり抜け、コンビニエンスストアが角にある別のバス通りの交差点まで何とかやってきた。喉がカラカラで、とにかく水分が欲しい。プライベートブランドの緑茶でも買おうと中に入ると、聞き覚えのある音楽が耳に入った。やめてやめて。


 ガラスで仕切られた店内が暗くなり、西に傾きかけた太陽が細胞分裂するように縦横に分かれ、そのうちのいくつかは赤や緑や青の電灯となり、私を照らす。人間の声の集合体が遠くから迫ってくる。


 いや、それは遠浅の海岸の満潮に近い頃のさざ波だ。y=tanθで表せる漸近線のように、時間とともに周波数を上げて散逸し、臨界点で無となった後に再び低い轟きが鳴振し始める、天が作り上げた音だ。膝が震え、立っていられない。幸いなことにコンビニにはトイレがあった。汗まみれになった私は洋式便器に座って扉を閉め、鍵を掛けた。いつの間にかボディコンルックスとなった私は崩れ落ちるように横に倒れ、五分少々、眠りに入った。

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