星の子ステラーのちいさな冒険

上衣ルイ

星の子と涙の星屑


夜空を旅する星の群れの中に、ひときわ大きな一つの輝きがありました。

それは少女の形をした煌めきで、名前をステラーといいます。

彼女は災いを呼び、時に願いを叶える星の子と呼ばれるものです。

天の川のような白銀色の髪に、夕焼け色の瞳をした、それはそれは可愛らしい少女です。彼女は夜のとばりから切り取ったワンピースを着て、カンテラを手に、色んな世界を旅していました。


ある日のステラーは、七十年に一度訪れる、ハレー彗星の尾っぽに腰かけて、先ほど捕まえたばかりの小さな綿雲をむしゃむしゃと頬張っていました。

綿雲には小さな星屑が詰まっていますので、頬張るとぱちぱちと口の中ではじけて、甘じょっぱい味がします。

それにしてもハレー彗星の速いことといったら、食べこぼしの星屑がパラパラと無重力にさらわれていきます。

季節は夏。そろそろ雨が激しくなるころでしょう。


「きゃあ!今日はいちだんと星吹風が強いのね」


びゅうびゅうと宇宙に、強い風が吹きます。

これは星吹風といい、本当の風ではなくて、局地的に渦を巻くように発生する、強い強い重力のような力です。

ハレー彗星の尾っぽに座っていたステラーは、強い星吹風に巻き込まれて、うっかり綿雲を落としてしまいました。


「あっいけない!地球に綿雲がおっこちちゃう!」


ぱらぱらぱら。

綿雲の中の一欠片が花開いて、ゆっくりと松の種のように地球を目指して舞い降りていきます。

落ちていく先は、東のはてにある、日本という国。

その小さな島国の、更に小さい小さい田舎村の片隅で、生まれたばかりのうねうねとしたよく分からない白い何かが、田んぼの中で蠢いていました。

それは自分が何者なのかよく分からず、ただうねうねと体をくねらせていました。

そのとき、空から何かが降ってきて、コツンと頭に当たりました。それは、ほたるの食べこぼしの綿雲のかけらでした。

白いものは驚いた拍子に姿を変えて、一匹の小さな蛭になっていました。

小さな蛭はおずおずと綿雲に近寄って、それをじゅるじゅると啜ってみました。


「なんだこれは。食べるとぱちぱちして、体のなかではじけるぞ。なるほど、これはおいしい、というものか」


小さな蛭は急にそんなことを考えるようになったかと思うと、まるで蛙のような手足が生えてきました。

おまけに、普通の蛭とは違って、血ではなく別のものを啜りたい、と思うようになりました。

綿雲の中に紛れた星の力で、小さな蛭は知性を得て進化したのです。

世界でたった一匹の、特別な蛭の誕生です。


「もっとじゅるじゅる吸いたいな。血よりもおいしいものが食べたいな」


蛭が食べたくなったものは、「記憶」でした。

頭の中にある、血より栄養があるものとして、蛭が選んだ食べ物です。

初めて吸ったのは、蛙の記憶でした。しかし蛙の記憶ではお腹が満たされません。

次に吸ったのは、合鴨の記憶でした。ですが、これでも足りません。

次は狸、次は猪、次は鹿、次は熊。やがて蛭は、田んぼによく訪れる、人間の記憶を吸うようになりました。

幸いにも、記憶を啜られたところで、記憶そのものが奪われるわけではありません。

ただ、啜られた記憶がうまく思い出せなくなったり、ぼんやりとしたものになってしまう程度です。


「うまい、うまい。人間のきおくは、なんておいしいんだ。

 しかも色んな味があるぞ。小さいやつは、そんなに量はないけど、しわしわで腰のまがった人間は、沢山きおくを持っていて、味もいっぱいあるぞ。こりゃあいい」


人間の記憶は旨味があって、どれだけたくさん食べても食べきれないので、蛭はご満悦でした。

けれども今度は舌が肥えてしまって(蛭に舌があるかどうかは定かではありませんが)、もっと沢山の人間の記憶を啜りたい、と思うようになりました。

いつしか蛭は大きくなって、どんどん太っていって、人間と同じくらいの大きさにまで成長しました。


「この姿のままだと、人間たちはみんな「化けみみず」だの「化け蛭」だのと怖がって近寄ってくれないなあ。そうだ、人間の姿になってみよう」


蛭は人間に化ける術も覚えました。蛭は吸い取った記憶から、いろんな人間に化けました。

そして、記憶通りにその人の動きや口調を真似ては、人を喜ばせたり、悲しませたり、怒らせたりしました。

どうして人間は、化けた自分を見て喜んだり、悲しんだり、怒ったりするのか、蛭には分かりませんでした。

一つ、理解出来ることがあったとすれば、それは人間が、記憶に頼っていきている、ということでした。


「人間の記憶が美味しいのは、「感情」というものがあるからだな。

 あの綿雲のようにぱちぱちと弾けるのは、感情が持つエネルギーなんだ」 


丁度そんな時、蛭はある少年を見つけました。

くすんだ金の髪に、きらきらと黄金色の瞳。世間では美しいと評される顔立ちの持ち主でしたが、蛭にとっては同じ餌に変わりありません。

ようし、こいつも吸ってやろう、と蛭は飛びついて早速啜りますが、吃驚仰天。

この少年には、まるで記憶というものがないのです。


「なんてことだ!お前、記憶がないのか!とんだスカを引いちまった!」

「人をくじ引きのハズレみたいに言いやがって。失礼なヤツ」

「お前、なんで記憶がないんだ?」

「落としちまったからだよ」


この少年はジュンという名前で、十六の年より以前の記憶は、すっぽり抜け落ちているのでした。

しかも、その記憶も、まるで固まった血と泥みたいな味がするのです。蛭はとても残念な気持ちになりました。

蛭は沢山の記憶を吸って、人間に混じって生きてきたので、人間がどういうものか多少なりは知っているつもりです。

人間は記憶が無ければ生きていけない生き物だと蛭は思っていたので、ジュンという存在に大きなショックを受けました。


「なんて食いでのない奴だろう。喜びとか悲しみってものがあっても、記憶がないんじゃ餌にもなりゃあしない」

「人を餌呼ばわりする奴に呆れられてもなあ、言いがかりつけられているみたいで気分が悪いぜ。

 それよりお前、むやみに人の記憶を啜るのはやめろよな。品がないぜ。お前を退治しなくちゃいけなくなる」

「ひどいことを言ってくれるなあ!俺は飯が食いたいだけなんだぜ。食事してるだけで退治されるなんて理不尽だ」

「じゃ、むやみやたらに人を襲うのはやめるんだな」

「でも俺の飯はどうするんだよ」

「じゃあ、俺と来いよ。啜ってもいい相手ってやつを教えてやる」

「ちぇっ、ちぇっ。退治されるよりはマシかあ」


蛭は、ジュンの友達になりました。

時には彼と全く同じ姿をとって、双子の兄弟のように接するようになりました。

ジュンが食事として差し出したのは、人間に害をなす妖怪や獣の類でした。

一緒に妖怪たちを退治する代わりに、蛭は食事には困らなくなりました。

妖怪の記憶というものは、薄味だったり胃もたれしたりと、必ずしも美味しいとはいえませんでしたが、空腹に困ることはなくなりましたし、なにより沢山の友達ができました。


「ジュンって、記憶がないのに困ったりしないわけ?」

「別に。今が楽しいし、友達はいるし、過去にこだわってるわけでもないし」

「ふうん。そんなものか」


蛭には不思議に思うことがありました。

ジュンには記憶がないのに、何者でもないのに、誰かを喜ばせたり、悲しませたり、怒らせたりしていました。この男の側にいれば、もっと人間のことが分かるかもしれない。蛭はそう考えて、ジュンとますます一緒にいるようになりました。


