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 新卒で入った会社は、全国的にも名のとおった商社だった。そこで、わたしはいじめに遭った。

 ミーティングの予定を回してもらえなかったり聞こえるように悪口を言われるのは序の口で、それぞれ担当を割り振られて仕事をするようになると、わたしが作って営業の人に渡すはずの資料や取引先に出す書類を捨てられたり、共有フォルダに入れておいたファイルを勝手に書き換えられたりするようになった。

 研修とOJTまではほかの新入社員と同じように受けていたはずなのに、いつしかその同期たちも「いじめる側」になって、わたしが真っ青になって廃棄書類のボックスの中を探したり、社内サーバの中のデータに検索をかけるのを、少し離れた場所から見て笑っていた。

 期日までに出さなければならない書類が提出できないわけだから、事情を知らない上の人たちにはもちろん叱られた。でも、なぜ、と問われても、嫌がらせをされていますとは言えなかった。


 小学校の校舎に、「いじめゼロ!」、という横断幕がかかっていたのをおぼえている。ばかみたいだな、と思いながら下を通っていた。先生たちの意思表示みたいなものだったのか、牽制だったのか、それとも、あの垂れ幕を作った人がひとりで、いじめはゼロだと思いこんでいたのか、ともかく、どの学年でも、いじめはあった。

 いじめは、いじめるほうが悪いのだと、いじめられる人は決して悪くないと先生たちは言った。けれどわたしたちは、必ずしもそうでないことを知っていた。

 ターゲットにならなかったのは、ただのラッキーだったのだと思う。けれど、気を付けてはいた。目立ちすぎないように、でも、存在感を消しすぎないように。「いい子」になりすぎないように、でも、ひとが嫌がることを言う子にならないように。校則を守りすぎないように、でも、反抗しすぎないように。

 それは、教科書や成績表には決して載らない、スキルだった。「不潔な人」にならないように、「いじられやすい人」にならないように、「いじめられやすい」人にならないように、「嫌われやすい」人にならないように。いじめられる人は、それができない人なのだと、わたしは、わたしたちは、たしかに知っていた。

 わたしは、恥ずかしいと思ってしまったのだ。「いじめられるような人」に、自分がなってしまったことが。


 仕事が期日に遅れるうえきちんと理由を言わないから、やる気がないと見なされたのだろう。そのうち男性社員や管理職にも白い目で見られるようになり、大きな声で叱責されたり、後ろを通るとき、わざと椅子を蹴られたりするようになった。

 それでもわたしは会社に行き続けた。データを共有フォルダに入れれば勝手に触られてしまうから、USBメモリを一つ自分で買って持って行って、その中に全部のデータを入れて、ジャケットのポケットにずっと入れていた。紙で出した書類も全部持ち歩き、私物もうっかり置いておくと隠されたり壊されたりしてしまうから、いつも通勤用の鞄と、書類ケースに満杯に詰めた書類を、お手洗いにすら全部抱えて持って行っていた。その姿は嘲笑の的になっていると、そして、余計に相手を刺激するだけだとわかっていたけれど、それでも。

 あきらかに無茶な量の仕事を振られても、無理ですとは意地でも言わず、毎日深夜まで残業した。家族はもちろん、友達にも、当時付き合っていた恋人にも、会社でのことは一言も言わなかった。休日出勤もしていたから学生時代の友達とはどんどん疎遠になり、恋人とも、冬になるころ、別れた。


 そうまでして仕事をし続けようとしていたのに、最終的には、一年経たずにあっけなく辞めた。やっと、年度末を迎えようとしたころだった。

 その日は晴れていた。外出する用事があり、一人になって少しほっとしていたところだった。駅のホームで、知らない女の人に、あなた、と声をかけられた。優しそうなそのおばさんがそっと渡してくれたハンカチには、生理用品がひとつ挟まれていた。

 そっと後ろを見やると、スカートに血が滲んでいた。ストレスで周期が乱れたのだろうかと思ったが、ちがった。下腹部ではなく太腿に、じくりと痛みが走った。駅のトイレでスカートを上げようとするとぱちんと音がして何かが床に落ちた。おそらく椅子に置かれていたと思しき画鋲が、スカートの上から刺さったままになっていたのだった。

 あの画鋲は、そのままにしてきただろうか。使わなかった生理用品は、見知らぬ女性がくれたハンカチは、どうしたのだったろうか。強い風が吹いていた。会社に戻ってワードファイルを立ち上げ退職届を書いた。


 わたしが体調を崩して行けなくなってしまった会社は、しかしそこではない。ふたつめに勤めた会社だ。半多製薬という、全国区ではないが地元ではそれなりに大きな製薬会社。地元では、というのも、それなりに、というのも母にはあまり気に入らなかったみたいだけれど、でも、そこは、わたしにとって、社会でやっと見つけた居場所だった。

