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結局、松本さんは部署を異動することになった。時期はずれのイレギュラーな異動。
彼女が最後まで仕事ができるようにならなかったことについて、だれもわたしのことを責めなかった。それどころか、よく頑張った、とだれもが言ってくれた。でも、彼女が異動になったあともわたしは体調を崩したままで、そしてそのまま次の春に、ぽっきりと折れてしまった。身体というよりわたしの心が、あんなことで、あんな人のせいで、いとも簡単に折れてしまった。
彼女を恨んではいけないということはわかっていた。彼女は、松本さんは決して悪気があったわけではなく、さぼっていたわけでもなかった。彼女は悪くない。ただ、ただひたすら、仕事ができなかった、それだけだった。
松本さんと雑談をしたことは、ほとんどない。部署のほかの人たちとも、彼女はプライベートの話を、ほとんどしなかったんじゃないかと思う。そんな彼女が唯一好きだと言っていたのが、恐竜だった。いつ、それを聞いたのかは、もう忘れてしまった。だれかほかの人から聞いたのだったかもしれない。
母はわたしに、わかりやすく「女の子らしさ」を求めた。母にとって恐竜は「男の子のもの」で、だからわたしは絵本でもおもちゃでも、恐竜というものにほとんど触れず、恐竜のことを、何も思わずに生きていた。でも、それを知ってから、松本さんが恐竜を好きだと知ってから、わたしは恐竜が嫌いになった。嫌いで、憎くて、そして、怖くなってしまった。
どうして、どうして、と思っていた。いまも、思い続けている。どうして頑張れないのと母に問われるまでもなく、ずっと。
『敵に襲われにくいように、いくつもの家族が集まって巣を作ったんですね』
『そうです、親は卵を温めてかえし、子どもを守りながら育てました……マイアサウラという名前は、”りっぱなおかあさんトカゲ”という意味なんですよ』
『優しいんですねえ、マイアサウラは』
「優しかねぇよ」
「え、」
そんなはずはないのに、一瞬だけ深く眠ってしまったような感覚だった。いきなり前から声がして驚いて目を開けると、春貴は顔だけ横を向けてテレビ画面のほうを見ていた。
「ごはんやって育てたらそれが優しいってわけじゃ、ないだろ」
「……」
「それはさ、義務っつうかさ、なんか、ちがうんだよ、できなかったら優しくないとか、そういうことでもねえし、なんかさ」
「……、」
「それが優しさだったらさ、おかしいよ、うちみたいのも、優しいってことに、なるじゃんか」
あ、怒っている、と思った。春貴が怒ったのを、そういえば初めて見た。おぼえていないだけだろうか、春貴のことをわたしは、本当によく知らない。
「それにさ、ほかの恐竜とか、ほかの生きもんは優しくないかっつったら、そんなことねえだろ、たまたま、そういう習性ってだけでさ」
「……、うん、」
「つうか、さ、優しいとかりっぱとかおかあさんとかさ、人間の尺度ではかんなって、思うよ」
わからん、うまく言えないよ、と春貴はこちらへ向き直って、すねたような、ひどく悔しそうな顔をした。言葉は足りなかったかもしれないけれど、でも、わたしにはよくわかったという気もした。水のグラスを手にとって一口飲む。みぞおちに冷たいものが落ち、すぐ消えて行った。春貴は、いま、わたしのために怒ってくれたろうか。
「マイアサウラは優しくない、」
「……、」
「ごめんね、春貴」
「……、なんだよ、……まあ、さ、マイアサウラに怒んのは、ちがうよな、優しいかどうかは知らんけど、べつに悪いことしてるわけじゃないし、そういう恐竜だったってだけだもんな」
勝手に、母はわたしのことほど、春貴を支配下に置きたいとは思っていないんじゃないかな、と感じていた。だからといってべつに春貴が羨ましいとも、思ったことはない。けれど、でも、きっと春貴も苦しかった。わたしはきっと、自分が思っているよりずっと、なにも考えずに生きてきた。
「恐竜、嫌なの?」
不意をつかれて、頷いた。チャンネル変えてもらおうか、と言う声は、もう怒ってはいなかった。
「いい、もう出よ、大丈夫だから」
「わかった」
会計は春貴が払ってくれた。いいのに、と千円札を渡そうとすると、いいって、と強く言われる。
「いらないよ、さーちゃん、さ、これでさ、なんか派手な色の、Tシャツとか買えよ」
「え」
「派手な服、着なよ」
「……、」
思い出した、高校生のとき初めて、クラスの友達にもらった鮮やかなピンク色のTシャツを、部屋で着ていたことがある。わたしは聴いたことがなかったが彼女の好きなバンドのツアーTシャツで、文化祭のとき、お揃いで着ようと言って譲ってくれたものだった。
それを見た母は下品だといってひどく怒り、さすがにわたしの着ているそれを引き裂くようなことはしなかったが、最終的にわたしの部屋のカーテンを縦に引き裂いた。カーテンは、母の好きな白地に小花柄のものだったのに。それからわたしは、いっそう母の選んだ服だけを着て過ごすようになった。
Tシャツはいつの間にかなくなっていた。母が捨てたのだろう。わたしは、それについて何も言わなかった。母と言い争うのには莫大なエネルギーを使うことはわかっていた。それで友達と仲たがいするようなこともなかったから、きっと彼女にとってもイベントが過ぎ去れば、いつの間にか忘れてしまうようなものだったのだろう。カーテンも、いつの間にか新しくなっていた。
「何色かわかんないし、見ても」
「店の人に聞きゃわかるよ、どれが派手ですかって」
なんだそれ、と言って笑おうとしたら、ぽろぽろと涙が出た。
あのショッキングピンクのTシャツは、わたしに似合っていなかった。ああ、でも、わたしは、あのTシャツが好きだった。
「千円じゃTシャツ、買えないよ」
「え、買えるよ、俺がいつも行く古着屋、五百円であるよ、今から行こうか?」
「行かないよ、……でも、じゃあ、さ、買うよ、派手な服は」
うん、と小さく頷いて、じゃあまた、と言って春貴は向こうを向き、そのまま一度も振り向かずに、雑踏を器用に歩いて去って行った。
なんで恐竜が嫌なのと、春貴は尋ねなかった。わたしも話さなかったのに、どうしてか、ぜんぶ聞いてもらったような気持ちだった。ありがとう、と小さく言うと、風が吹いた。
たぶんわたしの心はまだ折れたままなのだろうけれど、さっきまでの苦しさは少し薄れていた。頬に落ちた涙だけ拭って、反対方向を向いて、わたしも歩き出した。潤んだ視界はグレーのままだけれど、少しだけあかるいように感じられた。
マイアサウラは優しくない 伴美砂都 @misatovan
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