暫く時が経つと、ジュンはある女と恋に落ちました。

女と一緒にいる時のジュンは、一番輝いていて、美味しそうに見えました。

女も、空いた穴がぴったりと収まったかのように、雲のように柔らかい笑顔をジュンに向けていました。蛭はそれを、とても羨ましいと思うようになりました。


「お前、またあの女と遊んでるわけ」

「良いじゃないか別に。俺だって恋くらい普通にしたいもの」


二人はよく、大きな時計台が目印の駅の前で待ち合わせをして、小指を少し触れ合わせながら街を歩いたり、珈琲を飲んだり、音楽を聞いたりして居ました。

二人はとても幸せそうでした。

けれどもジュンは、あっさりと女に別れを告げました。

遠い国へ帰るのだ、とジュンは言って、女はそれを悲しそうに見送りました。


「また戻ってくるよ」


ジュンはそう言いました。


「そうね、待ってるわ」


女はそれを嘘だと見抜いていました。

蛭はそれを見ながら、何故だかとても悲しくなりました。

ジュンが駅の大きな時計台を通り過ぎた時、そこにはもう一人のジュンがいました。もう一人のジュンは、去って行くジュンの背中を見送って、女の家へと向かいました。


「約束通り、戻ってきたよ」


ジュンそっくりに化けた蛭は、笑顔で女を抱きしめました。

そうして、二人の生活がはじまりました。ジュンの記憶を吸ったおかげで、彼に成りすますことは難しくありませんでした。


「どうして私の側にいてくれるの?」


女は尋ねると、決まって蛭はこう答えました。


「貴方がそう望んだと思ったから」

「それは、貴方の望みでもあるの?」

「分からない」


女は、蛭がジュンではないことに、とっくに気づいていました。

それでもジュンが隣にいると思えば、寂しさは紛れたのでしょう。穏やかな生活が続きました。

それからどれほど経ったでしょうか。

土砂降りの雨が続く日がありました。女は窓の外を眺めながら、蛭に体を預けていました。


「ねえ、知ってる?

