マイアサウラは優しくない

伴美砂都

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 繁華街から奥に一本入った細い道で、ここでいい、と春貴はるきが示したのは革張りのソファを照度の低い明かりが照らす静かなカフェだった。サッカーで真っ黒になって帰ってくる姿しかおぼえていないような弟は、何年も離れて暮らすうち、こんなお洒落っぽいお店に入るようになったんだなとぼんやり思った。


「よく来るの?」


 しかし尋ねるとこともなげに、いや全然、と首を横に振る。


「見たらあっただけ」


 スタバよりいいっしょ、と言われて頷く。たしかにさっき通り過ぎた表通りのスターバックスより、ここはずっと静かだ。最近のわたしが、人の多いところやうるさいところにいると具合が悪くなってしまうのだということを、春貴は知らないはずなのに。

 二階の奥の席に通され、わたしたちは向き合って座った。五月になってすぐだというのに夏のような暑さで、もうかかっているエアコンの風に、うっすらかいた汗が冷える。



 四つ下の春貴は全寮制の高校に入ったとき家を出、思えばそれから数えるほどしか会っていない。数年ぶりに電話をして、一人暮らしをするからアパートの保証人になってほしいんだけど、と言ったとき、少しの間のあと、どうして俺、とか、いいとかだめとかじゃなく、え、まじで、と驚いたような声を出した。


「まだあそこ出てないの、地獄じゃん」


 しばらく黙ってしまった。地獄、といわれて思い浮かぶのは、小学校のころ道徳の授業かなにかで見させられた、食べものを粗末にしたお坊さんか商人だったかが地獄に落ちて、永遠に火に焼かれたり、飢えたりする、というアニメーションだ。少なくとも、わたしは飢えたことはない。火に焼かれるというほどの暴力も、受けたことはない。

 けれど、母は子どものころからわたしに対して、愛情というより、支配欲のようなものを強くもっていた。それを地獄というならば、そうなのかもしれない。

 わたしが体調を崩して会社に行けなくなり、休職と同時に一人暮らしをしたいと言ったとき、母は猛反対した。新卒で勤めた会社を一年で辞め、厳しい転職活動の末にやっと入った会社だった。心配してくれたのだろうと、むかしのわたしなら思っただろう。あるいは、なにも思わずに。でも、あのときにはもう気付いていた。高校受験も大学受験も最初の就職も自分の言うとおりやってきたわたしが言うことを聞かなかったから、許せなかったのだろうと。

 どうしてなの、もう少し頑張れないのとさんざん泣かれて罵られ、それでもわたしが意志を曲げないのを見て、母はすっと冷たい目になり、もういいわ、と言った。幼いころからずっと彼女の言うなりになってきたわたしの、それが初めての反抗で、それが断絶だった。

 父は反対はしなかったが、わたしを庇うようなことも言わなかった。むかしからずっとそうだ。アパートの保証人には、頼めばなってもらえたかもしれないけど、母に伝わったらまた大ごとになりそうで嫌だった。

 そうなると、思いつく人は多くなかった。春貴はもしかしたら電話番号も変わっているんじゃないかと思ったが、意外にもすぐに電話に出た。その声は記憶よりずいぶんと大人びていて、でも、弟の声だとすぐにわかった。



 頼んだものが届くまでのあいだに、春貴は必要な書類をぜんぶ書いてくれ、いくつかの判子をきれいに、まっすぐ押した。今更だけれど、もう社会人なんだなと思う。書かれた会社の名前を、うっすらとだけ聞いたことがあった。


「何してるの、最近」

「俺? ん、まあ、ふつう、まっとうに働いてるから、心配しなくていいよ」

「……そういう心配してるわけじゃ、ないけど」


 アイスコーヒーとレモンスカッシュが届く。チョコレートパフェがわたしの前に置かれたのを、春貴がそっと引っ張る。


「あ、でも、ちょっと食う?」

「いい」

「そう?」


 細いカフェスプーンの限界までクリームを盛って口に運ぶ弟は、元気そうな姿だ。なのだろう、きっと。顔色がどうかとか、わからないけど。そういえばわたしは、弟が元気そうかどうかなんて、これまで気にしたことがなかった。

