第7話
エレツが目覚めたとき、彼の視界は暗闇に満たされていた。目を動かし、空を見ようと試みたが、生えた木々の枝が空を隠してしまっていて叶わない。
ここがどこか、自分が今どういう状況なのか。エレツは必死に確認しようと努めた。
今が夜だということだけは周囲の闇のおかげでわかった。自分の状況は体の痛みと最後の記憶を思い出す限り、決していいとは言えないが、生きている。
視線を彷徨わせると、エレツから少し離れたところに赤い炎とそれに照らされたサザノメの背中があった。
その背には小さな子供が深夜に起きてしまい、途方にくれたような弱さが感じられる。泣いているかもしれない、そんなことを考えてエレツは何も言えなかった。ただ見つめ続けた。目を離していけない気がして。
ふっとサザノメが視線を感じたのか振り返った。
「起きたのか、エレツ」
サザノメは笑いかけた。ちろちろと燃える火に、その顔が照らされて翳る。翳を背負った顔はどこか疲れを窺わせた。
「もう少し寝ていたほうがいいぞ」
エレツは無言で目を伏せたのにサザノメは黙って前に向き直ると焚き火をじっと見つめた。
「どれくらい、寝ていた?」
「逃げたのが昼頃で、いまは夜、だいたい五時間くらいじゃないのか」
サザノメは火に新しい枝をいれて立ち上がると、エレツの傍に座りなおした。サザノメはじっとエレツを見つめた。
「逃げなかったのか」
「……逃げてほしかった?」
サザノメの静かな返答にエレツはそれ以上の問い掛けができなくなった。あんな目にあってもサザノメはここにいる。それは彼なりの覚悟があるのだろう。それを自分がどうこう口にしていいはずがない。
「なぁエレツ」
「なんだ」
「お前を生かしてくれている存在って、なに?」
「……知りたいのか」
エレツがうっすらと目を開けてサザノメを睨むように見つめた。その瞳の力に負けぬようにサザノメは、はっきりと頷いた。
「……生かされてる」
「それだけか?」
「ああ」
エレツの言葉には、それ以上の意味はないとはっきりと告げている。サザノメは口を閉ざして、ただエレツを見つめた。
自分を生かしてくれている存在と彼はこともなげに言うが、それはつまりは彼の命、彼の存在、彼のすべてという意味だ。彼は、それだけのおかげで今、ここで居るのだ。いや、生かされ、この世に留まっているのだ。
エレツと自分は似たようなものを抱え込んでいる。
自分をここに留めている存在、思考、命、救い、そんなものをすべて混ぜたようなものを互いに抱えている。
だから安易に触れてはいけないのだとサザノメは理解した。
エレツのその部分に触れる覚悟をサザノメは持ち合わせていない。彼とは、この世界での利害が一致しただけの相手だ。
そう言い聞かせながら、サザノメは知りたかった。
エレツのことが。
彼に何があるのかが、知りたくて、たまらなかった。それはたぶん、自分と同じような魂を見たいという欲求だった。
寂しいのだ。
何もないかもしれないという絶望と必死に自分で否定して生きていく孤独で、ひどく疲れてしまう。せめて、一人くらい理解者が欲しかった。エレツは、その理解者には適している。そう甘い囁きが頭の中に響くが、傷を嘗めあって何になるのだと思いなおす。エレツは自分の傷を自分で嘗めているが、他人にそんなものは求めてはいない。浅ましい感情をサザノメは振り払うように肩をすくませて笑った。
「それで、あんな無茶なんてして、どうするつもりだ」
エレツはしばし沈黙を守った。自分が言われている言葉の意味が理解できないらしい。
「いっぱい襲われた」
「ああ……無茶、かな」
一人愚痴るような響きにサザノメはますます笑った。
「死ぬところだったろう」
「死なないさ」
その確信がどこから湧くのかサザノメにはわからなかった。大勢の人間に囲まれて暴力を奮われて、下手をしたら興奮した村人の手によって殺されていたかもしれないのだ。