ジュンって、雨が降る時の、ちょっと変な臭いがしていたの。

私、あの匂いが好きだったわ」


女は蛭に言うと、そっと微笑みました。

初めて見る、今までで一番、寂しそうな笑顔でした。

そんな顔を見て、蛭は左胸が大きくどきどきと鳴り響きました。


「不思議ね。貴方は、雨上がりのにおいがする」


囁くようにそう言うと、やにわに女は顔をくしゃくしゃにして、家を飛び出してしまいました。

蛭は驚いて女の後を追いかけます。


「どうして逃げるんだ。戻ってきてくれ」


蛭は叫びました。ジュンなら引き止めると思ったからです。

「駄目よ」女は梅雨の幕の向こうから叫びました。

「だってそれは、貴方が願ってるんじゃなくて、ジュンとして願っているから」


違う、と叫んだのに、強い雨の音にかき消されて、その声は届きません。

滝のような雨と白い煙が女を覆い隠して、蛭の手が届くことはありませんでした。

翌朝、何日も続いた雨が嘘のようにあがって、とても美しい青空が顔を覗かせました。


女は、帰ってきませんでした。

彼女がいつもかぶっていた、野球帽が川から見つかった以外に、手がかりはありませんでした。

蛭は抜け殻になったように、毎日を呆けて過ごしました。

やがて何度目かの夏を迎えた夜のこと、空には眩い星々が幾つも輝いていました。

蛭は野球帽子を被って、ふらふらと夜の散歩にでました。

誰かに呼ばれたような気がしたのです。

一番星が見える小高い丘の上に、蛭は足を運びました。そこで蛭は大変驚きました。丘の上には、成長して立派な青年になった、大人のジュンがいたからです。


「お前、蛭か?」


ジュンもたいそう驚きました。少年の自分が目の前にいるのだから、当たり前のことです。蛭は耐えきれず、咳切ってこれまでのことを語りました。

自分の身の上も、女のことも、何もかもをです。


「教えてくれ。俺は何を間違えたんだ?どうしてあの人はいなくなってしまったんだ?」


語るうちに、蛭はこみ上げてくる熱を、胸に、目頭に感じていました。

蛭は、どうして女が消えてしまったのか分からなかったのです。


「それは、女が幸せじゃなかったからだろう」

「どうしてだ。あの人の願いは、お前と一緒にいることじゃなかったのか」

「なら、違ったんだろう。女の望みはもっと別の願いだったのさ」


ジュンは目を伏せました。蛭はもっと困ってしまって、縋るように尋ねました。


「なら、彼女の願いはなんだったんだ」

「それは、お前が幸せになることだろうよ」

「分からない。俺には幸せが分からない。俺がお前になることであの人が幸せなら、俺はそれで良かったのに」

「だから、女は幸せになれなかったのさ。だから消えちまったんだ」


それを聞いて、蛭ははじめて、大声をあげて泣きました。

化ける意味を否定されてしまって、困惑してしまったのです。

化ける以外に空っぽな自分に、一体どんな意味が存在するのだろう?とてもとても、悲しくて、悔しいことでした。


「何でだ。どうしてだ。同じ空っぽなのに、お前は沢山の人間に必要とされてる。

 なのに、どうして俺は、誰一人必要とされないのだろう?女一人にでさえ!」


空には青い光の尾がいくつも引いて、夜が蛭と一緒に泣いているようにも見えました。

すると、その光の尾のひとつが、凄まじい勢いで蛭の頭上にまで近づくと、あどけない少女ステラーの姿に変身したではありませんか。


「ねえ、どうして泣いているの?私に教えてよ」


蛭は涙で皺くちゃになった顔でステラーを見上げました。

とても悲しくて辛くて、ステラーに驚くどころではなかったのです。


「俺は誰かになりきることしか能がないんだが、人を幸せにしようとしても、皆幸せな気持ちになってくれないんだ」


それを聞いたステラーは、むむむと首を傾げました。


「どうして人の真似をするの?」

「居なくなった人や会えない人に化けてなりきれば、喜んでくれる人がいたからだ。でも幸せだとは言ってくれなかった」


蛭はまたも、おいおいと泣きじゃくりました。

ステラーとジュンが宥めすかしても、泣き止むことはありません。


「俺には幸せにしたい人がいたんだ。

その人は俺が化けた男を好いていたから、彼になりきって側にいれば幸せだと思ったんだ。

