第6話

 ダッと地面を蹴って黒い犬――サザノメは走る。

 昼間は逞しい犬の姿で、エレツを背に乗せて山の中を颯爽と走った。スピードは出ても、上に乗っているエレツを落とさぬように細心の注意も払った。

 不意に足を止め、サザノメはくんと鼻をひくつかせた。獣の耳は何度か忙しく前後ろに動かされる。

「水がある」

「飲み水にできるかはわからないぞ」

「けど、行ってみたほうがいいよなぁ」

 サザノメは明るく言った。

 灼熱と火炎の国<フルマル>は、乾燥地で雨が降ることがほとんどない。隣国である芳醇なる大地の国<ストラ>との境界線にある切り立った山によって雲が奪われるためだ。

 灼熱と火炎の国<フルマル>の民は水のかわりに酒を口にする。子供でもアルコール度の低い酒と家畜の乳を飲むものが常だ。

 ただ、時折、気まぐれな天の恵みが降ることはある。

 それは街に直接降ることはなく、山に集中的に数時間のみ降る。ほとんど草木の生えてない平坦な道から水が流れて落ち、そこに数時間だけの川が現れるということもある。

 その水が乾いた土を潤し、生き物たちの命を満たすのだ。

 いまサザノメたちがいる地は、大きな街に続くための一番安全たるルートの一つで、山に沿う斜面だ。そのために水の恩恵に預かることが多い。

 サザノメが足を進めていくと、水のせせらぎがエレツの耳にも聞こえてきた。

 小石が転がる地面から細やかな砂の大地、その先に細々とした川が流れている。その近くにいる馬を見てサザノメは身を硬くした。

 馬とは本来は臆病な生き物だ。何かしらの気配があればすぐに逃げてしまう。だが、馬は水を飲むのを一旦やめて顔をあげて耳を動かすばかりで、逃げようとはしない。その胴には鞍がある。明らかに人が飼っている家畜だ。

 人の姿はないが、たぶん、持ち主も近くにいるはずだ。

「どうする?」

「……水はそう汲めることはないが」

「じゃあ、行ってみようか」

 サザノメはエレツの態度に何かしらの危機感を察して、緊張しながら前に進んだ。

 エレツは常に緊張を放っている。

 エレツは自分から進んで人と接することはない、むしろ避けている節がある。それは、

 この男は、本当になにをしでかしたのか。

 エレツが何か大変なことをしでかしたらしいが、その何かについて尋ねていない。本人が言わないのならば無理に聞き出すつもりはない。

 サザノメにとってエレツは必要な旅先案内人。自分のすべてを承知した上で旅が出来る相手とは貴重だ。

 この世界において、魔という存在、それについては深く聞いていないが、あまり歓迎されてはいないようだ。

 だからこそ、エレツを失うわけにはいかない。また一から探し出す困難を考えれば多少のことは目を瞑る賢明さがサザノメはにあった。

 サザノメは警戒した面持ちで、川辺に近づいた。

 川のところまで来たが、馬はサザノメを見ても逃げる気配はなく、逆になつっこく寄って来た。明らかに人のために調教された馬だ。

 馬から数メートルと距離まで近づいて、サザノメは驚いて後ろに下がった。

 矢が飛んできたのだ。

 それもサザノメの足元に深く突き刺さっているのは明らかな殺意があった。

 サザノメは眉を顰め、小さく唸り声をあげて矢を放った相手を探した。見つけ出したら、噛み殺してやろうかと湯が沸騰したような激しい怒りが一気に頭にのぼった。

 大きな獣が馬に近づいていれば――馬や牛のような家畜はそれだけでひと財産だ。彼らは人のすべき仕事をかわりにやってくれるだけの力がある。肉食獣が近づけば、警戒するだろう。しかし、こちらは人を乗せているのだ。エレツの姿が見えなかったはずがない。