エレツには過保護な精霊がついているのだから、もし本当に殺されそうなときは助けたかもしれない。
しかしエレツの答えにはそういう打算や計算も関係なく信用させるものがあった。
彼は死なない。だって生かしてくれているものがいるから。
この男の負って傷を見れば、どのように厳しい環境で生きてきたかもわかる。それらに耐えて彼は生きてきたのだ。
吐き気を催す人の殺意の目と憎悪の声のなかでもまだ存在を保てるほどの何かによってエレツは生かされている。
サザノメはエレツの右手を握り締めた。
「お前を殺すのは俺だものな」
きつくサザノメはエレツの手を握り締める。そうすると、エレツがじっとサザノメを見つめた。
「二度とあんなことするなよ。俺がお前を殺せなくなったら、困るだろう」
「サザノメ」
エレツが何か言おうとしているのをサザノメは身を乗り出してキスで封じた。エレツが驚いたような顔をしたのにサザノメは悪戯っぽく、くっくっと喉を震わせて笑った。
「怪我したらなにもできないじゃん。はやくなおしてくれよ」
「……お前は」
深いため息をつくエレツにたいしてサザノメは笑いながら黒い犬の姿に変わった。
あたたかな毛で、エレツを抱きしめるように包んだ。この夜の寒さからは彼を守ることぐらいは今の自分でも出来るだろう。
サザノメとエレツは地を這うように道を進んだ。
この近くの村に住む人間に見つかればただではすまないことを昨日の一件で二人は承知していた。
何度もサザノメはエレツを置いて一人で先行し、周りの様子を確かめてを繰り返しての進行となった。時間はかかるが、下手に村人と接近して、彼らを刺激するようなことだけは避けなくてはいけなかった。いくら素人でも数が多いとそれだけで厄介だ。
水が枯れ果てた大地をゆっくりと浸食するようなのろのろとした歩みであったが、木々によって遮られて見えない太陽が沈み、暗い闇が世界を満たす頃には二人は山の頂上付近まで来ていた。
そこまで来て、そろそろ今宵の野宿の支度をするべき場所を探そうとして、サザノメが落ち着きなく周りを見回し、鼻をひくつかせた。
「どうした」
エレツは問いながらサザノメの頭を撫でた。
「……人の匂いがする」
「複数か?」
一瞬、自分たちを追ってきた村人かとエレツは身を硬くした。だがサザノメは首を横に振った。
「一人で、なんか……弱ってるかんじがある」
エレツが眉を顰めたのにサザノメは顔をあげてエレツを見上げた。
「どーする?」
「行ってみよう。わかるか?」
エレツの言葉にサザノメはわんと犬のように鳴いて山の中を走り出した。
柔らかな土の上をサザノメは走り、そして突然と足を止めた。そのいきなりのことにエレツは身を乗り出しかけて、サザノメの毛を強く握り締めた。
急にサザノメが足を止めた理由をエレツはすぐに理解した。
目の前に窪地があるのだ。今まで真っ直ぐな道であったのに、いきなり落ち込んだ穴は、夜ともなるとそれこそ生者を死者の国へと陥れようとする奈落のように思われた。
「……だれか」
その中から声がした。
目を細めてみると、奈落はそこまで深くはないようだ。急な斜面の中に何か黒いものが転がっていた。
こんな山の中に、一体、どうして。もしかしたら村人だろうかと思ったのはエレツだけではないらしい。サザノメもまた警戒している。
「……人か」
立ち去るべきか、はたまた助けるべきかサザノメとエレツが悩むよりもはやく、穴の中にいる相手が二人を見つけてしまった。
声はハスキーな、穏やかな落ち着きを持っていた。
「何をしている」
「遊んでいるように見える?」
エレツの問いに相手が皮肉な言葉で応じた。
「足を滑らせて、この有様さ。昇ろうにも、足を痛めて、動きようがない」
深いため息と共に、相手が説明する。