 半多製薬でわたしが配属されたのは、本社の広報部だった。プレスリリースや社内外へ配布する広報誌の製作、ウェブサイトの管理、イベントの企画運営が主な業務。人数が少ないわりに業務量の多い部署で、仕事は忙しかった。けれど、まえの会社で妨害を受けながらひとりでこなしていた仕事の量に比べれば大したことはなかった。大学で商業デザインを勉強していたから、広報の仕事は楽しかった。

 そして、なにより、部署の人たちが皆、優しかった。朝、挨拶したら返事が返ってくることを、悪口や叱責以外で名を呼んでもらえることを、共有サーバに入れたファイルが次の日まで無事に残っていることを、椅子に座る前に異物が置かれていないか確認しなくても良いことを、私物をぜんぶ持って席を立たなくても良いことを、大袈裟じゃなく、わたしは毎日噛みしめるように幸せに思っていた。彼女が、来るまでは。


 半多製薬に勤めて三年目の春、初めて後輩ができた。宮本さんと、松本さん。広報部に二人も新入社員が配属されるのは珍しいといって、なんとなく部内がそわそわした空気に包まれていたのをおぼえている。

 宮本さんには主任が、松本さんにはわたしが、教育係としてつくことになった。教育といっても、自分のやっている仕事を教えて一部を引き継ぐというだけだったけれど、まえの会社は後輩ができる前に辞めてしまったから、わたしは嬉しかった。

 でも、松本さんはいつまで経っても仕事ができるようにならなかった。何度も同じことを説明するのはもちろん、マニュアルを細かな手順に作り直したり、書類をクロスチェックしたときにはどこが間違っていたのかきちんと付箋を付けて示したり、コーチングの本を買って読んだりもした。それでも、駄目だった。彼女の仕事はいつも、やるべきことをせずに放置しているか、あるいは取り組んだとしても、必ずどこか大切な部分が間違っていた。

 何度もそんなことが続いたあと、わたしは残業して、せめて定例の入力業務のミスを減らすために、フォーマットを作り直すことにした。そうしなければ、チェック作業に時間を取られてしまって自分の業務にもっと支障をきたすと思ったからだった。各部署から受け取ったデータの決まった部分をコピーして決まった場所に貼りつければ、そのまま使えるようなファイルを作った。そのときにはもう、松本さんにはイベントの企画や外部の人とのやり取りなんかは皆、任せないようになっていて、彼女は単純な入力や事務仕事をするだけになっていた。

 新しいファイルを使った翌月の入力作業で、松本さんから返ってきたデータは惨憺たるものだった。

 デスクの椅子に座ったまま、わたしはしばらく立ち上がることができなかった。関数がぐちゃぐちゃになったエクセルの表は、わたしがまえの会社で見た、勝手に書き換えられてしまってどう頑張っても数字が合わなくされた表を思い起こさせ、一瞬、どんなに頑張っても頑張っても終わらない、誰も助けてくれない仕事に埋もれて、嘲笑と叱責を浴びせかけられていたあの日々に突き戻した。

 そのとき主任の谷口さんが、津田ちゃん、と呼んでくれたのをおぼえている。津田ちゃん、どうした、顔色悪いけど、具合悪い? そう言われて、はっとして顔を上げた。だいじょうぶです、とごまかすようにして立ったお手洗いで、わたしはずいぶん長い間、荒い呼吸を治めることができなかった。


 どうして、と思った。どうして、今なんだろう。周りが敵ばかりだったあのころに比べて、今は皆が味方なのに。しまっておいた書類まで勝手に捨てられていたあのころに比べて、わたしがうっかりコピー機に忘れてしまった印刷物を、そっと机の上に置いておいてくれるような人ばかりなのに。

 どうして、あんなに仕事ができないのに、皆、松本さんに優しいんだろう。もちろん、何度も同じミスを繰り返すようなとき、あえて少し厳しい口調で指示をすることはある。けれど、それだけだ。暴言を吐くことも、無視をすることも、会議やイベントのスケジュールを一人だけ教えないようなことも、ものを隠すことも、横を通ったときくすくすと笑うことも、パソコンにジュースをかけることも、データを消して作り直させることも、椅子を蹴ることも、ない。松本さんができないぶんの仕事は、ほかの係員に公平に割り振られた。

 うらやましい、と思った。なんで、あんなに仕事ができないのに、優しくしてもらえるんだろう。あんなに人に迷惑をかけているのに、どうして、どうして皆、松本さんのことをいじめないんだろう。

 おなかをこわしたり吐いたり、起きられなかったりしてときどき会社を休んでしまうようになったのは、そのころからだった。

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