 ゆっくりとストローを咥える。レモンの香りが鼻に抜ける。沈黙が降りる。壁にかかった薄型のテレビのなかで、オーケストラが音楽を奏でている。


「そういやさ、今年行った花見」


 沈黙に耐えかねたのか、いや、そんな性格でもなかった気がするのだけれど、春貴はおもむろにスマホを取り出しこちらへ画面を向けた。どこかの公園なのだろう、もこもことした桜の花らしきものが、ずいぶん遠くまで重なり合うように写っていた。


「なんかいい色だろ」

「……」

「……」


 以上、と言って春貴はスマホをポケットに戻す。笑ってみせるでもなく、気を悪くしたふうでもなく。テレビからさざ波のような拍手の音が聴こえる。あのね、と言うと、顔を上げてこちらを見た。


「……、今、見えないんだよね、わたし、なんでか知らないんだけど、色がわかんないの」


 このことは、べつに話すつもりではなかった。なんでか知らないと言ったけれど、原因はだいたいわかっているし、身体に異常があるかどうかで言ったら、病院で検査をしてもらったけど、何もない。

 どうして口に出してしまったのか、四月一日の、たぶん春貴が今、わたしに見せた桜と同じぐらいの時期だ、朝に電車に乗るはずだった駅舎の満開になった桜がただの灰色の塊に見えたこと、その日からついに会社に行けなくなってしまったことが、ほんのひと月ほどまえのことなのだと、ふと思ったからだろうか、それとも、子どものころの姿しか記憶になかった弟が、がっしりとした大人に、なっていたからだろうか。

 ふっと頭が重くなって、一度、目を伏せる。今日、着ているカットソーは薄い色で、スカートは少し濃い色だ。グレーのグラデーションにしか見えない。

 わたしの持っている服はほとんどが薄い色なら白かベージュ、グレーか、色があってもパステルカラーのもの、濃い色なら黒か紺色で、それは、母の趣味だ。彼女はわたしが幼いときは薄いピンクや水色やタータンチェック柄の服を、大人になってからは、ベージュやグレーや白などの服を着せたがった。無地か大きすぎない柄で、ツインニットと膝丈のスカートとか、腕が出すぎない袖丈のワンピースとか、七分袖でやわらかい素材のジャケットとか。

 救いがあるとすれば色がわからない今、ときどき外へ出るとき何をどう着ていても、おそらく素っ頓狂な組み合わせにはならないことで、きっとこれらの服は自分で思うよりずっと、わたしに似合っている。


 春貴のコーヒーとパフェはもう空になっていた。レモンスカッシュは半分ほど残っているが、これ以上なにか口に入れたら吐いてしまうかもしれないと思った。ありがとね、と言って立ち上がろうとすると、待って、と言って春貴はレモンスカッシュのグラスを取り、わたしが残したのを勝手に飲み干す。そして、ひたとわたしのほうを見た。


「さーちゃん」


 さーちゃん、と、そういえば春貴はわたしのことをそう呼んだ。幼いころだ。懐かしいとか嬉しいとかそういうのじゃなく、せつなさに近いような感情が喉もとから胃の腑まで、一瞬だけ吹き荒れた。


「ごめんな」

「え」

「俺だけ、勝手に出た、から、残ってたろ、あの家に、さーちゃんだけ」

「……、」


 そのとき音楽番組の終わったテレビに、古生物紀行、という文字が映ったのが横目に見えた。どきんと心臓が跳ねる。立ち去ればよかったのに、わたしはソファに座り直してしまった。


「……それは、さ、べつに、」


 そういえば、わたしも春貴も春生まれだ。春貴の名は父がつけたのだときいたことがある。咲良さくら、というわたしの名をつけたのは、母だ。良く咲くことを望まれた。いまのわたしは、母にとって良く咲いていない。それで今日、ここにいて、でも、だからわたしは、やっとあそこを出て行くのだ。


『マイアサウラは、営巣地えいそうちをつくって子育てをする恐竜です』


 テレビからアナウンサーの声が聞こえた。すっと手が冷たくなる。見たくない、と思った。わたしは、恐竜を見たくない。


「さーちゃん、おい、大丈夫? 帰る? 水飲む?」


 春貴の声が遠い。耳鳴りがする。首を横に振った。目を閉じて、ソファの背に凭れた。



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