 続けて二矢が放たれると、サザノメは慌てて逃げ出すしかなかった。

「しっかり捕まっていろよ、エレツ!」

 放たれる矢の角度から、サザノメは気がついた。

 これは明らかにエレツを狙っている。

 エレツという男が命を狙われる攻撃の原因なのか。サザノメは一瞬、この背中にいる男をほうりだしてやろうかとちらりと考えたがやめた。

「サザノメ、ここを、右に進んでくれ」

「わかるの? ここの地形」

「……ああ、目的の一つがここの近くだ」

 エレツに言われてサザノメは言われるままに走った。木々の伸ばす枝に身体を打ちつけながら抜けきると、そこは人が歩くための歩道となっていた。

サザノメは警戒を強めながら道を突き進んだ。人間などに殺されるほどに自分は弱くはないと思うが、それでも知らぬ者の敵意とはなににも勝って恐ろしいものだ。

 道を抜け出ると、その場所を見ると恐怖も吹っ飛んだ。

「これは」

 灰色の、人が住んでいたはずの建物の瓦礫。今はもう廃墟といってもいいほどに黒ずんだそれらをサザノメは唖然と見つめた。

 十人、二十人は暮らしていたと思われるそこは人の命の気配は一切としてない。

「なにがあったんだ」

 サザノメが震える声で呟くのに、エレツが背から降りた。

「なぁ、なにがあったんだ、これ」

「火を放たなければ、ここまでならなかった」

 エレツの言葉にサザノメは目を見開き、顔をあげた。

「なにをしたんだ」

 沈黙。

「エレツ、何をしたんだ」

 サザノメは強い口調で問う。

「俺が、この村に火を放った」

 追い詰められ、血を吐く様な告白にサザノメは愕然とした。

 すぐに狙われても驚いていなかったエレツを思い出す。背に乗せていれば、その人間の緊張くらいは汗のにおいでわかるはずだが、エレツにははっきりとした変化がなかった。いや、攻撃されたときにはかすかだが驚きに身を強張らせていたが、それ以上のものはなかったように思う。

「何しにここに来たんだ」

 エレツは、明らかにこの村の道を自分に示したことがサザノメにはますますわからない。

「謝るためだ」

 エレツはそれだけ言うと、村の中へと歩いて行く。サザノメもそれに従った。村の中央にはいくつもの木の棒が立っていた。それが人の墓だと悟るのは容易なことだった。誰が、どのようにしたのかはわからない。こんな有様の村では、すべての死体を回収するなんてほとんど不可能に近かっただろうに。それでもわかる範囲で死者たちに安息を与えよとしているのが痛いほどに伝わってくる。

 墓の前でエレツが目を伏せたのにサザノメは横にちょこんと腰掛けたが、なんだかずっとここにいることもできなくて、すぐに立ち上がり焼きただれた村の中を歩いた。

 焼けて黒くなったままの土、子どもが持つような小さな人形は赤く爛れ、それに濃厚な血の匂いを感じられる。あの男は、なにを考えて、ここまできたのか。謝ると言ったが、それがなんになるのか。サザノメにはまるでわからない。

 ただ先ほどの矢の理由はわかった。

 彼ら――といっても相手の数はわからないが、エレツを殺したいのだ。

 人は憎しみを忘れない。自らされたことを忘れない。憎悪と畏怖を抱え、もし、そのものが現れれば……

 どうなるかというのは考えることは容易い。

 サザノメはそのとき複数の気配を感じて耳をぴんと立てた。

 逃げようか。

 不意にそんなことを考えた。こんな厄介なやつに付き合っていれば、こちらの身が持たない。なによりも旅が難しくなる。もっと別の、安全な相手を探し出せば

 考えながらサザノメは気配を殺して瓦礫の影からエレツのいるはずのところを覗き見てぎょっとした。

 十人くらいの村人たちが鍬や斧を持ってエレツを取り囲んでいる。あの馬鹿、なんで剣を抜かない。

 村人たちは明らかに怯えている。そんな相手だったら剣を抜いて少し脅せば、すぐに隙をついて逃げられるだろうに。

 エレツは一向に腰の剣を抜こうともしないのにサザノメは苛立った。その間に一人がエレツに襲い掛かってきた。エレツがなんとかその鍬を避けるが、もう一人が声をあげて殴りかかってきたのは避け切れなかった。エレツがバランスを失い崩れるのに彼らは武器を持ってわっと迫ってくる。

