偶像の、気まぐれな鞭
フョードル・ネフスキー
私こそゴミ
とうとう五十歳になった。もうおばさんだ。椅子から立ち上がるにしても腰が痛いし、時折どうしようもないほどいらいらする。更年期障害という名の、肉体としてのピリオドが近づく上での諸々の症状が、なんの前触れもなく私を襲うようにもなった。笑顔でいないといけないと言い聞かせても、やはり無理なものは無理なのである。柔らかい光のなかの、朝の散歩の鳥のさえずりが、その日はこの世の呪いの呻きにも聞こえる。五十歳。加齢臭。老眼。
それこそ三十年前の私は、セックスシンボルだった。今のこの、水気が抜けたような乳房は、もともと質感に健康的な張りがあり、黒ずんだ性器の周辺は、かつてはオレンジ色の眩しいビキニが包み隠していた。抜けるような夏空の下に、不自然なほど艶やかなロングヘアに、半永久的な、弾ける笑顔が刷られたポスターが、居酒屋や焼鳥屋、焼肉屋の壁に張り出されていた。
当時を知る旦那は、慰謝料を定期的に払い込む男性に成り下がり、子どもに恵まれなかったので私は孤独だ。仕事もほとんどなくなった。事務所には一応は所属しているが、ほとんど連絡は来ない。世間の同業者と足並みをそろえて、脂肪吸引やらエラ削りやら、一般的な整形手術は、望んではいなかったけれども仕方なく経験した。心身の微妙な均衡を崩す契機となったのかもしれない。外出をする前に鏡を見ては、そこにいるのがあなたよと言い聞かせなければならない。
「市では、環境保護のため、地域のみなさまにゴミの量の削減を…」
パッカー車のエンジンが唸る。弱い冬の太陽の下、目覚めて数時間は経過した住宅街の静寂を打ち壊す。ああ。きょうは燃やすゴミの日だった。忘れていました。燃やすゴミは、えっとここにいますけどね。
パジャマ姿のまま、目を閉じて、パッカー車のプレス機に頭から挟まれ、轢死する自分を想像する。すると、玄関のチャイムが鳴る。
レンズ越しには、つば広の帽子を被った初老の女性が、市の広報紙の束を抱えて待ち構えていた。乾燥した粉っぽい外気に覆われた女は、不景気そうな顔をし、一重の目は細く横に伸び、口元に複数の黒子が点在している。背は低く寸胴のような左右に釣り合いのとれない体躯を、緑色のワンピースが覆う。帽子も緑色で、さながら緑の党の構成員だ。
私はモニター越しに語りかけた。
「どちら様ですか?」
女はむっとする。
「あの、向かいの向井ですけど、念のためダジャレではないですよ。カメラは壊れてらっしゃるの? 島津さん」
相手は機嫌を損ねている。
「失礼しました。あの、こういうご時世ですので、対面でなくても済むならそうしたいんですけど、どうしても扉を開けなければいけませんか?」
ウイルスなどどうだっていい。パジャマを脱ぎたくないだけだ。
「あのね、別に対面でなくても済むならそうしたいのですけどね。自治会費を滞納されているでしょう? あくまで任意でありますので、支払う自由はそちらにございますけど、支払わないならばゴミ捨て場にゴミを出さないで欲しいんです。前も申し上げたでしょう」
向井さんが言う「前」が、いつのことだったのかすぐに思い出せない。
自治会費を払いたくないのは、地域の繋がりを強制されるのが面倒臭いからだ。ゴミ出し自体、クリーンセンターに電話をしてから車でわざわざそこまで行って、手数料を払って済ませている。ところが、この人はそんな手間を掛けずに、すぐそこのゴミ捨て場を利用しているのだと向井さんは思い込んでいるようで、この手の思い込みの激しい人間の誤解を解くエネルギーは私にはない。誰か助けてほしい。
「警察呼んでもいいですか?」
緑の党員の顔が赤く染まっていく。中道左派というのはそういうのなのだろう。
「まあ、この方ったら、非常識にもほどがありますわ」
本当に警察を呼んでみようとスマートフォンに手を伸ばした。実際、怖いのだ、向いの向井さん。なんか、こう、接触の仕方が鋭角的なのだ。
〇〇区△△2×の1□の島津ですけど、ご近所トラブルといっていいんですかね。こちらはただ頑張って生きているだけなんですけど、金銭を要求されているんです。強要です。少なくとも私はそう感じています。お巡りさん何とかしてください。額は一万円程度です。こちらは何度も、お断りをしているんですけど、圧力を加えてくるのです。はあ、はあ。早く来ないかな──。
「あのね、困るんですよ、こういう話でわれわれを呼び出してもらっても。ご近所付き合いを円滑にするためなら、月々三百円程度の自治会費用なんて、安いものじゃないですか。大人の感覚なら」
大人の感覚──。頭のなかで、ぶちんという音がした。
あなたは憲法に従って生きているのでしょう。そういう発言をする権利は、どこに由来しているんでしょう。
ああ、でもそんな一言を発すればまた変人扱いされる。じゅうぶんに変人かもしれないけど、相手を刺激して自分を不利な立場に置きたくない。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
かつてのセックスシンボルが、ご近所トラブル。週刊誌の記者が取材に来れば、少しは私の仕事が増えてくれるのかもしれないけれども、自分になど相手にするよりも、彼らはもっとほかのネタで忙しいのだ。目の前の警官を、玄関にある消火器で殴打して、逮捕されたら、逆にもっと干される。そのぐらいの計算と見極めは辛うじて今でもできる。
そんな自分を世界は蹂躙するように監視し、丸裸の皮膚の下まで盗撮しているのだ。ああ、急に呂律が回らなくなる。う、うちのろあ、ドア、閉まりませんのれ、ので、おひきとりねがへませんか。
ぴしゃり。ポリスは消え去る。
自分の周囲にあるのは、通常の、玄関とワックスのはがれたフローリングの床だ。ここでこのままいて、誰とも接したくない。階段を上がり、ベッドルームになんとか這いつくばってたどりつき、布団の中の暗闇に自らを置く。こんな状況では、五分間のラジオ番組であっても、復帰など適うわけがない。
沈黙と、外界から踏み込んでくる児童らの叫び声。
《それで、どうされましたか》
うっすらと体育座りをする二十代の自分が浮かびあがる。
だからいいですって。お願いですから消えてください。だいたいあなたが出ると、言語が、少しずつ失われるような気がするの。なんだか、ぼうっとして。
アンコールを求められたあの歌の歌詞だってそう。もうライブなんてしないんだけど、あなたが出てくると、すっと歌詞が飛んでしまいそうで、怖いの。お願いだから視界に入ってこないでほしいの昔の私。
《そう言わないでくださいよ》
うぐう。
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