なのに、悲しそうな顔をして消えてしまったんだ」

「それは……とても可哀想に。辛かったでしょう」


ステラーは蛭に同情しました。

なにせ蛭は、沢山の悲しみを抱えていました。

女がいなくなって初めて知る感情が多すぎました。

なにより、自分がいる意味は、誰かになりきることだと思っていたのに、結局誰も幸せにできないのですから、これほど切ないことはありません。


「なら、私に願って。私には願いを叶える力があるわ。だから、女の人が戻ってきますようにってお願いしてみて」


蛭は必死に願いました。女が再び現れて、一緒に帰ろう、ジュン、と微笑んでくれることを願いました。

しかし女は現れません。

どうしてだろう、と蛭は疑問に思いました。すると、ステラーは眉尻を下げて言いました。


「さっきね、女の人の声が聞こえたの。そのお願いを叶えないでって。

 そっちの願いの力が強すぎて、女の人は帰ってこないんだわ」


蛭はそれこそ吃驚してしまいました。

そうしてまで自分が何故拒まれるのか、まったく分からないからです。

ほたるは続けて言いました。


「女の人がね、それは本当に貴方の願いなのか分からないって言ってたの。

 ジュンという人になりきった願いを、貴方のお願いにしては駄目だって」


それを聞いた蛭は、愕然としてしまいました。

彼には、なりきる他に自分を表現することを知りません。

蛭には自分という人格がないことを、この瞬間、はっきりと自覚しました。

誰かになりきることを考えるばかり、ジュンであり続けたあまり、自分とは何かを一切考えず生きてきたので、自分とは、自分の願いとは何なのか、まったく分からないのです。

ステラーは苦肉の策として、他の願いを言うよう提案しました。


「こうなって欲しい、この願いが叶ったら幸せって望むの。

そうすれば、叶えてあげられるわ」


ステラーは名案とばかりに掌を打ち鳴らしました。

けれども蛭はきょとんとして、ステラーの顔を見るばかりです。


「どうしよう。俺は人を幸せにするためにいるはずのに、まるで自分が幸せになる方法が分からないんだ」


これには流石のステラーも、ただただ困り果てるしかありませんでした。

ステラーはその人が願わなければ、望みを叶えることは出来ません。

しかし蛭が自分の幸せを望めないのは、一つの理由がありました。

はっきりとした幸せの形を知らないのです。知らないものを望むことは出来ません。

すると悩む二人に、ジュンがこう言い出しました。


「なら、俺が願おう。お前が、幸せとは何かに気づいて、それを掴めるように」


蛭は驚いて顔をあげました。

ジュンはどうして、そんな事を願うのか、全く分からないからです。


「どうしてだ?お前が俺に幸せになってほしいって願う理由がどこにある?」

「彼女の気持ちが分かるからだよ。彼女はきっと、お前自身の幸せを願っているから」


ジュンのお願いを聞いたステラーは、ようやくほっとした顔をして、蛭と向き合いました。


「貴方が、どうか幸せとは何かを知って、手に入れることができますように」


ステラーの輝く小さい手が、蛭の頬を包みました。

するとどうしてだか、今度は星が燃えるような熱が、左胸に泉のようにとめどなく溢れて、それは涙になって流れていきました。

その涙をステラーの手が掬うと、ぱっと夜空へ放り投げました。

その輝きは星座の隙間をかいくぐって、新しい星々の仲間入りを果たしたのです。


「俺は、幸せになれるかな?」

「大丈夫だよ。星の力を信じて。あとは貴方が、幸せの形を探すしかないの」

「いつになったら分かるかな」

「貴方が泣いて、笑って、悩んで、経験した数だけ」

「なら、あと百年はかかりそう。気が遠いなあ」


ステラーはふわりと浮き上がると、さようならを告げて、二人に手を振って夜空へと帰って行きました。

ジュンは泣き疲れてしまった蛭を背負うと、丘を下ってネオンの輝く町へと向かいます。

蛭は問います。 「ジュン、お前はいま倖せ?」

ジュンは返します。 「多分、死んだときに分かるんじゃねえの」


夜空では星になった涙が、優しく二人を見つめていました。


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