 もう見ていられない。


 太い遠吠えが響く。

 村人たちは一瞬何事かと思って驚いた次の瞬間、エレツの前に躍り出た黒い獣が村人の一人を地面に倒した。集まっていた人々は恐怖に陥って動きを止めた。黒い獣はエレツの元に駆け寄り、乱暴に服を銜えて自分の背中に乗せるとひらりと走り出した。

「……っ、助かった」

 苦しげにエレツは呻く。

「死ぬところだったぞ」

「まだ、死なないさ」

「抵抗しろよ。せめて」

「それで気がすむなら」

 エレツの言葉の意味をサザノメは理解できなかったが、走りながらじわじわと頭に意味が伝わってきた。

 村人たちが自分を痛めつけて気が晴れれば、それでいいと思っているのか。この男は。

 なんて愚かな男だろうか。

 サザノメは心の中で吐き捨て、走る速度を緩めた。

 走りながら耳に神経を集中させる。

 追いかけてくる気配はない。彼らにしてみれば、獣のことも、エレツのことも、悪い夢だと思っているかもしれない。サザノメは、そこでようやく足をとめた。周りを見て大きな木の幹があったのに近づき、エレツを乱暴にそこに降ろすと人の姿に戻った。サザノメの手が服に手をかかると、エレツが顔をしかめた。

「傷の手当だ。じっとしていろ」

 思えば、この男の肌なんてちゃんと見たことがなかった。

 服を脱がせて、その肉体を凝視してサザノメは息を飲んだ。

 エレツの逞しい肉体は赤黒く、まるで傷が肌を覆い尽くそうとするようにひどい有様だった。これは先ほどだけではない、ずっと昔からのものもある。

 触れるのも、見るのですら忌まわしいとすら思い、目を背けたくなる。

 サザノメは手をとめて、じっと傷を見た。

 肉体を重ねたときは、ほとんど服を脱がなかった。エレツはこれを見られるのをいやがっていたのか。確かに、見たら自分でも躊躇ったかもしれない。なぜか乾いた笑いが込み上げてきた。

 胴のところは特にひどかった。赤黒く染まった肌に、サザノメは少しだけ迷って、身を乗り出すとエレツの肩に顔を近づけて、今しがたできた傷に舌を這わせて、きつく吸い、血を吸い上げると、ぺっと地面に吐き捨てた。エレツが顔をしかめたが、何も言わずに血を吸い上げることを三度したあと、何度か嘗めた。そうすることが傷を癒すのに一番手早いからだ。嘗めていくとわかったが、血の流れる傷は、いくつかあった。自分が助けるまえにも攻撃されたらしい。

 血が止まったのにサザノメは自分の口元を拭った。

「お前、なんのために生きてるんだ」

「……生かされている」

 何に。

 そして、誰に。

 サザノメは問わなかった。苦しげにエレツが息をして、目を伏せてしまったからだ。

 この男をどうして自分は選んだのか。そして捨てきれないのか、サザノメにはわかった。自分に似ているのだ。自分の探し物。あれが自分を生かしてくれている。自分のすべて。たぶん、この男の生かされている存在と良く似ているのだろうなと思うと胸が鈍く痛んだ。

 また、村人たちの暗い瞳を思い出すとひどく悪い酒を飲んで酔ったような胸やけの苦しみを思い出す。

 憎悪に酔ったのだ。

 口には血の味が広がっている。サザノメは思わず手で口を押さえて息を吐いた。

 苦しげなエレツの吐息を聞き、サザノメは口付けを落とした。

 そうしなくてはいけないと、思ったのだ。

 ひどく冷たい血の味しかないキスだった。

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