この斜面から落ちて、足をくじいた程度で済んだのは幸運といってもいいだろうが、一人ぼっちで山の中では絶望的な状態だ。
「早く引き上げてくれない?」
やや苛立った声が救助を促す。
相手は、当然のようにエレツに助けられると思っているらしい。
ここでエレツに助けなければ、相手は飢え死ぬしかない。
普通ならばここで怪我人を見捨てるようなことはしないものだが、エレツとサザノメは普通の者とは違っていた。
「足以外はなんとか動かせそうだから、手を貸してくれ」
二人は黙って目を合わせた。今は怪我をして助けてほしいと言っても、エレツとサザノメのことを知っても相手がずっと友好でいてくれる保障なんてどこにもない。
サザノメが小さく鳴いた。
ここで見殺すとしても咎めたりはしないといいたげだ。むしろ、積極的に、この相手にかかわるなと言いたい。
エレツは迷ったが、サザノメの上から降りた。
たとえ村人であったとしても相手は一人。その上、怪我をしている。正体がわかったからと言って、いきなり襲われることもないだろうと踏んだのだ。
周囲を慎重に見回し、近くに掴まれそうな木があると、それに片手を置き、斜面に身を乗り出した。あまり身を乗り出すと足をとられてエレツ自身も、そのまま落ちてしまいそうだ。そのことにはサザノメも気がついたらしく、慌ててエレツのズボンを口にくわえて支える。
倒れている相手は、なんとか起き上がり、両手を弱弱しく伸ばしてくる。エレツと相手の手は触れることもなく、宙で掠れあう。じれったげにエレツはもう少し、と身を乗り出した。自分の足で自分を支えるのも苦しいほどだが、ようやく相手の指にふれあったのに、しっかりとエレツは相手の手を握り締めて引き上げた。
「うっ、わぁ」
引く力が強すぎ、相手が穴から脱出させるとエレツはその場に尻餅をついた。引き上げた相手は、エレツの胸の中に転がった。
「はぁ、助かった」
相手がエレツの胸の中で小さな息を漏らした。
問題は、ここからだ。
もし相手が近くの村人であれば、エレツにどういう反応をしてくるのか、サザノメはエレツの背中の後ろで毛は逆立って警戒しているのが、見なくても感じられた。
エレツ自身もまた警戒していたが、胸にいる相手は朗らかに笑いながら顔をあげた。
「ありがとう」
元は白だったのだろうが様々な色によって染まった汚らしい白衣にズボンとシャツを身につけた、眼鏡をかけた青年だった。
首にかかるほどに伸ばされた栗色の髪の毛からは、葉っぱが生えており、全身が土と草木によって汚れていた。しかし、本人は、それを気にする風はなかった。またエレツの存在についても気にするところは見せなかった。人懐っこい笑顔をそのままにエレツを見つめる。
「旅の人? たまたまここを通ってくれてよかったよ」
「大丈夫なのか?」
「足をひねて動けないときは、ここで死ぬことも覚悟したけどもね。今は大丈夫だよ。足以外はね」
彼は笑顔を向けて軽快に話す。
エレツのことを知らないようだ。それに青年はどこか村人との雰囲気とは違っていた。それは着ているものと彼の陽気なしゃべり方のせいかもしれない。
「それで迷惑ついでに申し訳ないが、僕を運んでもらえないか? 足をくじいて動けないから」
「……」
エレツが押し黙っているとサザノメが背中に顔をすりつけてきた。それが自分を非難しているようにもエレツには感じられた。
「いや、それは」
「そう、運んでくれる? いやあ、僕の家は、ここからすごく近くなんだよ」
エレツの断りの言葉なんてはなっから聞くつもりはないらしい青年はエレツの後ろに隠れているサザノメのことも目敏く見つけてしまった。
「わぁ、なに、その獣……犬? いや、狼?」
「サザノメだ」
「へぇ。君の犬?」
「旅の友だ」
エレツは慎重に相手の言葉を訂正した
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